『魔女』は言う――

◆Episode.43 いつか見た、――◆

 白い床、白い壁、白い天井。

 白亜に囲まれた、どこか。

 消毒液の匂いこそしないものの、そこは病院だった。何故、消毒液の匂いがしないのか。それには明白な理由があった。

 ここは、精神病棟なのだ。

 心に何かしらの病を抱えた者が収容される、味気ない施設。

 一応、〈開放病棟〉という名前がついているが、実際のコミュニティは非常に閉鎖的だ。

 市村友希は――小学校の進級を間近に控えた、五年生の春休みに――そこにいた。

「ああ、起きた、のか」

 白亜にはもう、何も感じない。最初こそどこか、何もできないことにもどかしさを感じていたものの、すっかりこの無味無臭の環境に慣れきってしまった。

「ふぁ、はぁ......朝飯、なんだろな」

 食事に美味いも不味いもなかった。そんなものを感じる心は市村にはない。ただ、自分で美味い、と認識している食事が出てくることくらいが、この空間での希望の一つだった。

「さて、と」

 市村はおもむろに立ち上がると、まずはジャージと綿のシャツに着替えてストレッチを始めた。それから、腹筋、背筋、腕立て伏せ、と筋肉を痛めつけていく。

 ここにきてから少しの間はこの行為すらも禁止されていたが、行った方が心身に良いという診断が下ったため、活動することを許されている。

「百十、百十一、百十二」

 ぎ、ぎ、と自分の中で筋肉が軋む音が鳴る。それが、市村の心を支えていた。筋肉の痛みが、市村の心を支えているのだ。肉体的な疲労が、今の市村にとって救いなのだ。

 一時間半ほどのトレーニングを終え、汗を拭き、水分を摂る。

「はぁ。今日もまた暇なんだろうな」

 携帯電話やパソコン、タブレット端末などの持ち込みは禁止されている。こんなことをされてどこが〈開放〉だ、と市村は喉まで言葉が出かかったが、親に勧められて、そして自らが認めてここに来た以上、発言する権利はない。

 コミュニケーションスペースに置いてある本でも読もう、と決めた頃、朝食が運ばれてくる。

 やはり、味はしなかった。



*****



「あれ」

 市村がコミュニケーションスペースに出ていくと、自分と同じ小学生ほどの少女が床に座り込んでいるのを見かけた。

 このスペースは、土足ではなく靴下、あるいは裸足での利用が義務付けられている。そのため、床に寝転んだり座ったりすることは珍しいことではない。

 珍しい、と思ったのは少女の服装だ。


 美麗な、漆黒のワンピース。


 ゴシックロリィタ、というファッションの括りがあることは市村もなんとなく知っていた。だが、少女のその意匠はそれよりもずっと華美でなく、しかし上品で、だが優美だった。

 ここは、あくまでも病院だ。それなのにそんなワンピースを身にまとっている。

 基本的に何を着ても良い、とされているものの、あまりにも普段着には不便そうな服。少女が何を思ってそんな服を着ているのか、謎に思った。

 だから――声を、かけた。

「ねえ、きみ」

「............」

 少女は、応えない。市村がそっと横から覗き込んでみると、少女は空中に視線を漂わせ――否、そんな優しいものではない。少女は、

 ぼんやりと濁り、昏い色の瞳は虚ろな穴のようだ。光はなく、どこか渇いているような、死んで鮮度を失った魚の目を思わせる瞳。少女はそんな瞳で、天井も、空間も、どこか遠くすら見ていなかった。

「ねえ」

 矮躯わいくの少女は人形かと思うほどに精巧に美しい。黒髪はどこまでも黒く、肌は白磁の如き艶を持っていた。同時に、少女は酷く脆いものにも見えた。指先で突いただけで壊れてしまいそうな、危うさ。顔に生気はなく、血が通っているのか、疑問に思えるほどだった。

「はぁ」

 儚げな存在の少女。瞳に何も映さない少女。しかし、市村はそんな少女が気に入らなかった。


 だから――


 肩のあたり。少女の肩は殴るだけで非常に薄いものだとわかった。

 思い切り、というわけではない。むしろ、軽い力で殴ったつもりだ。けれど、少女の身体は力が入っていないが故に小さく跳ね、崩れるように倒れこんだ。

「......気が付けよ、馬鹿女」

 市村が感情を露わにするのは珍しい。だが、無性に苛々いらいらしたのだ。少女がこちらを見ないことに。一切の反応を見せないことに。

「――――、」

 少女は、やはりぼんやりとした瞳で、やっと市村のことを見た。それでも、市村の焦燥は収まらない。追撃か、罵声か。悩んだところで、少女がぽつりと言葉を吐いた。

「『針のむしろ』」

「え?」

「『針の、むしろ』」

 その言葉だけは、市村のことをしっかりと見て言った。

「なんだよ、どういう意味だよ」

「さぁ、ね」

 そして少女は、くすくすと、壊れた人形のように笑った。

「――ッ、気味悪いんだよ、この」

「こら、やめなさい!」

 そこで、市村は看護師に見つかった。

「やべ」

 市村はその場から逃げ出す。気分が悪かった。気に入らない奴を、を殴っただけなのに、それで怒られる。

 いやだから、逃げた。だから、転んだ。

「うおっ」

 つまづいただけだった。足がもつれただけだった。倒れこんだその先に、サボテンの鉢植えがあった。

 転んだ勢いのまま、市村の手はサボテンの【針のむしろ】の中に突っ込まれた。

「い、ってえええええ!!」

「あーあーあ、もう、市村君ってば大丈夫? 女の子を殴ったりするからそんなことになるのよ」

 市村が痛みに悶えてる、後ろから笑い声が聞こえた。

 先ほどの、少女だ。

「くくく......ね、【針のむしろ】に手を突っ込んでしまっただろう?」

「あんた、何者だよ」

 どんよりとした瞳は相変わらずだったが、少しだけ、光を灯している。市村のことを、見ている。

「あんたどうして、俺のこと」

「さぁね。何者なんだろうねぇ。僕も――わからない」


 これが、市村友希と理宮真奈のファーストコンタクトだった。

 二人の記憶から、遠く離れてしまった、遠く放たれてしまった記憶。

 いつか、思い出すであろう記憶。

 古い古い陳述記憶は、もう少しだけ、続く。


【Continue to the next Episode】

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