◆Episode.40 泡沫の姫◆

 臨海公園。

 広大な敷地の中に、様々な観光スポットがあり、花畑やバーベキュー場、観覧車などがある。

 そのうちのひとつに、水族館があった。どうやら理宮はそこに向かうことにしているらしい。

「さぁ行こうぜ、市村くん」

「え、あ、はぁ」

 理宮は何の躊躇いもなく、市村の左手に絡みついた。

 腕を組む、抱きしめる、などという優しい表現でよいのだろうかというほど、理宮は市村に身体を寄せた。まるで猫が喉を鳴らしているときのような、可愛らしい顔で。

(お、うお)

 自然と理宮の胸部が市村の左ひじに当たる。柔らかな感触に、市村の心臓が跳ねた。

「理宮、さ」

「ほらほら、こっちだよ」

 理宮はくい、と市村をリードする。頭一つ小さい理宮から見上げられると、長いまつげに彩られた瞳が特に目立つ。

(こんなに、可愛い人だったっけ。ていうか、俺)

 市村は理宮に対し、何かおかしいものを感じていた。自分で制御できない感情が、胸に溢れているのだ。これは何か。問いかけても、わからない。

「どうしたんだい。ほら、こっちだ」

「わかりました、わかりました。行きましょう」

 そして市村と理宮は水族館へと向かった。

 中に入ると、薄暗い水底を思わせる空間が広がり、大きな水槽が二人を出迎えた。

「わぁ、綺麗だね」

「そうですね」

 当然のように、市村は心を動かされるということが無かった。好みも何も、魚は食べるものか眺めるものか、どちらかでしかない。眺めるよりは食べる方がいい、くらいは思うところはあるが、そこにえり好みは無い。

 だが。


 理宮がぱっと、市村の腕を離れた。


「あっ」

 思わず、声が出た。ぬくもりを失った左腕が、寂しさを覚える。

(......寂しい?)

 それは感じたことのない、何かよくわからない感覚のはずだった。恋したものに、愛したものに対して感じるもののはずだった。

 それなのに。

「俺、今、何で寂しいって思ったんだ」

 そんな市村を放っておいて、理宮は水槽に夢中になっている。青い水槽を黒い瞳に映し、楽しそうな表情で悠々と泳ぐ魚たちを見ている。

(楽しそうだな)

 水槽に夢中になる理宮に、市村は少し見とれていた。

 青い光に照らされてもなお純白を保つ肌。柔らかで艶やかな漆黒の髪。深淵を覗く瞳。華奢な身体。細い腕、脚。何をとっても、理宮を〈美少女〉と定義づけるのにふさわしい。

 こうして見てみると、理宮に〈恋をする〉であろう人間は少なからずいるのではないかと、市村は思った。ここまで美人で、聡明ならば彼女になってもらったらさぞ気分が良いだろう。

 だが、市村には関係ない。

 所詮、理宮は〈理宮真奈〉という存在は有象無象の女子と同じだ。

 ――同じ、はずだ。

「市村くん、こちらにおいでよ」

 それなのに、どうしてか、理宮の魅力に勝てない。

 これまで、市村が助手として理宮と行動を共にしてから、何度も『願い』を叶える瞬間を見てきた。望んだ結果になろうとも、ならなくとも、『願い』は確実に【運命】になった。

 不思議と、市村もまた理宮の予言通りになるのかと思うようになっていた。愛情、恋情、そういったものを気持ち悪いと思う市村だったが、理宮の存在は何故か、心地良い。

「ほらほら、早く」

 理宮が軽くはしゃぐ。前を見ずにほんの少し歩き、振り向こうとした瞬間だった。

「きゃっ」

 理宮が、着物を着た女性にぶつかってしまった。妙齢の女性だ。

「ああ、ごめんな――ひっ」

 女性を見た理宮の表情が、一変する。先ほどまでの楽しそうな表情が掻き消え、代わりに恐慌が顔を支配した。

「あら。もう、きちんと前を見てちょうだい」

「は、い......ごめんなさ、い。ごめんなさい」

「え? あ、ああ。もういいですから。ね」

「ごめんなさ......は、はっ......」

 明らかに、理宮の様子はおかしかった。息が上がっている。肩が震えている。声が掠れている。

 これは、危ない。そう悟った市村は、理宮のもとへ駆けていき、理宮の肩を優しく抱いた。

「理宮さん! もう、もう大丈夫ですから」

「ごめ、なさ......はっ......ぁ......」

「あの、その子、平気なの?」

「はい、もういいです。どうぞ離れてください」

「ええ......」

 市村の眼光が自然と鋭くなっていた。女性は気圧されたようにその場を去る。理宮は、市村の腕の中でまだ震えている。

「はっ、はっ、はっ......く、う......」

 どんどんと苦しそうになる理宮に、市村はそっと声をかける。

「大丈夫です、理宮さん。もうあの人はいないですから。怒られることもないですから。落ち着いてください」

「いち、む、ら、くん......」

「そうです。俺ですよ。理宮さん、こういうときにはいつもどうしてるんですか」

「く、すり......」

「薬ですね。呼吸は、過呼吸ですか?」

 小さく理宮は頷く。まるで、怯えた子供のようだ。

 市村は自分の持っている限りの知恵を出す。過呼吸。過換気症候群。酸素の過剰摂取による発作だ。つまり、自分の吐いた二酸化炭素を肺に戻してやればいい。市村は持っていたハンカチで理宮の鼻と口を軽く覆い、近くにあったベンチまで誘導した。

「鞄、開けますよ」

 理宮の鞄の中を見ると、頓服時服用と書かれたラベルの貼ってあるビニールポーチ、それと小型の水筒が入っていた。ポーチの中には、数種類、数粒の薬が入っている。

 その薬を、理宮に飲ませた。理宮の喉が上下して、薬剤が嚥下されたことを確認してから、市村はようやく落ち着いた。

 過呼吸になっていた理宮も落ち着きを取り戻し、静かに呼吸をするようになった。

「すまなかった、ね。あの年代の女性は苦手なんだ。はは、やはり僕は檻の中に居るのがお似合いのようだ」

 自嘲気味に、理宮は言う。いつもの市村なら、そんなのは当たり前だと切り捨てるところだ。だが――今回は、違った。

「そんなこと、ないです」

「うん?」

「理宮さん楽しそうに水槽、見ていたじゃないですか。それなのに、檻の中に閉じ込められっぱなしなんて、そんなのおかしいです」

「市村くん」

「もっと楽しんでいいんですよ。俺が、またこうして介助しますから。だから、そんなこと」

 言わないでくれ、と言おうとして。市村が理宮に対して特別な感情を持ち始めていることに気が付いた。

(なんだ、この、感情)

 市村が複雑な感情に戸惑っていると、理宮がくすりと笑った。

「市村くん、そんなに必死にならないでくれよ」

「え、だって」

「大丈夫だよ。僕の【運命】はもうわかっている」

 そう言って、理宮は立ち上がった。もうふらつくこともなく、しっかりと立ち上がることができた。

「さぁ、デートの続きをしようぜ。一日というのは有限なんだ」

 理宮はそう言って、いつもの表情――おとぎ話に出てくる猫のように、悪戯っぽく笑った。

 ああ、これが理宮だ。市村は理宮の表情を再確認して、さらに思うことがあった。

(この人を、守らなくちゃ)

 泡沫のように、簡単に死んでしまいそうなか細い命。理宮真奈という儚い存在。理宮を、守らなければならない。

 そんな使命感を抱いた市村は。

「はぁ、わかりましたよ」

 と、いつもの調子で理宮の後に続いた。



【Continue to the next Episode】

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