憂鬱な体育?[1/2]


 体育。

 それは私がこの世で最も苦手な単語の一つです。小学生の時は「たいいく」なのか「たいく」なのかしばしば混乱してました。「エレベーター」と「エスカレーター」みたいなものでしょう。いや、ちょっと違いますか。ちなみにカレーが回転寿司みたいに運ばれてきそうなほうがエスカレーターで、そうでない方がエレベーターです。私はそうやって覚えました。

 今日は持久走で、女子は千メートル、男子は千五百メートルを走ってタイムを測るようです。うーん、千メートル。改めて距離を意識すると憂鬱で、センチメンタルになってしまいます。直線で走って千メートルなら、まだ達成感がありそうですが、グラウンドの周りをぐるぐると回るだけなので、退屈で目が回ってしまいそうです。でも実際は退屈だなんて、言える余裕はないのだと思いますが。

 天気は悔しいくらいの秋晴れで、少し暑いですがおおむね丁度いい気温と言えるでしょう。空は綺麗な青で、雲はどこにでもありそうな形で、ぽっかりと浮かんでいます。風はそよそよと吹いていて、頬を撫でるように私の横を通って行きます。たぶん今日は絶好の体育日和なのだと思います。残念なことに。


「どうしたの、こだま。浮かない顔して」

 一緒に体育に向かうみゆきちゃんが、私の顔を見て言いました。

「いやあ、空が綺麗だなって思って」

「嘘おっしゃい」

 みゆきちゃんは笑いました。

「そんなに持久走が憂鬱?」

 やっぱり、みゆきちゃんにはお見通しだったみたいです。

「うん」と私は答えました。

「だってさ、球技ならまだいいんだよ。得意な人が活躍して、私に求められるのは必要最低限の働きだから。バスケだったら、来たボールをそのまま誰かにパスする、みたいな。でも持久走は違う。走るのが得意な人も、苦手な人も、みんな同じだけ走らなきゃいけない。みゆきちゃんにとっての千メートルと、私にとっての千メートルは全然違うのに。私はその時平等とは何かを考えずにはいられなくなるよ。同じ千メートルを走るのが、本当の平等なのかって」

「へえ、本当の平等、ね」

 みゆきちゃんは一瞬神妙な顔つきになりましたが、すぐ顔をほころばせました。

「それよりこだまはハンバーグのことを考えたほうがいいんじゃない?」

「あーもう人が真剣に悩んでるのに」

「悩んだところで仕方がないでしょう。ちょっと急ぎましょ、みんなもう集まってるから」

「あ、待ってよみゆきちゃん」

 みゆきちゃんは早く早く、と言いながらリズムよくジョギングを始めました。


 彼女はとても変わったと思います。

 昔は(といっても一年前くらいのことですが)もっと静かで、人によっては威圧的に感じる雰囲気さえありました。人と話すことはあまりなく、いつも一人でいたと思います。でもみゆきちゃんは、友達がほとんどいなかった私とは違いました。彼女は一人でいることを苦に感じていなかったのです。むしろそれが自然だ、それが私の姿なのだというように、一人静かに教室を眺めたり、読書をしたり、勉強をしたりしていました。私は彼女のどこか深くを見つめるような目が好きでした。みゆきちゃんが見ているのはどんな世界なのだろうと思いました。彼女は勉強もできて運動もできるのに、あえて一人でいて自分だけの世界を持っている。私はそんなみゆきちゃんに憧れていました。

 だから、初めて彼女から声をかけてもらった時は、本当に嬉しかったのです。内容は宿題の催促と、ちょっとした雑談だったのですが、それがとても嬉しかったのです。私はその時のことを今でもよく覚えています。そして彼女のことをもっと理解したい、できることなら心を通わせる親友になりたいと、期待と不安を胸に一歩踏み出す決心をしたことも、忘れることはないでしょう。

 あれから、色々なことがあったな、と思います。

 それでも今こうして楽しく会話ができることを、幸せに感じます。

 ……そしてこの体育さえなければ、もっと幸せに感じられたことでしょう。


 ウォーミングアップを終えると(校庭を二周ジョギングします)それだけで私はへとへとに疲れてしまいました。みんなはぶつぶつ文句を言いながらも、千メートル走にむけてストレッチをしたり、準備をしたりしています。なんだかんだ言いながらも、他の人は走るのがそれほど嫌いではないのかもしれません。嫌よ嫌よも好きのうち、と言いますし。お寿司。

 どんよりとしていて今にも夕立が降りそうな気持ちでいるのは、私くらいなのでしょうか。


「こだまは走るの得意なほうだっけ?」

 足を動かすようなストレッチをしながら、由美ちゃんが聞いてきました。

「私も運動が得意だったら、由美ちゃんみたいに運動部に入ってたかもね。でも残念ながら私は文芸部を選ばざるを得なかったんだよ。とても残念なことに、運動全般が苦手だから。まあ走るだけじゃなくて、筆を走らせるのも苦手なんだけど」

 由美ちゃんはにこにこして言います。

「そんなこだまには残念なニュースがあるよ。うちらのクラスは理系でしょ? つまり女子が少ないわけさ。そんでもって来月には体育祭があって、男子と女子のする種目は分かれているものも多い……後はわかるね?」

「私も、何か競技に出なきゃいけないってこと?」

 由美ちゃんは体をゴムみたいに動かしながら頷きました。女子テニス部である彼女はとても体が柔らかいのでしょう。自由自在に動かしています。

 それにしても、私はそのことには気がつきませんでした。体育祭の種目決めはたぶん今週中にあります。去年のようにまったり観戦とはいかなそうです。

「でも私が出たらクラスみんなの足を引っ張っちゃうよ」

「こだまが足を引っ張ってくれたら喜ばない人はいないでしょ。うちなんかは泣いて喜ぶね。どこまでも引きずり込んでくれていいよ。蟻地獄みたいに」

「……由美ちゃんって時々変なこと言うよね」

 そうかも、と言って彼女は笑いました。

「冗談はさておき、体育祭なんて遊びみたいなもんだし、気楽にやればいいと思うよ。楽しんでやるのが一番だと思うし。ほんとに。……でもまあ、、絵里のクラスには負けられないけど」

「本当に気楽にできるのかな……」


 絵里ちゃんは女子テニス部の部長(私と同じ二年生です)で、時々私のクラスに遊びに来るので、私もみゆきちゃんも何度か話をしたことがあります。由美ちゃんは絵里ちゃんをライバル視しているみたいです。

 先生が笛を吹いて、スタート地点に集合するよう指示をしました。由美ちゃんは去年のタイム超えるぞおなどと言いながら走っていきます。それを見送りたい気持ちを抑えつつ、私もできるだけゆっくりそこに向かいました。

 スタート地点では走るのが早い人は前のほうに、遅い人は後ろのほうに並びます。私は小学生の時の背の順なんかでも、どちらかと言うと前のほうにいることが多かったので、たくさんいる人の後ろに立つことは滅多になくて、今は新鮮な気持ちです。由美ちゃんと話したことで心の中の天気も少しだけ良くなったようです。前にいる人の間からみゆきちゃんの横顔とポニーテールが見えました。私は完走を目標に、走り始めました。



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