第26話


 目が覚めたのは、もうすぐ二限の授業が終わる頃だった。体調はだいぶ良くなっていた。白いカーテンを動かすと、養護教諭の川口先生が笑顔を見せた。

「よく眠れたみたいね。一時間目が終わった時にも声をかけたんだけど、ちっとも起きる気配がなかったから。もう大丈夫?」

「……はい」

 私の顔を見て、彼女は微笑んだ。

「教室に行く前に、顔を洗ってらっしゃい」


 荷物を持って教室の扉を開くと、クラスの皆の視線が集まった。席に向かおうとすると、こだまがやって来た。

「みゆきちゃん、もう大丈夫?無理しないでね」

 いつもと全く変わらない様子で言うので、私は立ちすくむほかなかった。

 ――どうして?恋文をもらったばかりなのに。

 そのくらい、彼女にとってはなんでもないことなのだろうか。

「ええ、ありがとう」

 なんとか返事をする。

 席に着くと、渡部くんと目があったので、軽く頭を下げた。

 こだまが不思議そうに見つめてくる。

「今朝ね、彼に保健室に連れてってもらったのよ。倒れそうだったから」

「ああそうなんだ」

 少し考える素振りを見せてから、こだまが言った。

「でも渡部くんっていつも私より学校来るの遅いよね。……みゆきちゃん、今日も寝坊したの?」

 意外と鋭い。今日は寝坊じゃなくて故意なのだが。

「……そうよ」

「駄目だよ、みゆきちゃん。昨日も遅くまで勉強してたんでしょ。無理しないで、ゆっくり休むことも大事だよ」

 人の心配をする前に考えることが……と喉まで出かかった。だけどこだまの好意も大事にしたいので、その言葉は呑み込んだ。

「その通りね、ありがとう、こだま」

 話していると、由美さんと佳菜子さんもやって来た。二人も同じように私の体調を気遣ってくれた。私は赤くなった目を見られないようにしながら、適当な返事を続けた。

 

 こだまは、その日は何事もなかったかのように、いつも通りに過ごし、いつもと同じように私と一緒に下校した。恋文のことが話題にあがることはなかったし、私からもその事を聞くことはなかった。

 下駄箱に着いた時は、少し怖かった。こだまは何を考えながら靴を取り出しているのだろう。今日の朝のことを思い出さないはずがない。私は彼女の横顔を見ながら、徐々に押し寄せる恐怖と戦っていた。それでも、こだまは顔色ひとつ変えず、いつものように手を振って帰っていった。


 家に帰って、自分の部屋に入り、荷物をおいた。帰り道、歩くたびに不安が広がっていった。胸がいっぱいになって、苦しい。こだまが何をしているのか、何を考えているのか、わからない。わからないということは私には恐怖でしかない。でも、私には彼女に聞く勇気はない。どうしたらいいのか、どうするべきなのか、わからず、ただただ怖かった。

 私はこのまま部屋にいると恐怖心に押しつぶされる気がしたので、部屋の外に出た。そして真向かいの姉の部屋に入る。

 すでに上京し社会人になっている姉の部屋は、私の部屋とは対照的だ。物が多く、勉強机の上には本や化粧品、筆記用具、お菓子の箱、旅先で買ったお土産などが所狭しと置かれ、壁には姉の好きなバンドのポスターが貼ってある。ベッドの上にはぬいぐるみが数個あり、高校時代の参考書や香水、ジャージのズボンなどが散乱している。床にも物が多いので気をつけないと何かを踏んづけて壊してしまいそうだ。姉は私や母が勝手に部屋を掃除をするのを非常に嫌がるので、この部屋は常に散らかったままになっている。

 私は普段、物が少なく整頓された自分の部屋を居心地よく感じるが、今日のように心が乱れている時は姉の部屋に入ることが多い。どこを見ても情報量の多い姉の部屋は普段はうるさく感じるが、今はかえって気が紛れて良かった。

 部屋の空気を入れ替えるため、窓を開ける。九月の風は夕方といえど暑さを保っている。

 私はベッドの上に腰を下ろした。

 この部屋が端的に示す通り、私の姉は私とは真逆の人間だった。彼女は考えるよりも先に行動をする人間で、側からみると迷いがないように見えた。友人は多く、付き合った恋人も多かった。よく旅行に出かけ、珍しいものを見つけてはお土産を買ってきてくれた。

 私は行動よりも先に考える人間だ。消極的で、内向的で、友人は少ない。二度ほど告白をされたことはあるが、付き合ったことはない。外に出かけるのが苦手で、家でひたすら勉強をしたり、料理をしたり掃除をすることに喜びを覚える。姉とは違い、地味な人間だ。

 それでも、姉と私は不思議と気が合った。姉は旅行先の出来事や恋愛の話をして、私は作った料理の話などをした。思えば、私が出不精なのは、姉が外の話をしてくれるからかもしれない。外に出なかったとしても、私は姉の話を聞くだけで十分だったのだ。

 姉には、こだまの話はしていない。姉は自分自身の恋愛の話はするが、私には聞かなかった。私に恋愛経験がないことを知っていたのだろう。そして話の終わりには「みゆちゃんにもいつかいい人ができたらいいね」と言った。一つの嫌味も含まない、純粋な笑顔で。それが姉の魅力だった。

「私にも、いい人ができたの」

 私は脳内の姉に話しかけた。

「クラスメイトの女の子。南山こだまっていうの。いい名前でしょう?とってもいい子で、素直で、すごく優しいの」

「よかったわね」姉が微笑む。「みゆちゃんにもそういう人ができたのね」

「でもね」

 私はベッドに横になった。「こだまには、彼氏ができるかもしれない。優しいから。芯があって強い子だから。こだまのことが好きなのは、私だけじゃないの。私ずっと、こだまの一番近くにいるのは私だと思ってた。ずっとそう思い込んでた。でも、そんなに甘くないのかもしれない」

 姉は何も言わなかった。

「私、どうしたらいいかわからない。こだまをとられたら、私、辛くて生きていけないかもしれない」

「みゆちゃん」頭の中の姉はいつも楽しそうに笑う。「彼氏ができたって、こだまちゃんがどこかに行ってしまうわけじゃないんじゃない。今みたいに、一緒に帰ったり、勉強したりはできるわよ」

「違うの」

 姉さん。私は同性愛者なの。

 大好きで気の合う姉にも言えなかったこと。ずっと誰にも言えずに抱え込んできた事実。口に出そうか、限界まで悩んで、言う直前で引っ込めた言葉。頭の中だったら言えるのに。私はずっと隠してきた。

 頭の中の姉はまるで気にしないという様子で笑う。

 初恋は幼稚園の先生。小学校高学年では同級生の女の子を好きになった。彼女は東京に引っ越してしまい、中学では恋愛をしないと誓った。そして高校ではこだまを好きになった。

 そのことを私は誰にも話したことがない。全て心の中に閉じ込めて、自分一人で対峙した。

 でも、それもそろそろ限界に思えた。特に今回の件は。

「私、どうしたらいいかわからないの」もう一度言った。「どうしたらいいかわからないの。こだまが好きなの。とられたくないの。彼氏を見て、嫉妬したくないの。姉さん」


 助けて。


 それを聞いて、脳内の姉達は興味深そうに口々に言った。「彼氏持ちだと好きになったらいけないの?」「略奪愛」「恋愛にルールはないよ」「襲ったら?」「告白したら?」「諦めたら?」「忘れたら?」「楽しいことは他にもあるよ」「拒絶、したら? こだまちゃんを」「勝ち目はないよ、みゆちゃんに」


 姉の声じゃない。これは私の声だ。こだまとは正反対だ。いつも利己的で、自分のことばっかりで、他人を許せず、頑なで、自分勝手。本当に嫌になる。こんな私に、こだまを好きでいる資格なんて、ない。

 涙が流れて、目が痛くなる。いくら泣いても、いくら考えても、私はこだまのことを諦めることができなかった。行動する勇気も生まれなかった。私はただただ悲しく、時間だけがすぎていった。

 外は暗くなっていた。

「ねえみゆちゃん。ピアノ、弾いてよ」

 その時私は姉の声を聞いた。その声は私の頭の中ではなく、本当に姉が言ったように聞こえた。私は部屋を見渡したが、もちろん誰もいない。

 私はハンカチで顔を拭き、窓をしめた。部屋に置いてあるオルガンの周りのものをどかし、椅子に座る。これを弾くのは久しぶりだ。それでも指は動き方を忘れてはいなかった。小学校の頃何度も弾いた曲。私はそれを一心不乱に何度も弾いた。それをしている間は、私は少しだけ、自由になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る