第2話

 教室に入ると、いつもの日常がスタートした。

 いつも、授業が始まるまでの朝の時間は新書を読んで過ごす。本を読む代わりに自習をしてもよく、授業中に集める課題などをする生徒も多いのだが、私は新書を読むと決めていた。本を読める時間は限られているからこの時間は貴重で、そう思うからこそ内容が頭に入るのだ。そして程よく集中して、時間を忘れかける頃にチャイムが鳴り、授業が始まる。

 授業の受け方も、高校二年にもなると身についてきた。最初の頃は授業の進度が遅く、隠れて違う勉強をしていた時期もあったのだが、集中できないし、たいして身につかないのでやめた。結局一を聞いて十を知る努力をするのが一番だと気付いたのだ。だから先生の話は一言一句逃さず聞くし、教科書も隅から隅までくまなく読む。その様子が外からは模範的な生徒に見えるのか、私は学級委員という肩書きまで与えられている。

 昼休み。

 私はいつも一人でお昼を済ます。周りの人たちは何人かでかたまって食べていて、その話し声をラジオ代わりに私は今日のお弁当の出来を反省したり、授業中意味の分からなかった英単語を思い起こしたりする。昼休みが始まってしばらくすると放送委員が音楽を流すので、何も考えることがない日にはただその曲を聴くことにしている。今日は何やら可愛らしい、というよりあからさまに媚びた感じの歌声が響いていて、クラス四十人中三十人弱を占める男子がざわついていたのが印象的だった。

 そして私はいつも通り放課後を迎えた。

 今日もいつもと変わらない、特筆することのない日になるはずだった。家に帰ってからの勉強の予定を考えながら帰ろうとする時のことだった。

「みゆきちゃん、一緒に帰ろう」

 澄んだ柔らかな彼女の声が、忘れていた昨日の不思議な教室の雰囲気を思い出させた。彼女の声は小さかったが、私はちゃんと聞き取ることができた。

「こだまさん。でも家の方向は逆なのでしょう?」

「うん。だから昇降口まで」

 ――昨日と同じだ。

 昨日も、泣き止んだ彼女と一緒に職員室へ課題を出しに行き、昇降口まで歩いた。あった会話といえば下駄箱で家の方向を聞かれたくらいだった。彼女とまた一緒に帰ることはないだろうな、私は思っていた。きっと彼女は退屈だったはずだ。

 だから私は言った。

「こだまさん。私、あなたに協力すると言ったけれど、だからといって無理に気を使うことはないわ。だいたい、あれは私の個人的な……」

「無理なんかしてないよ」

 か弱い声の持ち主ははっきりそう言い切って私の声をさえぎった。それでも言葉とは裏腹に大きな目は私の反応を伺うようにぱちくりと焦点が定まらない。

「だってね、私、みゆきちゃんと仲良くしたいから……」

それは次第に消え入りそうになる声だった。私には聞き取れた単語を確認のように呟くことしかできなかった。

「仲良く……」

 南山こだまはこくんと頷く。その頬はうっすらと赤く染まっていて、緊張しているのか唇が少し震えていた。

 ここまで緊張していることがひしひしと伝わってくる人間も珍しい。私は訪れた「非日常」に対して少々困惑していたが、彼女の様子を見るとかえって冷静になれた。仲良くしてほしいだなんて面と向かって言われた経験はなかったが、こんな表情を浮かべる同級生に断りを入れるのが難しいことは容易に想像できた。

「わかったわ。では、帰りましょうか」

 そう言うと彼女はほっとした様子で、嬉しそうに微笑んだ。


「みゆきちゃんは部活とか入ってなかったよね」

 隣を歩くこだまが話しかけてきた。

 一緒に帰ることを了承したものの、正直こういう会話は苦手で、できればしたくない。

「ええ」

「もったいないなあ。みゆきちゃん運動できるのに」

「そんなことないわ」

「そんなことある。私は運動とか全然だから、かっこいいなって思ってたんだ。去年の体育祭もすごかったし」

 去年の体育祭、か。あまり記憶にないが、たぶんリレーとかに出たのだろう。

 それにしても、去年も同じクラスだった彼女とはほとんど接点がなかったが、一応彼女の記憶の中に私は存在していたみたいだ。私は……と思い返してみるが、彼女の記憶はほとんどない。クラスにいる目立たない女子の一人、という印象だ。ただぱっちりとした目と優しい声で、男子には人気があるようだった。そういう話に疎い私にも、彼女に好意を持った男子の噂話が耳に入ることもあった。確かに、どことなく野暮ったい感じはするものの、昨日の私が泣き顔に思わず見とれてしまうくらいには、魅力的だった。

 彼女が私の返事を待っているように感じたので、私は、

「そう」

 とそっけない返事をした。というかこれしかできないのだ。

 世間話は苦手だし、時間の無駄だとも思う。だから極力したくないし、その結果友達が一人もできなくたっていいと思っていた。一人でいる方が、居心地がいいから、無理して作ることもなかった。今まで、ずっと、そうしてきた。いや、正確には、中学のはじめだったか、小学校の高学年だった頃に無理をしてでも友達を作ろうとしたことがあったが、その時に私には向いていないことがはっきりとわかった。他人のペースに自分を合わせるのがとてつもなく困難で、苦痛なのだ。それに比べたら、一人でいることの苦痛は微々たるものだ。ただ、時々少し寂しくなるだけで。

 会話はそこで途切れ、廊下を歩く音が耳に入るようになってきた。教室を出る時に先生に声をかけられ、そこで少し時間を取られたので、すでに廊下を歩く人の数はまばらになっていた。

 それにしても「仲良くしたい」か。

 どうしてわざわざそんなことを言ったのだろう。私なら、自分からそんな厄介なことを引き起こす真似はしない。小学生か中学生ならまだしも、高校生にもなって、「仲良くしたい」だなんて。言われた側が恥ずかしくなるくらい、ストレートな言い方だ。それをあの気弱な彼女が言うのだから面白い。

 でもそんな彼女が少しだけ、羨ましくも思える。私の失ったもの、あるいは最初から欠落していたものを彼女は持っている気がする。それはどちらかというと直感的な感想だ。同時に、今の私に不足している点があることを自覚していることの証拠でもある。もちろん私は完璧な人間ではない。欠落だらけな人間だろう。それでも自覚している欠点は直そうと努力はしてきたつもりだ。ただ今回の自覚は、具体的な提示ではない。彼女の存在は私に欠落している点があることをそれとなく示唆しているが、それが何かは今の所わからない。そしてそれは――これも直感的な感想だが――今後の長い人生を送っていく上で重要な障壁となり得る気がする。まあまだ十七歳しか生きていないので、この感覚が正しいのか、判断のつきようがないのだが。


 隣にいるこだまと目が合った。彼女は興味深そうにこちらを見つめていた。

「みゆきちゃん、頭いいから難しいこと考えちゃうんだねえ」

 そう言ってこだまはふふ、と笑う。気づけば、昇降口についていた。

 半分以上は無言の時間だっただろう。それでも彼女はそれを気にするどころか、どこか楽しそうにしている。私がさっき返事を待たれているように感じたのは、気のせいだったのだろうか。

「じゃあ、また明日ね」

 そう言ってこだまが小さく手を振るので、私もつられて手を振り返した。西門に向かって歩く彼女の小さな背中が離れていくのを、私はしばらく見つめていた。

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