第11話 誘いの巨樹

 森に足を踏み込んだ二人は、すぐに村の周りのそれとはまったく違う空間なのだと知った。ラスラが茂みに足を突っ込めば、細長い草が一斉にびぃぃぃんっと音を立てた。


「び……っくりした」


 ラスラは顔をひきつらせて足を引っ込めた。

 まだ震えている葉をつついて、イオは青い目を輝かせた。


「面白いな。ヨナキグサだよ。『動植物大全』に書いてあった。こんな所に生えてるなんてなぁ」

「前から思ってたんだけど、その本やけに詳しくない? 村の周りのことだけじゃなくてさ。まるでおれたちみたいに村の外へ出たことがあるみたいだ」

「いや、実はそうなんじゃないかな」


 イオはにやりと笑った。


「この本の作者って、じい様のそのまたお祖父さんなんだってさ。しかもその人は若い頃、何度かふらっと村から消えたことがあったって」

「うそだろ?」

「じい様が言ってたんだよ。結局最後は、いつもみたいに村から出てって帰ってこなかったらしいけど。この本はいなくなる前に書いたものなんだって。信じられない話ばっかりするから、あんまり相手にされなかったんだ。ぼくも半信半疑だったんだけど、こうして自分の目で見ていると、このカシバって人はちゃんと村の外の真実を書きのこしてくれたんじゃないかって思うよ」


 イオはそう言ってコートの下の本を叩いた。

 二人はヨナキグサを避けて森の奥をかき分けて行った。不思議と岩のごつごつした地面を踏むよりずっと楽な気がした。

 イオは目の上に手をかざして、頭上に伸びる巨樹を仰いだ。


「どうしてトカゲの長はここを避けたんだろうね」

「馬じゃ通りにくいからだろ」


 つまらなさそうにラスラは答えた。さほど興味はないようだ。

 なんとなくイオは釈然としない思いで、首を傾げた。


「ちょっとあの木まで寄ってみないか?」

「なんのために? 早く追いかけなきゃなんないんじゃないの?」


 ラスラはそわそわしていた。頭上の巨樹をちらちら見ながら、話をそらしたそうにしていた。

 イオは眉をひそめてラスラを見た。


「どうしたのさ」

「いや、どうってわけじゃないけど……」


 ラスラは視線をさまよわせた。


「なんか落ち着かないんだよね、あの木。嫌な感じがする。たぶんトカゲの長が避けたのもあれのせいなんじゃないかな」

「また勘?」

「うん……」


 こういう時のラスラの勘は信頼できる。イオはそれを今までの経験上学んでいた。


「分かった。でも、ちょっとだけ覗いて来ていいかな? あんまり近付かないからさ」


 正直な話、この時のイオの好奇心は最高潮に刺激されていた。だめだと言われたら余計に気になる。トカゲの長がわざわざ避ける、ラスラが意味もなく嫌がる、その理由が知りたい。

 もちろん、ラスラの警告を無視するつもりはない。少し見るくらいなら大丈夫、そうイオは自分に言い聞かせた。



 イオが巨樹に向かって歩き始めると、ラスラは戸惑った様子だったがイオの後ろについてきた。


 巨樹の周りはなぜか木も草も、一本も生えていなかった。ぽっかり空いた空間は、村の広場を思い出させた。ふだんは村人の情報交換の場となっているが、感謝祭の際には大きなかがり火がたかれるのだ。

 近くで見る巨樹はほれぼれとするほど堂々としていた。イオにはなぜこの木に嫌な印象を抱くのか分からなかった。

 木もれ日が巨樹の広場に差し込んで光っている。イオは誘われるように、そちらへ一歩歩み寄ろうとした。

 途端に、ぎゅっとラスラに袖をつかまれる。


「なに?」


 やや苛つきながらイオはラスラを見た。


「近付かないって言っただろ」

「よく見てみてよ。なんにも危険なことなんてないじゃない」

「だけどよくないって。おれはともかく、トカゲの長まで避けるんだぞ。この木には何かある」

「それを調べたいんじゃないか。大丈夫だよ。なにも起きやしない」


 イオは言い張ったが、がんとしてラスラは譲らなかった。


「頼むって、イオ。ここから離れよう。いつもこういう時に止めるのはイオの方じゃん。たまにはおれの言うことも聞いてくれよ!」


 それがあまりに必死の懇願だったので、イオは驚いてラスラに顔を向けた。


「そんなに嫌な感じなの?」

「さっきは遠くだったけど、今ははっきり分かる。トカゲの長と同じなんだ。胸をしめつける感じがする。あの木はおれたちが自分から近付いて来るのを待ってるんだよ」


 にわかには信じられない話であった。

 だが、確かにイオの心の中には、あの木に一度だけ触れてみたいという強い思いがわき起こっていた。一体なにに惹かれているんだろう?

 わけもない衝動に気付き、イオはぶるりと身を震わせた。


「ごめん。ぼくの方がおかしかったみたい。どうしてか、あの木に近付きたくてたまらないよ。こんなに立派な木だからかと思ったけど」

「それが罠なんだ。自分の心なのか、それとも誰かに誘導されてるのか分からなくなる。ここに来るまでのイオ、まるで何かに取り憑かれてるみたいだった。お願いだから、こっちに戻って来てくれよ」


 知らない内に、イオは広場に立っていた。ラスラがまだ腕を伸ばして袖をつかんでいるが、それがなければ無意識に巨樹まで歩いて行ってしまっていたかもしれない。

 イオがきびすを返そうとした時、すぐそばの茂みから野うさぎが一匹飛び出してきた。

 二人が見ている前で野うさぎは広場でぐるぐると走り回った。まるで目に見えない何かを追いかけているようだ。やがて野うさぎは巨樹へと駆け出した。



 あっとラスラは言葉を飲んだ。



 いつからいたのだろう。巨樹の周りには真っ白いもやがたくさん浮いていた。さっきの野うさぎのように広場を旋回しているものもあれば、巨樹の枝にひっかかって風に揺れているものもある。

 白いもやは、ふわふわと綿毛のように巨樹から離れ、走ってきた野うさぎに次々とまとわりついた。ラスラにはそれが、巣にかかった蝶に群がってむさぼる子蜘蛛に見えてぞっとした。

 イオも目を見開いて、食い入るようにそれを見ている。

 二人が見ている前で野うさぎはぶるぶる震えだし、やがて動かなくなった。

 白いもやは、二人を誘うようにふわりふわりと宙を浮いている。


「イオ!」


 反応がなかった。

 何度も呼んで、やっとイオはラスラの顔を見る。

 イオは途方に暮れた顔をしていた。


「ラスラ……」

「ここから離れよう。早く!」


 ラスラはイオを引っぱり、広場から無理やり引き離した。そうでもしなければ、あの野うさぎと同じようにイオも白いもやに囲まれてしまうのではないかと思ったのだ。


 すると白いもやたちの動きに変化があった。


 突然、二人を追いかけるように巨樹から離れてこちらに迫ってきたのである。

 ラスラはまだぼんやりしているイオの背中を押して、広場から逃げ出した。このままここにいてはいけない。自分たちは、決して踏み込んではいけない場所に入ってしまったのだ。


「ラスラ、寒い」


 ラスラに押されながら、イオは訴えた。腕をしきりにさすっている。


「がまんしろよ。走ってるうちに暑くなるって」


 ところが少しすると、ラスラも冷たい風に背中をなめられている気がした。骨をも震えさせるほどの冷気だ。やがて腕や顔までも冷たい風にさらされて、ラスラはたまらず怒鳴った。


「追いかけてくんな! 立ち去れっ!」


 ラスラの怒号がきいたのかは分からない。

 しかし冷気が追ってきたのはそれきりであった。ラスラはイオを連れてがむしゃらに走った。進むべき道はどっちだったか、そんなことは考えていられなかった。

 巨樹が目の前から見えなくなると、イオは耐えられずにその場にうずくまってしまった。真冬の極寒にさらされたように、小さくなった体はがたがた震えていた。

 イオに触れて、ラスラは思わず手を引っ込める。氷のように冷たかったのだ。


「おい、意識はあるかっ!」


 イオは震えながら、かすかに首を動かした。


「気分悪い?」


 ラスラの問いかけに、またイオは首を動かした。


「ちょっと待ってろ」


 ベルトからナイフを抜き取り、目印代わりにそばの木に突き立てた。

 とにかく火だ。火を起こして体を暖めなければならない。体温が下がりすぎると意識を保てなくなってしまうと聞いたことがある。

 ラスラは自分のコートを脱ぎ、イオの肩にかけてやった。


「すぐ戻ってくるから。ここから一歩も動かないでくれ。いいな?」


 そう言って、ラスラは枝を集めるために走った。

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