第2話 忌避
久美子は受話器を置くとため息をついた。一番聞きたくない弘志の声だ。三年前、沙羅が十八歳の誕生日を迎えた日以来の電話だった。養育費の代わりに、沙羅の進学費用を振り込むという弘志の提案の電話だった。
「……沙羅は進学しませんのでご心配なく。もうこれであなたとは赤の他人ですから、金輪際連絡してこないで下さい。さようなら」
分かったよ、もう連絡しないと弘志は約束したではないか。勝手な弘志に久美子は苛立ち、和室に向かう。その部屋には水晶がある。床の間の高さ十センチほどの台の上に置かれた水晶玉に手をかざす。久美子は直径二十センチの水晶玉に心が浄められていくのを感じた。
三年前のあの日もそうだった。
「……お母さん、私専門学校に行きたいの。進路相談で先生にそう言っていいかな。私、トリマーになりたいんだ。ねえ、いいでしょ」
「トリマーって何よ!」「えっ、動物の美容師さんだよ」
「そんな事知ってるわよ。お母さんが言ってるのはそういう事じゃないの。高校を卒業したら沙羅はご奉仕頑張るんでしょ!専門学校に行ったら集いの時間に間に合わないでしょ。無理よ、絶対ダメだから」
「ちゃんと、今まで通りご奉仕するし、集いにも行くから」
頭ごなしに無理だというと沙羅は抵抗した。宗教の伝道活動の事をご奉仕といって、沙羅とは幼い時から一緒にやって来た。週三回の信者の集まりにも欠かさず出席してきた。
「学生の間は片手間のご奉仕だったけど、これからはもっと専念するのよ。あなたはみんなに期待されているんだから。双樹とは違うんだから」
久美子がだんだんヒステリックになるのを見て沙羅は口をつぐんだ。あれは駄目、これも駄目と育てられて、逆らえば何をされるか分かっているようだった。沙羅は賢い子だから今度もきつく言えば専門学校に行くことを諦めてくれると思った。
「……私、私はもうそんな事したくない!神様なんて信じていないよ!ずっとお母さんの事が怖くて言うことを聞いてきたけど、私だってやりたい事があるの!」
「……沙羅、今なんて言ったの?……信じていないなんて。あんたって子は罰当たりな事を!これがどういう意味か分かる?取り消しなさい。今言った事を教団に報告したらどうなるか分かる?」
自分の信仰を捨てるような言葉を安易に吐き出した沙羅が信じられなかった。
「……沙羅、感情的になっては駄目よ。あなた今までお母さんと一緒に頑張ってきたじゃない。これからも教祖様の為に働いて、神を喜ばせる生き方をするの!神を信じていないなんて誰にも言ってないでしょうね?もしその言葉が教団の耳に入ったら、沙羅、あなたは排斥されるのよ。背教者としてみんなから忌避されるの。今の言葉を撤回しなさい。頭を冷やしなさい!」
沙羅の手を引っ張り、和室の水晶の前に立たせた。きっと悪い友達に影響されてトリマーなんて職業に憧れたに違いない。汚れた心を水晶で浄化すれば、沙羅は真面目に神の為に働くだろう。
沙羅はしばらく水晶を前にして佇む。いつもの様に手をかざすと思った瞬間、振り返った。今までに見せた事のない顔だ。
「……もう、こんなのうんざりなんだよ!お母さん、バカじゃないの!本当にこんな玉に手をかざせば魂が浄化されると思ってるの?私は信じてないから。もうこんな宗教脱退してお兄ちゃんのように自由に生きたい!」
「……双樹は地獄に落ちるから。沙羅、神からもみんなからも無視されて、あなたも救われないのよ。考え直しなさい!」
「……私、もうお母さんの言いなりにならない!みんなに無視されてもかまわない!忌避される事なんて怖くないんだから!」
――バシッ。久美子は沙羅の言葉に激昂し頬を打った。言うことを聞かないと手足を叩いた事はあったが、顔は初めてだった。
「……もう私の好きにさせてもらうから」
あの日から沙羅は集いにもご奉仕にも一切顔を出さず、沙羅の信仰を否定した言葉は戒めというかたちで活動を禁止された。幹部からは排斥処分を受けたが、集いではその発表はない。信者たちは信仰が弱っただけだと受け止めて、沙羅に手紙やプレゼントをくれる人もいた。一番恐れていた忌避をされることはなく、久美子は安心した。その矢先の電話だ。
久美子は怒りを鎮める為に両手で水晶を撫ぜた。
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