第30話 三度目の正直

 ふと、足を止めた。


 目の前に壁が現れたからだ──いや違う。

 

 これは玄関だ。見慣れた、黒い扉。


 つまり、俺は無事に自宅まで辿り着けたらしい。どうやって帰って来たのか、今が何時だったのか、そんな地に足の付かぬ浮遊感みたいなもので内臓が押し上げられて、吐きそうだった。


 鳴子は化け物に取り憑かれた。


 俺は鳴子を撃ち殺した。


 彼女は──全て忘れていた。


 あれもこれもどれもそれも、全部をはっきりと、ぼやける事なく曖昧でもなく、忘れていた。


 玄関の扉を開く、この掌にはもう何も──握られていない。


 必要が無くなったのだから当然の事だ。彼女を救えた、それで良いじゃないか。でも、だからこそそれを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、悔いるべきだったのか、それすら今の俺には判りようもない。分かりたくもない。


「やっほー」


 扉を開けば右手には階段、視線の先には伸びる廊下──だったはずが、それは遮られている。


「その様子だと、件の彼女は救えたみたいだねー良かった良かった」


 姉さんは両手を広げて、嬉しそうに微笑んで、俺のことを嗤っている。


 今の俺がどんな様子かなど、自分で理解しようもない事だったが、姉さんは俺の──こんな様子見て良かったと言った。最早腹が立つとか、そんなことはどうでもいい。


「……やめてくれ……今だけ、今日だけで良いから……ほっといてくれよ」

「いやいや、そんな様子の可愛い弟を放っておけるわけないじゃないかよ」


 反論する元気さえもない。無理矢理玄関に体を押し込めて、靴を脱いで、押しのけた。


 階段を上る瞬間、姉さんは一言付け加える。


「クラヤミ──っていい名前だったでしょ?」


 いつの日か、御伽ちゃんが言っていた──化け物の名称。


 足が止まった。


「高校の時、一回だけ髪を──黒く染めたことがあってね。でもやっぱりちょっと恥ずかしくて、ついつい帽子を被って出掛けちゃったんだ」

「……お前だったのか」

「髪色とか服装とか、そんな、誰でもすぐにでも変えられるものを特徴しちゃだめだよ」


 ほら、やっぱり嘘だった。


 御伽ちゃんの言っていた、色々と知っていそうな、黒髪の帽子の元3年生。


 それが姉さんだった。だがそれだけだ。


 驚愕して欲しいのならタイミング違う。今となってはもう、そんなことはどうでも良いのだから。現状を打破して鳴子は救われた。ただ──俺が取り残されただけで、全て解決したのだ。


「まさか──化け物なんて呼んでないよね? だってクラヤミは本人そのものなんだから。歪みそのもの、なんだからさ。それじゃああまりに可哀想じゃない」


 どうでもいい。


「話は終わったろ。俺は夕食まで寝る」

「……トシ」


 姉さんは耳元で愛称を囁いた。背後から折れぬよう壊さぬよう、慈しむように優しく抱き止めて、その体温を伝えた。


「やめろ」

「大丈夫、大丈夫だから。お姉ちゃんが一緒にいるよ」


 何度も『大丈夫』と呟いて、子守みたいに。


「……やめてくれよ」


 声が震えてしまった。すぐにでも振り解いて突き飛ばしたいのに、それが出来なかった。


 声が震えて、体が震えて止まらなかったんだ。


「貴方の全部は私が与えた。物の見方も考え方も、孤独も。だから全部分かる」

「ッ……ぅ……」

「家族だから、愛してるから」


 それからほんの数分だったか、それとももっと長い時間だったのか分からないけど、俺はただ泣いていた。子供みたいに泣きじゃくって姉さんの体に身を預けて、投げ出した。


 夕食を食べたか、風呂に入ったか、歯を磨いたか。


 幾らか日常的な行動をして布団に入ると、意外にもすぐに意識を手放せたと思う。


 朝日が差して、布団を捲って、朝飯を食べて、歯を磨いて、


 小学校と中学校はインフルエンザで出席停止になったが、高校は休んだことがない。


 しかし、俺はその日──初めて学校を休んだ。体調不良とか葬式とかじゃなく、単純サボった。理由はそう、名前を付けるならそれは恋の悩みというのが正しいかもしれない。


 失恋し、置いて行かれて、傷心して休んだ。きっと側から見れば鼻で笑われるだろう。違うと言っても信じてもらえないだろう。誰にも相談出来ないという心細さを──鳴子の苦悩を初めて実体験していた。唯一相談出来そうな姉さんはもう大学に行ってしまった。昨日はあんなにしつこく励まして来たというのに、朝になれば何食わぬ顔で行ってしまったのだ。


『……アンタ……誰?』


 昨日の放課後、鳴子はそう言った。


『……クラスメイトだよ」


 俺はそう返し、彼女は首を傾げた。


『そう、なんだ? でアタシ達はここで何してたんだっけ?』

『……忘れ物を取りに来たら、お前が寝ていた』

『ふーん。そういえばそうだった、かな? まあいいや』


 じゃあねと、さっぱりした感じで鳴子は手を振って、その場を去って行こうした。


『待て』

『なに?』

『お前……化け物って知ってるか?』


 俺がそう尋ねると、またも大きく首を傾げていた。


 その表情には恐らく急に呼び止められて、苛立ちも含まれていたように思える。それでも俺はほんの僅かな期待を込めて、藁にも縋る思いで、そんなことを尋ねてしまったのだ。


『はぁ? 何言ってんのアンタ?』


 鳴子は隠すような素振りもなく『頭おかしいんじゃないのアンタ』と本当にそう思って言っている、そんな感じだった。


 そして、そんな答えが聞けて俺は──本当に良かったと、思った。


 結果的に言うと、彼女は化け物についての全てを忘れていた。化け物──クラヤミにまつわる全てと、俺に関する記憶を全て失っていたのだ。恐らく分類的には同じ場所に保存されていたんだろう。それを俺が撃ち抜いた。


 彼女と過ごした時間は長くはないが、短いと言えるほどでもない。クラヤミに関する記憶もかなりの積み重ねがある筈。本来それだけの記憶を失えばどこかに歪みが生じるのは必然、それがどうにも上手い事処理されているのは、人間の脳の素晴らしさによるものか、武器の効能は効き目か。


 いずれにしても多少は違和感はあるだろうが、そこは別に重要ではない。


 クラヤミは本人から生じているのだから、鳴子はもう全部忘れているのだから、もう襲われることはないという点だ。それに姉さんはあれを歪みだと言った。それはつまり、彼女が抱えていたものを意味しているのかもしれない。本当のとこは分からないが、そんな気がする。そして、そんなものを俺は撃ち殺した。


 鳴子は、本当の意味での普通になったのだ。化け物も複雑な苦悩も何も存在しない、そんな日常と安寧を手に入れたのだろう。だからこれで良かったじゃないか──そうだ、そうだよな。


 布団の中、通知の来ないスマホの画面を付ける。 


 期待とかもしかしたらとか、そんな事を考えていたのかもしれない。


「……どうでもいいか」


 しかしそこにはやっぱり、通知の一つもない。


 だから俺は連絡先から“陽衣鳴子“の文字を消去した。

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