第三十話 告白

 三人の男は寝室へ入り、死体を確認しようと灯りを点けた。ベッドの上に横たわるブランケットには、無数の穴が開いている。しかし彼らは、はっきり室内が見渡せるようになるとすぐに違和感に気付いた。

 一人が勢いよくブランケットを捲る。


「……いない!」


 そこにあったのは、人型に膨らんだ空のブランケットだけだった。男達は室内を見渡した。一人は、そもそも本当にここに奴がいたのかと口に出した。


 男達が空のベッドに気付いたのとほぼ同時に、扉の裏側でじっと気配を消していたノアは動いていた。

 扉の一番手前にいた男に擦り寄ると、右手の拳銃の銃身を下から掴み、斜め下方向に捻る。わずか一秒で、拳銃はノアの手に移った。気配に気付いた他の二人は、すぐに銃口を向けた。


「や、止めろ! 撃つな!」


 手前の男が怯えながら、自分に銃を向ける他の二人に向かって叫んだ。男は自分の右腕を、体の前を通って左側で掴まれている。ノアは左手一本で男の両腕を封じ、体を密着させて男を盾にしていた。

 奪った拳銃を、空いている右手で盾となっている男の肩越しに構える。発砲を躊躇った二人の男に向かって、容赦なく弾丸を叩き込んだ。この距離では外さない。一人目の胸に一発。間髪入れずにもう一人の胸に一発。留めにもう一発ずつ、頭へ打ち込む。

 血飛沫がベッドのシーツと床に広がった。


 盾にした男から手を離す。三人の中で一番若いその男は、腰が抜けたのか床に崩れ落ちた。


「止めろ! ゆ、許してくれ! 謝るから!」

「誰の指示だ」


 銃口を向けながら低く言い放った。若い男は頭を庇うように手で覆った。


「知らないよ! そこにいる上司に言われて……! 凶悪犯がいるって聞いて! だ、だから何も」


 左脚が、強烈な重みで男の右頬を直撃した。床へ倒れ込みそうになったところで、今度は男の頭が掴まれ、膝が眉間を直撃する。メリ、と骨の砕ける嫌な音がした。男が引き攣るような呻き声を上げる。


「どこの所属だ。隠してもいい事はない」

「自由連合だ……!」

 男は鼻血を流しながら、泣きそうな声で叫ぶ。

「自由連合。ならクズメンコの指示か?」

「そうだ! でも俺は言われて来ただけで、本当にそれ以上は何も……! たすけ」


 二発の銃声が響く。扉の外に人の気配を感じたので、取り急ぎ目の前の若い男に銃弾を浴びせ始末した。床に血飛沫が飛ぶ。

 扉の方に目を向けると、陰から恐る恐る顔を覗かせる、ガウンを羽織った女—マリア=カルメンの姿があった。


 先ほど夜中に目覚めた時、扉の外に複数人の気配を感じたので、とっさにブランケットで膨らみを作って扉の裏側に隠れた。見知らぬ男達が入って来て無数の銃声がした後、カルメンと男の口論が聞こえた。

 今、この状況で唯一分かる事—それは、”彼女が自分を売った”という事だけだ。

 ノアは無言で彼女を見据える。その視線は、もはや恋人に向けるそれではなかった。二人は向かい合って暫く立ち尽くした。

 黙っているノアに対して、先に沈黙を破ったのはカルメンだった。


「何よその目は……! 言いたいことがあるなら言えば?」


 ノアは視線を外し、取り敢えず服を拾い上げて、返り血の上から着た。

 実のところ言葉が出てこなかった。愛しい恋人が自分を裏切った。紛れもない事実だ。一方先ほどの会話で、暗殺は彼女の意志ではなかったことも分かっている。怒りと惨めさに包まれながら、疑問も沢山浮かぶ。

 借り物の拳銃を一旦ホルスターに仕舞い、彼女が後ろ手に隠し持っている物を差し出すようにと、手でくいと示した。

 彼女は恐る恐る、手に持った物を後ろから出した。見当たらなくなっていた自分の拳銃、MP-446だった。


「返せ」

 手を出して促す。

「それで、どうする気……?」


 カルメンは顔を硬らせ、銃を渡すのを躊躇っていた。それを見たノアは、素早く間合いに入って手首と銃身を掴み、銃を奪い取った。そのまま首を鷲掴みにして床へ引き倒す。カルメンが悲鳴を上げる。


「聞きたいことがある」

「何も言うことはないわ。貴方が見た以上のことは」

 カルメンは体を起こし、乱れた髪を払った。


「なぜお前がクズメンコと組んでる」

「その人のことは知らないわ」

「じゃあどうして」

「ねぇ、そっちこそ答えてよ。……ボリスを殺したのは貴方なんでしょ?!」


 彼女は眉を震わせた。ボリスと聞いて一瞬ピンとこなかったが、すぐにボリス・ターチンのことだと認識した。ファーストネームで呼んでいる辺り、見知った仲—いや、それ以上に深い仲なのだろう。


「その男がどうした。そいつはキベルジア・ケミカルでノビチョクを生産していた奴だぞ」

「答えなさいよ! 貴方が殺したって!」

「知らない。そいつが死んだことも知らなかった」

「貴方が本当のことを言わないのなら、あたしからも言うことはないわ」


 カルメンは顔を背けた。彼女が繋がっていたのはどうやらクズメンコではなく、ターチンだったようだ。だがそうなると、彼女もAXに関わっていたのか、という疑念が出てくる。そもそもノアがAXの存在を知るきっかけを作ったのは彼女だ。彼女がAXを転売した男を紹介してきた。


「ターチンがノビチョクを作っているのを知ってたのか?」

「いいえ。ニュースを見て初めて知ったわ。それが彼を殺した理由に関係あるの?」


 もはや彼女の何を信じればいいのか分からない。ため息をついて頭を抱えた。数時間前に、抱き合って潤んだ瞳で微笑みかけてきた女が、今は別人に見える。その顔は脳面のように冷たい。

 ノアはおもむろに鞄からオレンジ色の香水の箱を取り出した。


「これが何か知ってるか?」

「さあ」


 ノアは箱から香水瓶を取り出す。床に座り込んでいるカルメンの前へ歩み寄ると、前置きもなく顔に香水を吹き付けた。


「きゃっ!」

「これが何か知ってるか?」

 瓶を見せながら、もう一度同じことを問う。

「だから何よ。……香水?」


 カルメンは訝しげな顔をする。香水にしては匂いがないことを不思議に思ったようだ。


「それがノビチョクだよ」

「冗談でしょ?」

 カルメンは怪訝に顔を曇らせ、鼻で笑った。

「本当だ。お前が初めて紹介した男が持ってきた物—ターチンが開発させた物だ」

「そう……なの?」


 彼女は理解が追い付かないといった顔だ。


「今、それをお前の顔にかけた。どうなると思う?」

「猛毒なんでしょ……?」


「この物質に暴露すると、筋肉中の神経伝達が阻害される。酸素が体に行き渡らなくなり、確実に死に至る。症状が出るまでには時間差がある。40分から2、3時間といったところだ。始めは頭痛や倦怠感、分泌物の増加。やがて体の自由を失い、酸欠状態になり、酷い苦悶に喘いで死ぬ」


「そんな!」


 カルメンは自分の顔を押さえて立ち上がった。ノアは逃げようとするカルメンの行手を塞ぎ、ベッドの方へ突き飛ばした。そして鞄からアトロピンの瓶を出して見せる。


「解毒剤がある。全て話せば打ってやる」

「嘘でしょ……ノア!」


 懇願するような瞳が自分に向けられる。美しいブラウンの瞳を見ると、胸が痛む。


「お願い、救急車を呼んで」

「話すのが先だ」


 眼差しはすぐに、この非道な仕打ちをした自分に対しての憎悪の瞳へと変わった。カルメンは涙を滲ませながら、歪んだ口元を震わせた。


「貴方のことそれなりには好きだったのよ! 貴方を殺そうなんてしてなかった。だから様子を見に来て、貴方が生きてるのを見てホッとしてる自分がいた。……だけど今は、さっきあのまま死んでしまえばよかったと思う」


 その言葉はナイフのように胸を刺した。本当に同じ彼女なのだろうか。息が詰まりそうになりながら、続く言葉に耳を傾けた。


「ボリスがノビチョクを作ってたことはニュースを見るまで知らなかったし、貴方が探してるのがそれだってことも知らなかった。だからボリスが死ぬまでは、貴方の調査に協力しようとまでしていたわ。……この人達と知り合ったのは、ボリスが死んだ時よ。話しかけてきたの。ボリスを殺した犯人を捕まえたくないかって。それで協力したの。……貴方を捕まえて、裁きを受けさせたかったの。太陽の下に貴方の顔を晒して、この男がボリスを殺したってことを世間に知らしめたかったの!」


 彼女の言葉が遠く聞こえる。窓ガラスを打つ雨音が、急に耳に響き始めた。ノアは顔を覆いながら、崩れるようにチェストの上に腰を下ろした。


「クズメンコはボリスの仲間だ。一緒にノビチョクを開発して、密かに売り捌こうとしてた奴だ。知らなかったのか? ……自由連合だぞ。疑問に思わなかったのか?」


「知らなかったし、どうでも良かったわ。犯人に審判を下せるならね」


 その声は自分に向けられているとは信じられないほど、冷たい。

 クズメンコが事件の黒幕の一人だということは公表していない。だから、本当に彼女は彼らがグルだったことを知らずに協力したのかも知れない。


「ネオナチの流れを汲む過激派の自由連合だぞ。お前だって利用されただけだ。事件を隠蔽したいクズメンコが、俺を公的な場に出すわけないだろ! 最初から口封じするつもりだったんだよ。馬鹿だな……!」


 自由連合にしてみれば、AXの裏側を全て知っているルーベンノファミリーに脅迫のネタを握られている状態は、都合が悪い。彼らにとってノアはターチンの仇であり、AX事件の裏を知る相手でもある。ノアと繋がっているカルメンに狙いを定め、口封じに利用するため、言い包めたのだろう。

 憤りと情けなさを誰にぶつければいいのか分からなくなった。


「もしかして、奴に俺のことを何か話したか?」

「話してない。でもボリスは、あたしと貴方の関係は知ってた。隠していなかったから当然ね」

「俺の行動を話したか?」

「……貴方が探している兵器のことを彼に尋ねたわ。彼なら知っていると思って。貴方に協力しようと思ったからよ!」

「そいつは俺のことを聞いてきたか?」

「最近会っているのかとか、貴方がどんな仕事をしてるのかとか。何も教えてないわ。忙しくてずっと会っていないとしか」


 ボシュツカ鉱山での鉢合わせ以降、ファミリーの行動が首謀者に読まれているように感じた理由が、やっと今分かった。彼女にAXの情報は伏せていたものの、探している標的の特徴は伝えていた。その特徴を首謀者のターチンが聞けば、彼はノアがAXを探していることに勘付くことができただろう。それが分かれば、カルメンとの会話の中でファミリーが何かを計画していることを察することは十分できる。


 —じゃあ、俺のせいじゃないか……! 俺達が追ってることが首謀者にバレたのも、工場突入を読まれて部下を大勢死なせたのも、ピョートルがあんな風になったのも。俺がこの女を信用したせいで……。


 ノアは天を仰ぎ、歯を噛み締めた。自分に腹が立った。


「で、お前とボリスの関係は?」


 もう察しは付いているが、一番引っ掛かっていたことを尋ねた。カルメンは躊躇うことなく真っ直ぐとノアを見て言った。


「愛していたわ」

「はあ? 奴には家族がいたぞ」

「ええ、所詮愛人よ。でも十年間、信頼し合ってきた。ただの愛人じゃないわ。あたしをこの世界で独り立ちさせてくれた。いつも側にいて、あたしを支えてくれた人よ」


 その言葉が刺のように胸を刺す。別に、誠実であることは期待していなかった。明日死ぬかも知れない自分が彼女の人生を保証できるわけでもない。他に男を作ろうが愛人を作ろうが、好きにすればいいと思っていた。

 なのに、よりによってどうしてそんな奴を—と思うと、再び怒りが再熱する。


「そいつは化学兵器を生産して売り捌こうとしていた奴だぞ! 爆弾で投下すれば街の人間を皆殺しにできる、実用的な大量破壊兵器だ。奴は大量殺人鬼なんだぞ!」


「ええその通りよ。だけど、法で裁かれるべきだった。殺人鬼は貴方よ! 正しいことをしたとでも思ってるんだろうけど、あんたは卑怯で醜い悪党よ! せめて間違っていたと認めて、ボリスに謝って……!」


 他人に悪党と呼ばれることは何の気にもならなかったし、他人が決めた正義だの正しさだのに、何の意味もないと思っていた。しかし、今は一つ一つの言葉が氷のナイフとなって心を刺す。頭の何かが切れる音がした。

 ノアは乾いた笑いをした。


「生憎だが、俺は少しも悪いと思ってない。むしろお前の話を聞いてからは尚更あいつを殺して良かったと思ってる。そうだよ、俺が殺した。それが聞きたかったんだろ?」


 カルメンが口をいたまま絶句する。失望と侮蔑の視線が刺さる。


「奴はノビチョクが入った紅茶を飲んだ。最初は鼻汁と涎をこぼしながらテーブルの上に倒れて、それから床に倒れた。床を這いつくばって、苦しさにのたうち回って、死んだ。あいつに相応しい末路だった!」

「ボリス……!」


 カルメンは顔を伏せ、両目から大粒の涙をこぼした。その男のために流す涙が腹立たしさを増す。


「安心しろ。あと数十分もすれば奴と同じ苦しみを味わえる」


 ノアは冷酷に言い放った。


「お前は前に言ったよな、ネオナチに金を流してた議員が殺されて感謝してるって。そいつも俺が殺ったさ。自分に関係ない人間の時は何も思わないくせに、好きな男の時だけは正しいとか正しくないとかって言葉を持ち出すのか? お前だってこの世界の住人だ。そうやって生まれた金で、甘い汁を吸って生きてきたんだろうが。お前もその”殺人鬼”と同類だ」


 プロとして、自分の犯行を示唆することは決して口に出さないと心がけてきたはずなのに、今やその理性は何処かへ飛んでしまっていた。


「そうね。だけど、あんたがボリスを殺した事実も、あんたが最低だってことも変わらない。さっきまであんたに同情までしてたのに……今まで少しでもあんたを好きだと思った自分が恥ずかしい!」


 カルメンは唇を震わせ、胸で荒い息をした。軽蔑のこもった言葉—まるで今までの日々を全て翻すような言葉が、愛しい女の口から吐き出される。

 ノアの悲痛の面持ちに、怒りが上乗せされた。目は血走り、額に筋が浮かんだ。


「そもそもお前のせいで……!」


 ディーマが、アリが、アントンが、ピョートルが—その言葉を飲み込んで、気付けば銃口を彼女に向けていた。

 彼女が息を飲み、その瞬間、時が止まる。

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