第十二話 ソビエトの科学者

 ここ数日間、ノアは別の仕事のためにアジトを留守にしていた。戻った頃、ある企業について興味深い情報がもたらされた。ヤコフからだった。

 

「兄さん、BEC社のことなんだけど」

 数日ぶりに仕事から帰宅したノアを、玄関先でヤコフが興奮気味に迎えた。

 長年ルーベンノファミリーと敵対しているBEC社。彼らの動向は二人の間で度々話題に上がる。

 ノアはコートを脱ぎながらリビングへ向かって歩いた。


「面白いことが分かった。子会社のアセスラボの社長は、シハヌィ村にあるソビエトの有機化学技術研究所で勤務していた科学者だったんだよ」


 アセスラボ社—ここ数ヶ月、新聞記事で名前を目にしていた企業だ。組織が所有するボシュツカ銅鉱山周辺で環境調査を実施したり、鉱山の従業員に健康診断を実施するなどの妙な動きをしていた。


「シハヌィ……ロシアのサラトフ州か?」

「そうそう」


 ノビチョクについて調べたときに読んだ文献に、シハヌィという地名が登場したことを思い出した。

「そこって、ノビチョクの開発が行われていた場所だよな?」

「その通り」

「その研究所で勤務してた科学者ってことはつまり」

「ノビチョクの開発に関わっていてもおかしくない」


 なんということだ。ノアは顎に手を当て、足早にパソコンがある執務室へ向かった。ピョートルも来ていた。


「どんな奴だ?」

 その質問に、すでに話を把握しているらしいピョートルが答える。


「イゴール・セミノヴィチ。かつてソビエトのサラトフ州シハヌィにある国立有機化学技術研究所に勤務しており、その時期はノビチョクの開発が進められていた時期と重なります。ソビエト崩壊後間もなく退職し、アジャルクシャンへ移住しました。その後アセスラボ社を立ち上げ、一年前にBEC社に買収されています」


 ノビチョクの開発を行っていた正にその場所で勤務していたとなれば、合成方法を知っていても不思議ではない。本来なら即容疑者候補に考えるところだが、BEC社の性格からしてそれは考え難かった。彼らが反社会的な事業に手を染める類の連中でないことは、ヤコフもよく分かっているはずだ。

 彼らは潔癖すぎるほど潔白に事業を行ってきた。そもそも彼らがファミリーと敵対しているのも、それが原因だ。反社会勢力を一切受け付けず、人道に反する事業に一切手を染めないことをポリシーに掲げてきた。そうでなければ、ファミリーのビジネスを排除しようとして敵対関係になることも無かった。


「あのBEC社に限ってそれはない。お前だってそう思うだろ?」

「俺達が知ってる頃のBECならね」

 ヤコフは答えた。今は違うと言いたいのか、と彼を見据える。


「俺達が知ってるCEOならそれはない。でもここ最近毛色が変わってきてね。特にちょっと前にラクシュミー・バッチャンていう新しいCOOが就任してからさ。大胆に社内改革をして、大量の解雇者も出したみたいよ。今やそのCOOが実権を握ってるって噂で、CEOは表に出てこない」

「そのCOOが入って方針が変わったと?」

「表向きはそうは言ってないから分かんないけどね。変わっててもおかしくないってこと」


 ノアもヤコフも、BECが今より小規模だった頃からCEO(最高経営責任者)を知っている。取引からファミリーを排除し、その上みかじめ料を払わないあの会社に、ファミリーが散々脅しをかけてきたからだ。

 数年前に一度、CEOを拉致して、みかじめ料を収めるよう脅迫したことがある。彼らはそれでも屈服しなかった。屈服しないだけでなく、ファミリーに対して民事訴訟を起こすなどの反撃に出るほどまでに、敵対する姿勢を貫いた。敵ながら清々しいほど、彼らの姿勢は一貫していた。

 最近CEOの下にCOO(最高執行責任者)が就任したことは知っていたが、それがどのような人物かはよく知らなかった。


「で、買収したアセスラボ社ってのはどんな会社だ?」

 ノアが尋ねると、ヤコフはパソコンでウェブサイトの会社情報を開いて見せた。


「社長はさっき言った元ソビエトの科学者、イゴール・セミノヴィチ。十人くらいの小さな会社だよ。研究者上がりの社員が多くて、ビジネスにはあまり興味がなさそうな研究肌の強い会社。だから何年もずっと、細々とやってきてる。それが一年前BEC社に買収された」

「AXの製造はそいつらが?」

「いや、アセスラボ社の資本規模から言って、奴ら単独では無理だろう。本当に小さい会社なんだ。自然に考えれば、アセスラボ社がBECにノビチョクの製造技術を提供して、BECが巨額を費やして製造したって流れだと思う」


 BEC社はスイスに本社を置く多国籍企業だ。開発に数千万ドルを費やせる資本は十分にある。買収したアセスラボ社の技術を使って、BECが開発に資金を注ぎ込んだ、という流れは自然だ。もしもアセスラボ社がAXの開発に関わっていた場合、BECの存在は切り離せない。

 ノアは以前に何気なくBEC社の決算を調べた時に、COOの就任以降やけに研究開発に投資していたを思い出した。


「BECの投資費用はどこに行ってるか分かるか?」


 ヤコフに問いかけたつもりだったが、ピョートルが答えた。

「ただいま調べさせていますよ。いかんせん内訳は公開されていませんからね」

「だが、アジャルクシャン国内の動きなら大体分かるだろ?」

「ええ。ですからもしAXの製造を行っているとすれば、国内ではないと思います。海外のどこかでしょうね」


 そうするとBEC社は、多数ある海外の拠点のどこかで極秘にAXを製造し、アジャルクシャンへ持ち込んだことになる。


「BECのことは分かった。だが他にも疑わしい企業が何社かあったはずだ。訴訟が進行中だったキベルジア・ケミカル社とか」


 今の段階でBEC社に絞り込むのは早すぎる。動機を持っていそうな企業は他にもあったし、まだ他の組織や軍事機関という線も十分残っている。

 コバレンコが担当した訴訟には、BEC社だけでなくキベルジア・ケミカル社、ドゥニルペトロフスキー・パイプ・プラント社などの名前があった。また、キベルジア共和国最高議会議長の公費不正使用や、アジャルクシャン政府への汚職裁判にも関わっている。


「キベルジア・ケミカル社—キベルジアの化学系企業です。ここ数年の活動に、不審な点はありません。ドゥニルペトロフスキー・パイプ・プラント社—パイプ建設の会社ですが、こちらも変わったところはありません」

「そうか。……政治家にも動機はありそうだが、政治家が首謀者だとしても個人では開発できないから、どこかの研究機関か会社と組むことになるな」

「ええ。疑わしい研究所やプラントを所有している組織を調べていけば、きっと首謀者に行き当たりますよ」


「ここ数年の企業活動で最も変動が大きいのはBEC社ということか?」

「はい。ですからBECとアセスラボを最優先に調べていくつもりです」


 ノアは頷いた。

 ふと、香水に偽装したAXのパッケージの住所が、スイスになっていたことを思い出した。もちろん存在しない住所だったが、BEC社の本社もスイスだ。偶然の一致だろうか。それも踏まえると、ますますBEC社が疑わしく見えてくる。

 調査の優先順位としては間違っていない。しかし、心のどこかにBEC社が関わっていると信じたくない気持ちがあった。




 AXの調査に進展が見え、ノアは以前より積極的に調査に関与するようになった。首謀者を見つけ出し、顔を拝む日が待ち遠しかった。

 この日ノアは、黒髪のカツラと色付きの眼鏡で変装していた。アセスラボ社の社長、イゴール・セミノヴィチの身辺を探るためだ。理由は彼が容疑者候補だからでもあるが、彼と彼の会社が近頃ファミリーの所有する鉱山に対して攻撃的な態度を見せていることが、AXの件と関係があるのかを突き止めたかった。

 仮に彼らがAXの首謀者ではなかったとしても、ファミリーへの敵対行為についてはいずれ決着を付けなくてはならない。つまり、いずれにせよ彼らの行動の目的を知るために身辺を探らなくてはならなかった。


 アセスラボ社はルーベンノファミリーと同じくキベルジア共和国にあり、彼らの行動範囲はファミリーの拠点から近い。セミノヴィチの自宅は州都から車で二時間ほどの隣町にある。町のモーテルを拠点に張り始めて今日で三日目。毎日車と変装は変えている。


 部下と共に、ナンバーを付け替えた追跡用の車に乗り込んだ。

 車を走らせている間、不意に電話が鳴った。カルメンからだ。


「どうした?」

『何もないんだけど、貴方のことが気になってね』

「なんだ、それだけか」

 急ぎの用事や仕事の話ではないらしく、ほっと息を吐く。

「仕事で忙しい。そのうち連絡する」

『ええ。頑張ってね』


 その一言だけ交わして電話を切る。数分経ってから、もしかすると今の態度は恋人への対応としてあまり良くなかったのでは、という考えが頭を過ぎったが、あっという間に目的地へ辿り着いたので、その思いはすぐに何処かへ飛んで行った。


 セミノヴィチの自宅は、決して高級住宅ではないがそれなりに綺麗な、可もなく不可もないアパートである。彼の住む家や車のグレードからは、欲が無さそうな人物像が窺える。

 ここ数日の彼の行動パターンは自宅と会社の往復のみだが、時間は日によって異なっていた。今日は休日なので、果たしてどんな行動を取るのだろうか。

 たくさんの車が止まるアパート横の広い駐車場に車を紛れさせて待っていると、セミノヴィチが出てきた。彼の白髪混じりの髭は手入れされた様子がなく潤沢に伸びていて、服装も地味で、科学者らしいと言えばらしい。

 セミノヴィチは車に乗り込み、何処かへ向かった。ノアもそれを追う。


 着いたのは町の中心部のカジュアルなレストランだった。セミノヴィチは一人で店に入って行く。まだ尾行に気付かれている様子はないので、同じレストランに入って近くのテーブルに座った。

 ついでにここで朝食を頂く。ドラニキ—じゃがいものパンケーキと、マチャンカ—肉のクリームシチューを注文した。

 程なくして、セミノヴィチと待ち合わせをしていたらしいもう一人の誰かが現れた。金髪のボブヘアに、ジャケットを羽織った硬めの服装の中年女性。セミノヴィチよりも一回りほど若そうだが、二人の雰囲気からして愛人や恋人では無さそうだ。

 女はセミノヴィチの向かいに座り、見知った間柄なのか打ち解けた様子で話し始める。ただし二人の様子は決して楽しそうではなく、どこか真剣だった。


「困ったものだ。中々労働者達の協力が得られなくてね」

「ご苦労様です、博士」

「君こそ大変だろうガリーナ。仕事以外の時間を使ってまで僕らに付き合うのは」

「私は仕事をしているだけですよ」


 女の名前はガリーナというらしい。二人の関係は何らかの仕事繋がりなのだろう。隠し持った小型カメラでディーマが女の写真を撮る。


「次回の調査はいつにしますか? 私もご一緒できると思います」

「次の水曜はどうだろう?」

「構いません」


 —調査? 何の調査だ。


「もう一度、ボシュツカ川の水とボシュツカ盆地の土を採取する。住民にも協力を依頼してみるつもりだが……」

「ええ、中々うまく行っていないようですね。次は私から住民に手土産を持って行ってみます」

「助かるよ」


 彼らが話しているのは、間違いなくボシュツカ鉱山周辺の調査のことだ。次の木曜—4月23日に再び鉱山の調査に行く。その情報を頭に留めた。


「実は今日呼び出したのは他に話があってだな」

 セミノヴィチが深刻な顔で切り出した。

「近頃会社や僕の家の周りで怪しい男達がうろついている……もうあの事がバレているのかも知れない」


 —俺達が張ってることに気付いてる?


 緊張が走る。しかし堂々とその話をしているということは、ノア達がここにいることには気付かれていないはずだ。


「そうならまずいですね。親会社の協力は得られませんか?」

「ラクシュミーに相談したら、会社の警備スタッフを増やしてくれるそうだ。対策は講じてくれるらしい。とにかく、今は隠し通さねばならない。君も十分気をつけてくれ」

「私の方は今のところ他部署の者や上に勘付かれてはいないようですが、そうですか……十分警戒します」


 ガリーナも深刻に頷いた。

 名前が上がったラクシュミーとは、BEC社のCOOラクシュミー・バッチャンのことだろう。やはりセミノヴィチはBEC社のトップと密接に連携している。


 二人がレストランを出た後は、怪しまれないようディーマに追跡を交代した。この三日間、セミノヴィチとアセスラボ社の周辺を見張っていることは勘付かれている様子だったので、以降は追跡の人数を抑え、やや距離を置いた。


 翌日、アセスラボ社の周辺に車を置いて見張っていたノアは、思わぬ事件に遭遇する。

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