第五話 カジノと女王

 軽くシャワーで汗を流してから、支度を整えた。カジノに行く時はそれなりに身なりを綺麗にする。シャツを着て、黒のジャケットを羽織った。淡い金色の髪は櫛で横に流す。

 ノアは一人で車を走らせ、キベルジア共和国の州都郊外にある地下カジノへ向かった。このカジノとルーベンノファミリーは蜜月の関係で、カジノは毎月売り上げの一部を組織に納め、組織はカジノの治安を守っていた。地下カジノと言っても地下にあるわけではなく、地上に堂々と存在する。ホテルやレストランが併設されていて、ただカジノの看板が出ていないだけだ。

 地下の駐車場に車を止め、エントランスへ向かった。


「お疲れ様です」

「調子は?」

「ここは変わりありません」


 エントランスの外に立つ警備の者—ファミリーの構成員と一言二言会話を交わし、中へ入った。ホールに入って真っ先に目に入るのは、中央から二手に分かれて上へと続く、大きな階段だ。床にも階段にも大理石があしらわれ、真っ白に輝いている。その階段の上からは、クリスタルが何層にも重ねられたシャンデリアが吊り下がる。カジノはその階段の上にあった。


「ボス、来てたんですね」

 スーツを着た体格のいい男が近づいてきた。他にも二人ほどスーツの男の姿が見えるが、皆ファミリーの構成員だ。

 エントランスホールで、カジノを取り仕切る部下と軽く話をした。


「最近のトラブルは?」

「普段通りですよ。たまにイカサマ野郎とスリを捕まえてます。出入り禁止のやつが来たら追い返してます」

「チップ泥棒が多いという話だろ」

「それは、まあ……」

 ノアは周囲を気にして声を低めた。

「ディーラーの動きも見てるか? 客の動きから尻尾が掴めないなら、多分ディーラーと客が共謀している。ここはデカい収入源なんだ。警備の配置を増やしてもいい」

「はい、そうします」


 そんな会話をしていた時、階段の上から賑やかな話し声が聞こえてきた。

「ねえ見た? あたしの最後のオールイン」

「ハハハ、今回も君が全部持っていったね。全く、そのうち君にカジノを潰されそうだよ」

「あら、ちゃんとここのホテルやバーで使って還元してるじゃない」


 よく響き渡る艶やかな声が聞こえると、ホールの注目が一点に集まった。階段の上に姿を現したのは、金色のドレスに身を纏ったカルメンだった。今夜は体のラインに合うタイトなロングドレスに、焦げ茶色の髪をアップにまとめたヘアスタイル。耳からはダイヤのピアスが下がる。ここで見る彼女は女王の名に相応しく一層華やかで、現れた瞬間にその場にいる者の視線を奪っていた。

 ボーイがカルメンに白いファーのコートを掛ける。エルメスのハンドバッグを受け取ると、細長い足を覗かせながら階段を降りてきた。その隣にいる恰幅の良い白髭の男は、オーナーのダニエルだった。


「おや、ノアじゃないか」

 ダニエルはノアに気が付くと、手を上げて挨拶した。ノアも普段より愛想を二割増で返す。

「やあダニエル」

「来てくれたんだね。ほら、こちらがこの間紹介したマリア=カルメン。もう会ってるんだったかな?」

「ええ、この間お会いしたわ。もうビジネスの話もさせてもらってるの。ね?」


 カルメンが大きな瞳でノアの目を見る。彼女に会うのはこれが二回目。彼女への疑いを持ちながらも、胸の高鳴りを感じていた。


「あたしよくカジノへ来るんだけど、貴方とここで会ったことないわね」

「ノアはたまに来ても裏にいるからね」

 ダニエルが答える。彼の言う通り、ノアはここへ来ると裏のコントロールルームで状況を確認したり、従業員用エリアで警備の相談をしたり、望ましくない客をバックヤードへ連行したり、というのが主な仕事だった。

「帰るのか?」

「ええ。今夜は十分儲けさせてもらったわ」

 カルメンはダニエルの方を向いて悪戯っぽく笑った。


「送って行こうか」

 ノアは言った。

「おお、そうしてもらうといいよ、カルメン。大金を持ってちゃ物騒だ。……ああ彼なら大丈夫。信用できる男だ。たとえ君のような絶世の美女でも、とって食うような真似はしないさ」

「じゃあお言葉に甘えて」


 ノアの申し出をダニエルも後押ししてくれたおかげで、ボディガード代わりにカルメンの車に乗って家まで送ることになった。聞けば、州都の高級住宅地の一角に住んでいると言う。カジノからは車で三十分くらいの距離だ。


「じゃあな、ダニエル。何かあったらいつでも言ってくれ」

「せっかく会えたってのに寂しいな。また来てくれよ」


 ダニエルと握手を交わして別れ、二人で車に乗り込んだ。70年代を思い起こさせる、クラシックで味わい深い水色のキャデラック。車内には女物の香水の、甘い香りが立ち込めた。

 運転席のシートを下げ、バックミラーの位置を整える。車は静かに夜の道路を走り出した。

「自分の車の助手席に座るって、ちょっと新鮮」

「そうか」

 郊外の道路は一本道で、左右には雪の積もった何もない原野が広がる。たまにすれ違う車のヘッドライトが、車内を明るく照らす。

 エンジン音と風を切る音だけが聞こえる中、ノアは静かに口を開いた。


「あの売人が持ってきた薬は、思った通り偽物だったよ」

「そうなの?」

 カルメンは少し驚いた様子で答えた。


「使う前に成分を調べさせてみたんだが、ただの殺虫剤だった。確かに口にすれば毒ではあるが、とても1万5千ルーブルを払うような代物じゃないだろ? スーパーで20ルーブルで買える。あれでマフィアから金を巻き上げようなんて、よく思い付いたもんだ」

「なんだ、そうだったんだ」


 彼女は特に疑う様子もなく相槌をうつ。

「あっまさか、だから彼を……?!」

 彼女は表情を強張らせ、怯えるようにノアを見た。ノアは首を横に振った。

「違う、本当に事故だ。もっとも、あいつも後ろめたい気持ちがあったんだろう。だから俺達の追跡に気付いて、焦って撒こうとして運転を誤ったんだと思う」

「そう……残念だわ。ごめんなさいね。あたしも仲介者として謝るわ。このことはきちんと補償をさせて頂戴」


 彼女は申し訳なさそうに俯いた。


「いや、君に責任を問うつもりは全くない。ただ、関係者の一人として事の顛末を報告したまでだ。あの”毒薬”は帰ったら捨てるつもりだ。企んだ本人は死んでるし、これで終わりにしよう」

「……ありがとう」


 ノアは横目でカルメンの表情を見た。声色からも表情からも、申し訳なさを感じているのが窺える。本当に”毒薬”のことは知らないのだろう。

 考えたシナリオの一つは、彼女と売人が繋がっているということ、そして、その後ろには何らかの組織がいるということだった。もしそうであれば、ノアに破格の安値で”毒薬”を渡した理由は、ルーベンノファミリーに毒の効果を試させたいからだろう。そうすれば想定外の事故が起きて自分達に危害が及ぶ心配もないし、仮に事件が露呈してもファミリーに罪を被せられて、自分達に足が付くことはない。


 もし彼女があれを本物だと知っているなら、今の会話の中でノアにそれとなく本物だと気付かせようとするはずだ。

 化学剤の検出は、実はとても難しい。疑って絞り込んで分析して、初めて特定できる。そもそもその物質が神経剤であるということに思い至っていなければ、分析しても気付けない場合があるのだ。

 神経剤は有機リン系の殺虫剤と成分が似ている。だからファミリーがそれをただの殺虫剤だと思い込んで、廃棄しようとしている—というストーリーは成り立つ。

 しかし彼女の様子に変わったところは見られない。疑問を唱えたり毒物を捨てるのを止めようとすることなく、自分の説明をそのまま信じている。少なくとも彼女は無関係だ。

 モヤモヤとしていた心の引っ掛かりが取れ、曇りが晴れた。


 再び訪れた静寂を、カルメンが明るく遮った。

「ねぇ、貴方はカジノで遊ばないの?」

「カジノは確率的にカジノに有利にできてる。まぐれで勝っても、やればやるほど負ける。提携して売り上げの一部を貰う方が理に適ってる」

「へえ、リアリストなのね。でもそれはビジネスとしての話でしょ? あたしは純粋にゲームを楽しんでるの。勝ち負けに関係なくね。貴方自身は? 貴方は何が楽しいの?」


 —何が、楽しいかだと?


 頭には何も浮かんでこなかった。仕事は楽しい。ジムで汗を流すのも楽しい。銃弾の間を潜って、今日も生き延びたと感じる瞬間も楽しい。しかし、華やかに人生を楽しむ彼女の生き様を見ていると、何か大きな隔たりがあるような気がした。

 ノアはしばらく思考の海に潜っていたが、逆に彼女にこう尋ねた。


「今から空のドライブに来ないか」

「えっ?」

 カルメンは戸惑いつつも、目を丸くして興味を示した。

「ヘリで空の散歩だよ」

「面白そう、いいわ」


 ノアは車をUターンさせると、目的の物がある郊外の倉庫へ一直線に走らせる。冷え込みのおかげで、夜空は澄み切っていた。

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