第26話 ふたたび3階へ
音は少しずつ、でも着実に近づいてきていた。
ズルッ、ドスッ、ズルッ、ドスッ……。
この音を僕たちは知っている。僕の頭の中で「門の花嫁」の姿がフラッシュバックした。とたんに頭の芯が冷たくなって、何も考えられなくなる。
「お、おい!」
ナルが血の気の引いた顔を僕に向け、へたりこんでいた僕を引っ張り起こした。
「あれ……あれだよな? どうすんだよ……隠れなきゃ」
2階には隠れるところがない。ガラス戸の向こうに佇んでいる3人の姿は、もう視界に入れることすらおぞましかった。エレベーターのドアも、電気が来ていないから当然開かない。他に隠れられるようなスペースはない。
「3階に戻ろう!」
アキが叫んだ。かと思うと、大友さんを追いかけて1階に行こうとする桜ちゃんを強引に抱き上げ、柔らかい床をものともせずに駆け出した。桜ちゃんをほとんど肩に担ぐように抱っこしたまま、どんどん先に行く。今のうちなら、「門の花嫁」と出くわすことなく3階に着けるかもしれない。
「お、俺たちも行こうぜ」
僕はナルとふたりで、ガラス戸の方を見ないようにしながらアキたちの後を追いかけた。
火事場の馬鹿力というやつだろうか、アキは桜ちゃんを抱えたまま、どんどん階段を上っていく。僕たちもそれに続いた。
3階のガラス戸の向こうには何もなかった。天井一面に書かれた「Come to me」はそのままだが、黒い霧のかたまりのような人影はいない。
重いものを引きずって階段を降りるような音は、まだ上の方から聞こえている。どうやら「門の花嫁」とは、出くわさずに済んだようだった。
僕とナルはガラス戸の中になだれ込むと、ドアのすぐ横の壁に体を押し付けた。一足先に室内に逃げ込んでいたアキも、桜ちゃんを抱えたまま同じように壁にくっついて、肩で息をしていた。
息の詰まりそうな時間が流れた。重いものを引きずって階段を下りる音がゆっくりと、着実に近づいてくる。
やがて、階段を下ってくる白いドレスの端が僕の目に入った。僕たちは壁にぎゅっと背中をくっつけながら、ガラス戸が見えるギリギリのところに立った。怖くて部屋の奥のトイレにでも逃げ込みたかったけれど、「門の花嫁」の動向を知らずにいる方がもっと怖かった。
「門の花嫁」は、さっきと同じようにうつむいたまま階段を降りて来る。後頭部から覗く尖った白い鼻と真っ赤な唇を、なるべくはっきり見ないようにと、僕は白いドレスの肩のあたりを見つめていた。
階段を下りきった「門の花嫁」は、ガラス戸の方角を向く。下に続く階段へと向かうためだ。僕は視線を微妙に下げたまま、早く通りすぎてくださいと祈った。
白いドレスの歩みがぴたりと止まった。
廊下から錆びた歯車を無理やり回すような音が、ふたつ重なって聞こえる。ドアを隔てているのに、その音は部屋の中まで流れ込んできて、ざわざわと僕たちを包んだ。
ナルが僕のすぐ後ろで、押し潰されたみたいな声を上げた。それに驚いてつい目線を上げた僕は、その瞬間後悔した。
「門の花嫁」が、黒髪に隠れていた顔を上げていた。
大きく見開かれた目の中に、ぶつぶつとたくさんの瞳があった。それらが一斉に動いてガラス戸の方を見た。
息が止まりそうになった。
「奥に行け!」
ナルが押し殺した声で叫んだ。その時、「門の花嫁」がガラス戸の前に立って、握りこぶしを振り上げた。
コンコン。コンコンコン。
ガラス戸をノックしている。
桜ちゃんを抱っこしているアキが、「はぁー」と小さく長い声を漏らした。僕は自分がまた泣いていることに気付いた。涙が後から後から頬を流れ落ちていく。こんなことでは駄目だ。逃げられない。逃げなければ。せめて僕たちができる、ギリギリのところまで。
僕はメガネを外すと、拳でぐいっと涙を拭いた。
ナルが僕の肩を押し、アキの背中を叩いた。
「何してんだよみんな! 奥! 奥に行け!」
僕たちはトイレの中に逃げ込んだ。他の階と同じく、中には洗面台がひとつに個室がふたつ。道具は何もなかった。つっかい棒にできそうなものも、武器になりそうなものも、何ひとつない。
僕たちはトイレのドアを閉めると、内鍵をかけた。外に通じる小さな窓から、真っ赤な夕焼けが差し込んでいた。
「最悪、個室の中に立てこもるしかねーな……」
ナルが言った。逃げ場がなさすぎて嫌だったけれど、実際そうするしかない。僕とアキはうなずいた。
ズルッ、ズルッという音が、だんだん近づいてくる。やがて、トイレのドアの真ん中についている縦長の曇りガラスの向こうに、黒髪の女のシルエットが立った。
コンコン。コンコンコン。
ドアがノックされた。背中にかいた汗が気温の低さと相まって、真冬の朝のように寒い。でも、それだけでなく、僕の体は震えていた。
ドアノブがガチャガチャと音を立てた。次の瞬間、ドアがガタンガタン! とすごい音をたてて外から引っ張られた。
「おねえちゃーん」
桜ちゃんが泣き出した。そのときだった。
突然トイレの中が、真っ暗な闇に包まれたのだ。
「うおっ!」と、隣でナルの声が聞こえた。次の瞬間、僕たちの足元の床が柔らかくなった。
2階の床よりももっと柔らかい、ほとんど液体のようなものになって、その中に全身が浸かったと思ったとき、電気のブレーカーが落ちるように意識が飛んだ。
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