第13話 7階へ

「なんか臭くね?」

 7階に向かう階段の途中で、今度はアキが顔をしかめて言った。

 僕たちは立ち止まって、辺りの匂いを嗅いでみた。

「別に臭くねーぞ」

 ナルがズズッと息を吸い込んでから言う。その一方で、大友さんと桜ちゃんは顔を見合わせて言葉を交わした。

「言われてみれば、なんか臭いかも」

「うん……」

 僕には何も感じられなかった。埃っぽい臭いはしているが、アキがわざわざ言うんだから、それ以外の臭いに違いない。

「アキ、どんな臭いだった?」

「どんなんだっけな、うーんと……嗅いだことある感じの臭いだったんだけど。でもチラッとだからなぁ」

 アキがうんうん唸っている横で、桜ちゃんが顔を上向きにして、鼻をスンスン言わせていたが、急に顔をギュッとしかめた。

「トイレのゴミ箱のにおい」

「トイレのって、ちっちゃいピンクのやつ?」

 大友さんが尋ねると、桜ちゃんは大きくうなずいた。

「トイレのゴミ箱って、他のゴミ箱と違うんか?」

 ナルが不思議そうに言うと、アキが「あー違う違う」と言って手を振った。

「うち姉ちゃん3人いるからわかるけど、全然違うぞ」

 ようやく僕にも心当たりが見つかった。あれって、何か名前があるんだっけ?

「サニタリーボックスだよ。その……」と、大友さんがちょっと言いにくそうにする。「使い終わった生理用品を捨てるとこ」

「あー、あの、あれか。保健のとき、女子だけで集まってなんかやってたやつ」

 ナルもようやくわかったらしい。「それの臭いってことは……」

「血の臭い?」

 思わずそう言ってしまってからふと気づくと、皆が気味の悪そうな顔をして僕を見ていた。

「な、なんだよ……」

「いや……何でこんなビルで、血の臭いなんかするんだよ」

 アキが顔をしかめた。

「おいおい、ちょっとホラー感出てきたんじゃね?」

 ナルが楽しそうに言う。「でもほんと、何だろうな。トイレはあるけど、このビルが使われなくなってからもう結構経つって聞いてるぜ?」

 そんなところに、使用済みのナプキンを捨てにくる人などいないだろう。

「何か別の、『トイレのゴミ箱』みたいな臭いをさせる原因があるってことだよね」

 大友さんが僕たちの顔を見渡しながら言った。

 答えが出ないまま、僕たちは7階にたどり着いた。こちらはまったくの空っぽで、大きなものは何も残っていない。隅の方に埃の固まりが転がっているくらいだ。

「異界じゃあないな」

「非現実的な雰囲気はあるけどね」

 空っぽになったオフィスはやけにだだっ広くよそよそしくて、何となく人間を拒んでいるような感じがした。かつてはここで人が働いていたことがあるんだな、と僕は想像してみたが、うまくできなかった。

「ここで働いてた人って、どこに行ったんだろうね」

 大友さんがぽつりと言った。

「わかんないけど、別のとこに移ったんだろうな。どっか別のビルで働いてるんじゃね?」

「そうだねぇ……」

 そこに、いつの間にいなくなっていたのか、アキが部屋の端の方から駆け戻ってきた。

「おい! こっちがトイレだ!」

「なんだと!」と、ナルが身を乗り出す。

「ゴミ箱探そう! ゴミ箱!」

 何であんなに嬉しそうなんだ。

 僕があきれて見守るうちに、ナルとアキは奥にある扉の向こうに姿を消した。僕は追いかけなかった。仮に何かが入ったゴミ箱があったとしても、中を確認するのは気が進まない。それに僕まで行ってしまったら、大友さんと桜ちゃんがふたりきりになってしまう。

 僕はふと思い出して、また写真を撮った。空っぽのオフィスの写真なんて、自分で撮る機会はなかなかなさそうだ。

「ねぇ、竜野くん」

 大友さんが僕に声をかけてきた。

「あ、やっぱり何にも写ってないみたいだよ」

「そうじゃなくて、今日、竜野くんのお母さんはお仕事?」

 そういえば待ち合わせ場所で会ったとき、僕は大友さんにそんなことを聞いたっけ。

「ううん。今日はうちでゴロゴロしてるって」

「そうなんだ。看護師さんだもんね、きっと仕事ですごく疲れるよね」

 大友さんは、うちの母さんが看護師ってことを知っていた。大友さんのお母さんから聞いたのかな、と僕は思った。

「うちの母にも、デートするような相手がいればいいんだけどね」

 僕がポロッと言うと、大友さんは首を傾げて、「ほんとにそう思う?」とまた尋ねてくる。

 僕は3年前の夏のことを思い出した。その頃、母さんが倒れて一時期入院していたのだ。

「結構本気で思うかな」と僕は答えた。

「僕が3年生のとき、母さんが過労で倒れてさ。いつも元気に見えてたからすごいショックだったし、なんか自分が情けないなと思って……僕、家の中に男の人がいたことって記憶にないんだけど、もしも父さんが生きてたら、母さんはこんなに頑張らなくて済んだのかなって、それも思った」

「そっか。大変だったんだ」

 大友さんはそう言いながら、なぜか桜ちゃんの頭をなでた。

「うちのママも、誰かよさそうな人見つけてこないかなぁ」

「大友さんち、デートじゃないの?」

「デートだけど、コロコロ相手変わるから。振り回されるんだよね、私も桜も……」

 大友さんはふと口をつぐむと、

「もしかして竜野くんのお母さん、私のこと何か言ってた?」

 といきなり話題を変えた。

「え? な、何でいきなり?」

 そのとき僕は、大友さんの顔を見てふと息を飲んだ。口元は笑っているけど、目は笑っていない。不安そうな桜ちゃんの手を握り、何かに戦いを挑むような悲愴感を醸し出しながら、僕の返事を待っていた。

「うん、いきなり聞いて悪いんだけど、何か言ってなかった?」

「いや、何も……」

 言ってなかったか? 何も? 僕は大友さんの勢いに気圧されながらも考えた。

「えーっと……あっ、そういえばこないだ、大友さんが元気かどうか聞かれたよ。大友さんのお母さんとうちの母さん、知り合いなんだってね」

「それだけ?」

「う、うん」

 大友さんは真っ黒な瞳で僕をじっと見つめた。

「実は私、こないだ竜野くんのお母さんに会ったんだよね。病院で」

「あ、そうなんだ。母さんの職場?」

「うん。だから気にしてくれたんだと思う」

「ああ、そっか……」

 つまり、たまたま大友さんたちの顔を見たから、気になったってことかな。だったら母さんも、あんな意味深な雰囲気出さないで、素直にそう言ってくれたらいいのに。

 ちょうどこのときにナルとアキが戻ってきたので、僕たちの話はここでおしまいになってしまった。

 桜ちゃんは大友さんの手を握って、体のどこかが痛むような顔をしながら、じっと黙っていた。

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