水溜まりができていた。

 鴨兵衛とおネギ、旅の二人が茶店に現れた時より、二人の旅の目的が話題として常に上がっていた。


 そのことをお千などは直接鴨兵衛に訪ねることもあったが、元から口数の少ない上に何やら奥歯にものがはさがったような、はっきりとしない物言い、埒が明かず結局のところわからずじまいであった。


 そこで今度はおネギに話が振られると、あっさりと答えが返ってきた。


「兄上からは、これは敵討ちの旅と聞いてます」


 物騒な答えが返ってきた。


 ……敵討ちは、太平の世にも残る小さな戦であった。


 目上の親族が害され、その加害者が統一幕府の追手を振り切り、他の藩領地に逃げのびた時、残された遺族がこれを追って討てるという、正義を己で行う権利であり、義務でもあった。


 そこには明文化された掟があり、討ち手側には様々な手続きや届け出の上、許可が必要な上、許可が出たところで、敵を追い見つけるのは己自身、幕府の追手も見つけられない敵を、当てもなく探す長い旅に出ることとなる。


 例え運よく敵を見つけたとしても、敵側には自衛のため争うことが認められており、当然敵討ちも考慮に入れて準備しているのが大半で、結果返り討ちで終わった話にも暇がなかった。


 そこへ挑むのはあの鴨兵衛である。


 体こそ大きく力も強いが、腰には鞘だけ、不器用で要領が悪く、挙句に長椅子を壊したとはいえ、女子供に言いくるめられてはいいように使われている気の弱さ、争いに向かない男だと村の誰もが思った。


 敵の人数が多ければ、助力として助太刀も認められるが、その多くは共に旅する仲間であり、その場で即興で集める場合には銭がいるのが常識だった。


 相手が何者で、何をされたかはおネギも知らないこと、むしろ鴨兵衛が教えてない可能性まであった。


 そんな限定的な情報を得て、村人一同、思うことは一つ、諦めるべきだとの結論に至った。


 相手が何者であってもまず勝てない。それだけならまだしも、こんな幼いおネギまで巻き込むぐらいなら敵など諦めるべきだと誰もが思った。


 しかし、そこには武士の義務があった。


 目上の者を殺されて、敵も討たずに過ごすは武士の恥、恥を抱えては生きていけない、つまりは敵討ちの旅に出るか腹を斬るかの二つに一つ、それが武士であった。


 確かに腹を切るよりはマシな敵討ち、しかし鴨兵衛である。


 不器用で金無し刀無し、幼いおネギを連れての旅、その終わりは見えず、見えたとしても返り討ちの闇しかない。


 鴨兵衛は暗い旅にいた。


 ともなれば、村の男らの反応も変わった。


 蔑みから哀れみへ、助太刀はできないまでも何か手伝ってやろうと本人の知らぬ間に決まっていた。


 そうして店に立てない鴨兵衛は、その代わりに朝から村の家々に持ち回りで貸し出されることに、知らない間に決まった。


 朝食を終え、お千らが茶屋に向かう前、今日の家の子供が迎えに来ては連れて行くこととなった。


 そこでの働きぶりは案の定であった。


 畑仕事を知らず、力はあるが不器用で、ただ歩くだけで田んぼが揺れて植えたばかりの苗が震えた。


 そんな鴨兵衛の扱いに、劇的な変化、うってつけの仕事が見つかった。


 それは畑の掃除であった。


 収穫の終わった畑から残る茎や根を掘り起こし、次の肥料とするため村の外れにある共用のたい肥山へ、田畑から取り除かれた雑草と共に抱えてと運ぶ作業は、力がいるものの何かを壊す心配のない、正に鴨兵衛の天職だった。


 それでも、関係ない畑に迷い込んだり、取り残しがあったり、たい肥の山を崩したりと一人前とは程遠い仕事ぶりだったが、見張りとしてその家の子供を付けることで補えた。


 家によっては妹のおネギよりも幼い子供に仕事の指示を受けながら、鴨兵衛は文句の一つも言わず、働き続けた。


 ……そうして、六つの家の末っ子になったころ、雨が降った。


 世界を包む大粒の雨、重なりすぎて逆に静かとも思える雨音に、村は火が消えたように静まり返った。


 雨の日は農業はお休み、代わりに家に籠って農具の手入れに荒縄編み、内職を行うのが常だった。


 それは街道も同じで、商品を濡らしたくない商人や滑って転びたくない飛脚たちは雨が止むまで屋根の下からできはしない。そこで相撲をとったり商品売りつけたりするものだった。


 にもかかわらず、茶屋の『ドクダミ屋』は暖簾を掲げていた。


 珍しいことだが、急な急ぎの仕事で走らされる飛脚がいないわけでもなく、その者のためにいつもの茶屋で温かいドクダミ茶とうどんを、と弦五郎は言っていたが、お千は体よく仕事をさぼってるのだと唇を尖らせていた。


 当然ながら、そんな珍しい客が都合よく通るわけもなく、それを知ってる弦五郎も、竈の火は申し訳程度のちょろちょろに抑え、打ったうどんも賄で食う分だけであった。


 ぼんやりと雨で水嵩の増えた沢を見つめる弦五郎、その横にいるのは鴨兵衛一人だけだった。


 お千とおネギは家に残り、ふんだんな雨水を用いて洗濯に、終われば縫物、終われば何かしら内職してることになっていた。


 そちらに入らず店に来た鴨兵衛は、長椅子を作っていた。


 これまで働いた駄賃として借りたノコギリともらった竹と荒縄を使い、まだ濡れてない床に胡坐をかいて、まだ壊れてない長椅子を手本に作り直そうと、四苦八苦していた。


 竹を椅子に合わせて長さを図り、目印に切れ目を入れてから本格的に切断、切れたなら棘が刺さらぬように石をこすり付けて磨く、この作業をカタツムリの歩みがごとくゆっくり慎重に行っていた。


 ……失敗を見越して譲り受けた竹は多いが、それでも数には限りがある。それに竹は切ってすぐの青竹ではすぐに割れるため、日陰で干して水分を、火で炙って油分を抜いてようやく家具に使えるもの、すぐに大量に手に入るものではなかった。


 失敗を恐れての丁重な作業は、鴨兵衛が今の立場をよく思っていないことの表れだった。


「……すまないねぇ」


 ぼそりと呟いた弦五郎の言葉、向ける先は鴨兵衛一人だけだった。


 それに返事を返さない鴨兵衛、だが手を止め顔を上げ弦五郎を見返した。


「お千は、良い子なんだよ。気は強いがあぁ見えて優しいし、気も利くし、しっかりしてる。いつもなら、椅子が壊れたぐらいなんだって、笑うような娘なんだよ。ただ、今回は食い合わせが悪かった」


 カラリ、竈に薪を放り込み、弦五郎が続けた。


「この茶店は、娘夫婦が始めたんだ。婿は元飛脚で、だけども足やっちまって、それでも仲間のためにって、茶屋開いて、この店は大工に頼んだがその長椅子は婿が作ったんだ。最初に座ったのが娘で、そのお腹にはもうお千がいた」


 鴨兵衛に返事はなかった。それでも大事な話と判断したのか竹とノコギリは置いて背筋を伸ばし、身を向けていた。


「……店ができて四年ぐらいたった、夏のころさ。まだ団子を置いてたころ、だけどもそろそろうどんだけにしようか、なんて話してた。それにワサビ、試しに育てて見たら水があったみたいで、すくすく育って、売れ筋も良くてね。売り切れちまったもんだから追加を採りに行ったんだよ。それで、戻ったらお千が泣いていた。娘と婿は、切り殺されてましたよ。ちょうどその店の前でさ」


 静かにその店先を見る鴨兵衛、雨粒が溜まって水溜まりができていた。


「後から聞いた話にゃ、相手はお侍様、無礼打ちだとの話だけど、何が気に障ったんだか、結局わからず終いさ。もう十年も前の話、村でも忘れられてることだが、幼い眼で見ちまったお千には、忘れようにも忘れられないことなんだよ」


「あの長椅子は、形見だったと?」


「そうなりますねぇ」


「…………それを、俺は踏み壊した」


「いやそれは」


 責める気のなかった弦五郎、慌てて繕おうとするも、それより先、鴨兵衛が深々と頭を下げていた。


「知らなかったこととは言え、すまないことをした」


 胡坐をかいたままとはいえ、武士でありながら頭を下げる鴨兵衛に、弦五郎は一瞬驚いて、それか静かに微笑んだ。


「頭を上げて下さい。物はいつか壊れるもの、それはお千も知ってることでさ。ただ、その言葉を、お千にかけてやってくだせぇ。そうすりゃ少しは気が晴れて、静かになるってものでさぁ」


 弦五郎はそう語りかけながら、屋根から頭を出して外を見る。釣られて鴨兵衛も身を乗り出せば、雨の中、お千とおネギが傘を被ってこちらに来るところであった。


 その姿にまた微笑んで、弦五郎はそっと鍋の湯にうどんを沈めた。

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