第7話  夏

 いつもの喫茶店で、三人ずつ向かい合って座る。


 こんな座り方をするときは、どちらかのグループがプランか意見をまとめてきているときだ。


「あなた達、去年の夏はどうしてたの?」

 霞子が訊いたので猛男が答える。


「去年は海の家でビーチボーイのアルバイトしてたな。そのあと双六岳で雷鳥捜したり雪渓でスキーしてた」

「ビーチボーイって女の子に声かける危ない人でしょ。そんなアルバイトがあるんだ」

 雪江達の「へー」という少し驚いた声に安幸が、「俺達がやってたのは海の家に宿泊客を案内したり、水上バイクの案内したり、近くの島まで行くオーナーの船のツアー客集めたり……とかのセールス。つまりアクティビティの営業マンだよ」

 不思議なもので安幸が答えると。誠実な銀行マンのセールストークに聞こえる。


「それでそのあと、なぜ雷鳥捜しとか? 夏なのにスキーなの?」

 尚美が冬馬に訊く。


「そこからは俺達の趣味兼実益ってやつ。俺が雷鳥の写真を一年の時から撮り続けてるんで、タケとヤスは知り合った頃、付き合いで一緒に雷鳥捜しをしてくれた。それで今は、実益を兼ねて一緒に捜してくれている」

「捜してどうするの? 実益って」

尚美が自分の疑問を確かめるように、「ねえ」と二人に同意を求める。


霞子がクスッと笑いながら「ねえ。どうするのかしらね」と言った理由は五人全員に伝わった。(まさかペットにしたり、食べたりする訳じゃあるまいし)


「そんな訳無えだろう」猛男が呆れたように言う。

 霞子が「えっ。私何にも言ってないよね」

 尚美が「声は出てなかったけど、ハッキリ聞こえた」

 霞子が顔を赤らめて、こめかみを押さえた。


 冬馬が、そんな霞子を庇うように、

「雷鳥は氷河期の慰留個体群とされている特別天然記念物だ。冬、白いの知ってるよね」

 尚美に向かって話しかける。

「保護色になるって事でしょ」

「そう。繁殖期は白黒。八月から秋にかけてまだら。秋からは冬にかけて白くなっていく。そういうのを写真に撮って個体識別の参考にしている。その発見報告をするためと保護をするために、一応三人とも保護観察員の資格を貰ったんだ」


「へえ。そうなんだ。それで行けば出会えるってものなの?」

「立山辺りだと最近はそうだな」

「うん。昔から登山者やスキーヤーのマナーがいいので、雷鳥も人を恐れない。慣れて良く出てくるけど問題は猿だな」

「そうなんだよ。猿が雷鳥を捕食するんだ。それで頭が痛い。


 冬馬が思い出して「ほら雪渓のピコ」と言った。三人が手を叩いて笑い、冬馬が説明した。

「たいした話しじゃないんだよ」

 その年の気温にもよるが、双六岳の雪は八月の終わり頃まで残る場所がある。それを利用してスキー部などが夏スキーの合宿に利用する。

 勿論、リフトはおろかロープトウもないから、四百メートルほどの短い距離を滑り降りると、あとはスキー板を担いで自力で上がることになる。実はそれを体力錬成の目的にしているチームもあって、見た目ほど優雅ではない。


 天気が良いと、頭上からの太陽と、雪に反射する太陽熱に挟まれて、焼き肉の具になったような気分になる。差し詰め、ボタボタと落ちる汗は、肉汁とでも言ったら良いかもしれない。

 スキー靴を蹴りつけて作った階段を下から見上げると、天に届くかと思うほど長く延びていて、靴が一段ごとに重さを訴える。

 斜面を登るとき、呪文のように呟くのが「今度は二百。今度こそ二百で止める」という呟きだ。


 つまり雪渓斜面のほぼ中央、二百メートルほどの所が小さなジャンプ台と台状のステップになっていて、そこでやめれば二百メートル登るだけで、スタート地点に戻れるのだ。

 そのスキー部ではスタート位置から二百までの間にポールを立てて、二百メートルの滑降を一本として、ノルマは二十本。二百から先は自由意志で本数に無関係とされていた。


 だが――たかが二百メートル。されど二百メートル――汗にまみれた身体でほんの五十メートル、パラレルをすれば、汗が、風に冷やされ、うしろに吹き飛び、身震いするほどの快感に襲われる。

 次の百メートルをチェックで切り返しスピードが乗ったところで、身体を吹き抜ける風の爽快感に身も世も無く悶えながら、残りの五十メートルはエクスタシーに恍惚と震えながら二百メートルに設けたステップによって空中に放り出される。


 その瞬間――槍ヶ岳が、眼科に広がる残雪のフィールドが……宙に浮かんだ自分の周りを回転する。


「想像してみれば判ると思うけど」安幸が言う。

「夏にランニングして汗まみれでそのままプールに飛び込んだときの身震いする感じ?」

「そうそう」猛男が言う。

「サウナでさ、もう駄目ってぐらい茹でられて、水風呂に入ったときの、ギャッという感じの二~三十倍強いやつだよ」

「ばか。それだと心臓が止まっちゃうよ」気を取り直した霞子が言う。

「凄いんだね。エクスタシーじゃなくて……オーガズムか……絶頂感ってやつね。経験したいなぁ」

 雪江の言葉を全員が無視する。

「それを感じたらもう遅い。すでに、ドーパミン、ノルアドレナリンなどの快楽物質によって溶かされた脳はエンドルフィンの分泌によってランナーズハイの如く、苦痛を快楽に変換され、快感の虜になったまま二十メートルは宙を飛ぶ。十メートルを着地の処理に使うと、残りの百数十メートルなど、悪魔に魅入られたかのように意味不明の叫び声を上げているうちに四百のENDだ。灼熱地獄の縁に到達してしまう」


「その快感――オーガズムの代償――として再び頭上のスタート地点の旗を見上げて――己が意志の弱さに唖然とするんだよ」


 若者達は、後悔の念に悄然として項垂うなだれ最早スキーを担ぐ力も無くなり、ヴォルガの囚人が船を引くように体を前に倒し、スキー板を引き摺りながら灼熱地獄への一歩を踏み出す。


 そんな中で、強靱な意志を持って二百の手前で急停止した者が居た。

 彼はストックを頭上でクロスさせて、後続の者に自分の存在を報せ、衝突の危険を避ける。

 たまたまその後、十秒後に居たのが冬馬だった。

 冬馬も直ちに自分の位置で停止し、今、まさにスタートしかけた猛男に合図して止める。


 二百で停止した男性はコースの中央で止まり、手を上げたまま、なかなか移動しようとしない。冬馬と猛男、その後に居る安幸は、異常を感じて救急態勢を取る。

 猛男が、

「二百で何かあったようです。私と、この男は救護とパトロールの資格を持っているので様子を見に行きます。事情が判るまで滑降は待って下さい。それから状況をここまで知らせる伝令要員を数名、声が伝わる範囲でコース上に配置して下さると助かります」


 三人が緩やかに弧を描いて二百に到達し、急停止した男性に声をかけた。

「どうしました」

 返事を聞くまでもなかった。


「何だったの?」

「捻挫とか骨折?」


 街でアイドルに出会ったような声で冬馬が答える。


「雷鳥が横断してた」

「えっ……?」

「だから雷鳥が二百のところを横断してたんだよ」

「そうなんだ」

「横断歩道を渡る小学生みたいに片方の羽を上に挙げてさ。それを見た人が急いで止まり、後ろから来る俺が雷鳥と接触しないように止めてくれていたというわけ」


「へえ。雷鳥ってそんなことするんだ。賢いんだね」

「……」

 五人は雪江に返す言葉を失い、安幸が話題を変えた。

「ええと。さて……。話しって何」

 

両手で唇の緩みを押さえて、笑い声が雪江に届くのを必死に我慢した尚美が、テーブルの下で、サンダルのヒールを冬馬の向こう臑にぶつけたのは言うまでも無い。

「冬馬君。いつのまにか親父ギャグ使いになっちゃった?」


「いや、だからね。それから、みんなが雷鳥に気をつけて、二百でスピード押さえたもんだから、下まで降りる者が減ったという話しと、ナオのなぜ雷鳥なのかという質問に答えたんだけど」

 猛男が、

「『雷鳥がコースを横断中』って伝えたら、みんなが来てしまってさ。冬馬が交通整理したんだよな。カメラでピコ撮したくて。それでも雷鳥は平気な顔してコースに居座ってた。だれかが『ピコーン。雷鳥にご注意ください』って言ったもんで名前がピコになった」

 

「 自然保護センターに目撃情報を送り、現況調査のデーターに反映させる必要があったからね。それにある程度人間も恐いんだよって雷鳥を驚かしておかないと、猿に喰われてしまう。だから保護観察の腕章を着けてさ、皆に、人になれすぎて猿も恐れなくなった現状と、状態を説明したわけよ。実益ってのはそういう事。あっ。まだ、残ってるけどね。そのときのピコ」

 冬馬がいつも持ってるポケットカメラを出して、液晶画面に映し出した。 

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