第4話  尚美の捻挫

 尚美が捻挫した。

 蹲踞そんきょから立ち上がりながら、間合いを詰めたときだった。


 尚美の得意技は立ち上がりと同時に小手こて面、小手、体当たり面の連続技だ。

 この瞬速の小手は、判っていてもなかなかかわせない尚美の得意技なので、冬馬は蹲踞から立ち上がり様、後ろに下がり、間合いを切ることにしている。

 幸い剣道には柔道のように、積極性に欠けるとかの教育的指導のようなものがない。待ち剣(相手の攻撃を待ち、躱してから打つ。一般的に、積極性に欠けるので、浅いと判断される)だろうと、引き面(下がり面とも。後ろに下がりながら打つ)だろうと、気剣体が一致していればそれは技として一本が認められる。


 冬馬が下がれば、当然尚美も大きく跳び上がるような勢いで間合いを詰めて踏み込むのだが、その足下に叩き払われた竹刀が飛んできた。

 竹刀を踏みかけて、庇った足首を捻ったのだ。


 二人とも剣道着のまま、尚美にはヘルメットを被せて後席に抱きかかえて乗せたが、冬馬は自分のヘルメットが無かったので防具の面を被って二キロほどの佐藤クリニックに尚美を運んだ。心療内科の他に整形の看板も上げている、大学のOBが経営するクリニックだ。


「いいのかな。防具の面なんかで」

 尚美は可笑しくて笑いながら非難する。

 JISの規格品でなければ、代用にもならないことは、勿論冬馬もわかっている。

 

「だって通りの人が見て笑ってるじゃん。何も被らないほうが、ああ女の子を大事にしてるんだなって判って貰えるよ」


「大事なのは気持ちよ


 五十分ほど待つと、ギブスをつけて松葉杖をついた尚美が治療室から現れた。

 尚美に松葉杖を担がせてバイクに乗せ、自分も乗ろうとしたとき、冬馬は免許証を道場に置いてきたことに気がついた。

「マズった」

 学生通りに交番がないことは知っていたが自分のコンプライアンスの問題だと思い、そのときは尚美を乗せたバイクを押して、マンションまで送り届けることにした。

 松葉杖にバッグと面を通して担いだ尚美は、「ねえねえ」と、汗を流してバイクを押す冬馬に話しかける。


「ねえ、冬馬しんどい? 疲れてない?」

「平気だよ、これぐらい。でも、疲れたって言ったら下りて歩くか?」

「ううん。そんなことしない。これぐらいで弱音吐いたら、情けないぞうって、鞭で叩いて励ましてあげる。馬ってそうするよね?」

「知るかそんなこと。恩を仇で返す悪魔め。嬉しくて涙が出らあ。ナオのドジと一緒に一生の記憶に刻んでやる」


「冬馬って馬鹿なの? 飛んできた竹刀処理するのあなたの役目じゃん。ドジはそっち」

「何勝手に決めてんだよ。そんなことしてたらお前、俺の後頭部叩きまくるじゃねーか。わかってるんだぞ。ほら、着いたぞ。お前の荷物、後から持ってきてやるからさっさと部屋で休め。何号室だ」

「302号。冬馬……。道場に置いてある服の中にパンティとブラが置いてあるから見ちゃ駄目だよ」

「見ねえよ。てか、お前パンティまで脱いで防具着けてんのかよ」

「うそだよー。期待しただろ。よだれが出てるよ」

 尚美はケラケラと笑いながら松葉杖をついてエントランスに入り、エレベーターの扉を開けた。

「魔女め」

 呟いて思わず唇を拭いた。

 

    *     *


「冬馬。これじゃあとても教室移動間に合わないし、足が痛い。おんぶして」 

 憐れっぽい尚美の声に、子供を背負う父親のように冬馬が尚美を背負って教室移動する。

 尚美が冬馬の耳に囁く。

「ねえ冬馬。私をおんぶできて嬉しい?」


「馬鹿言ってんじゃねえ。それよりスカートが短いから、後ろからパンツ見えてるんじゃねーか」

「キャッ」

 悲鳴を上げて両手で尻を押さえる。

「噓だよー」と言われて上手く裾を巻き込んでいることに気がついた尚美は、赤面しながら「百叩きの刑にしてやる」と、冬馬の背中を叩き続けた。


 通院の時、猛男と霞子の二人が付き添って、二人のバッグを持ってくれた。

 治療が済んで、帰りにレストランで夕食を摂ることにした。


「ねえ。食事代だけでも払わせてよ」そう言う尚美に、猛男が「馬鹿野郎。俺達を介護のアルバイトにするつもりか」「そうだよナオ。あんたの友達って今までそんな情けない奴しかいなかったのかしら」


「嬉しい」そう言って涙を滲ませた尚美に冬馬と霞子がハンケチを出すと、霞子のハンカチを使い、冬馬のハンカチをバッグにしまい込んだ。

「冬馬のハンカチってさ、くっさいから人前で出さないでよ。洗っといてあげるね」

「おま……俺のは三角巾にできるようにちゃんと洗ってあるだろうが。何でそうやって人の親切を恥かかせてひっくり返すんだよ」

「そりゃあ……好きだからじゃないかなあ」

 にやりと笑う。

「魔女だ」

 冬馬の呟きを聞いて、三人がふざけて「フォッフォッ」と悪魔笑いをする。


 コンビニで朝食を買った霞子が、尚美とマンションに入り、世話をするので泊まると言った。次は雪江が来て泊まるのだという。


 そんな非日常の1週間が過ぎ、通院はしなくなったが尚美の回復は思いのほか長引いた。


 その日も附属病院での各科研修の後で階段教室まで背負って欲しいというメールが入り、早めに南武道場の剣道部、部室前に行った冬馬は、汗を拭いている数人の三年生部員達と喋りながら、尚美の連絡が来るのを待っていた。


「大変ですね。自分とこの勉強もあるんでしょう」という後輩に「大丈夫だ。俺、頭が良いから」とふざけて話すと、別の一人が「内緒ですけど俺、あんな美人背負える先輩が羨ましいです」と言う。


「じゃ、ナオから連絡が来たらお前も一緒に来いよ。本人が良いと言ったら、これからお前に背負って貰うわ」

「まじっすか」

 喜ぶ後輩に「正直、俺も助かる」と言って、提出期限の迫ったレポートのことを考えた。


「あッあれ」

 誰かが指を差す方を見ると、尚美がこちらに向かって走ってくる。

「うわっ。走ってるぞ。おいっ。俺、隠れるからな」そう言って冬馬が靴箱の裏に隠れた。

 後輩達が、息を切らして靴を脱ぐ尚美に「ナオ先輩。どうしたんすか」と声をかけると

「今日出すレポートとノート、鞄に忘れた」と言ってロッカーに取りに行く。

 冬馬が出てきて「見たか? 見たよな」

「なんか治ってましたね」と言っているところに尚美が戻ってきた。

「あらっ冬馬、もう来たんだ」そう言って急にケンケンをする姿に爆笑が湧いた。

 意味が解らず、ポカンとする尚美に、後輩が「ナオ先輩。俺で良かったら、一生背負わせて頂きます」と言った。

 それを聞いた冬馬は尚美の前にしゃがみ、「ほら。無理すんじゃないぞ」そう言って背中を見せた。


「治ったら飲みに行こうか」

 教室に向かいながら、走っていたことを見なかったように冬馬が言う。

「いいわね。快気祝いってやつ。冬馬が私の為にやるんだよね」


――何言ってんだよ。お前が感謝を込めて主催すんだろうが――いつもならそう言っていた筈の冬馬。

「ああ。だから早く良くなれよ。道場の奴らも寂しがってるぞ」

 何故かそう言ったので、ビックリした尚美が冬馬の耳を引っ張った。

「もしもーし。体調でも悪いのですか」



 おぶられる理由がなくなった尚美は、この頃から稽古の相手を冬馬だけに決めたようだ。

 そして息が切れるまで只管ひたすら打ち掛かる、打ち込み稽古を始めた。

 面といわず胴といわず、それは一本を取るためではなく、また、どこを取られても意に介さず、息が切れて立てなくなるまで打ち込み続けた。

 双方の竹刀が冬馬の頭上で乱舞して、打ち、受ける音が激しく道場に響いた。

 一瞬訪れる静寂は二人が大きく間合いを取り息を吸うときだ。すぐに「いやーっ」と尚美の透き通った気合いが耳を圧し、パパンッと竹刀の打ち合う音が続く。


 稽古に付き合う冬馬には「気にしないで」と、それだけ言って、稽古を終えると汗の滲んだ道着のまま衣服を入れたリュックを背負い帰って行く。


 食事の誘いにも乗ってこなくなった。


「ナオが変だ」

 心配して仲間に相談するが、誰も思い当たることは無い。

 そうしているうちに尚美からのメールが皆に入り、それには「飲まない?」と、普段と変わらぬ調子で書かれていた。


「解った。ノン・バーバル(言語によらない)コミュニケーションなのよ」

 尚美と同じ精神神経科医を目指す霞子が、そう分析した。

「ナオは冬馬が好きになったの。言葉に出して言えないから自然に行動に出たのよ。あなた達は竹刀をとおして触れ合い、意思の交歓をしていたんだわ」

「で、俺は――どうしたらいいんだ?」

「情動的な不安感を解消する方法はナオが自分で見つけた。だから冬馬は意識しないで今までのようにナオに付き合ってあげて。一時的なものだから」

「竹刀を通して意思の交歓……か」

 確かに胴に当てた竹刀からは鼓動を、面に当てたときはナオの動きが伝わった。

 次々に打ち掛かってくる竹刀を冬馬は躱さず、敢えて竹刀で受けた。尚美の僅かな身体の気配で竹刀がどう動くのか瞬時に読み取れた。 

 ナオも俺の鼓動を、感じていたのだろうか、竹刀とおして……冬馬は、面金の奥から一時も離れず見つめてくる尚美の瞳を思い出した。


 

 


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