第37話 名将の“眼”


「な、ナイスピッチ。陽野さん」

「ナイスピッチでした! 陽野先輩!」


 ピンチを連続三振で切り抜け、マウンドを降りるエースをベンチのチームメイトも皆笑顔で出迎えた。


「……あ? 話しかけんな」


 しかし、肝心のエースの表情に笑顔はなく、ハイタッチにも応じることなく早足でベンチの奥へ引っ込んでいってしまった。


「ごめん、みんな。アイツのことはそっとしといてあげて」

「大矢先輩……」


 呆然とするチームメイトたちの前で矢面に立ったのは彼女の捕手理解者である大矢優姫乃。


「アイツは集中が深くなるとどうも激情的になりやすいみたい。だからアレは、せめて味方には当たんないようにっていうアイツなりの気づかいのつもりなのよ」

「いや、別にそういうことなら……」


 この場にいるメンバーには普段から涼や優姫乃と試合に出ている選手は少なく、ましてやの陽野涼と接したことがあるのは優姫乃や柚希を含めた一部の選手だけだった。


「お前たち。一度、私の周りに集まってくれ」

「……っ、はいっ! 監督!」


 多くのメンバーが涼の変貌に戸惑いを隠せずにいる中、ベンチの隅に腰を下ろしていた大柿紫が不意の一声でナインを集めた。



「────まずは目を上げろ。以上だ」



 名将と呼ばれる彼女は開口一番、結論だけを手短に押し付けてすぐにまた口を閉ざしてしまった。


「えっと……何の? ですか?」

「そ、それだけ……ですか?」


 選手たちが一様に困惑する中、常日頃から大柿紫と共に戦ってきた柚希が慣れた表情で彼女に声をかけた。


「カントクさん。また言葉足らずになっちゃってるよ! それじゃみんなに伝わらないって」

「……そうか。すまない」


 女子高校野球界きっての名将と称される大柿紫だが、緊迫した試合の最中だと熱中するあまりつい言葉足らずになる癖があった。


「なら順を追って説明しよう。前の回、全員にストレートを狙うよう指示したが、最後はストレートを見逃して三振だった。あれはどうしてスイングできなかった?」

「あ、はい! あれは、その……ボールの軌道が一瞬スライダーに見えて」

「それこそがあのピッチャーのだ」


 不意に前の打席の失策について問われ、6番打者当事者の彼女は恐る恐る返答したが、大柿紫が感情的に彼女を叱責するようなことはなかった。


「これは私の目測だが、あのスライダーは進行方向に向かってほとんどまっすぐなジャイロ回転がかかっているのだろう。涼のスライダーのような横曲がりの回転サイドスピンが少ないために横曲がりが小さく、揚力を生み出す上向きの回転バックスピンもないため重力に逆らえず小さく落ちる。人間の目は横の動きよりも縦の動きに弱い。ストレートと似たような軌道から鋭く縦に沈むあの球はちょうど視界から消えるように見えるだろう」


 大柿紫の論が進むにつれて、蘭華の選手たちは今が試合中だということも忘れて聞き入っていた。


「加えて、ジャイロ回転は空気抵抗を受けにくいため軌道が安定し手元でもスピードが落ちないせいで打者はストレートだと錯覚しやすい。お前はその球を警戒するあまり、同じような球速で同じような軌道からノビてくるストレートに手が出なかったんだろう」


 その仮説に、見逃し三振を喫した彼女も納得がいったように頷いていた。


「つまり、あの投手のピッチングは“ストレートに見える球”が『スライダー』で、“スライダーに見える球”が『ストレート』になるよう構成されている。2つの球種がお互いに偽装し合っているから割り切ってスイングしてもなかなかとらえきれない」

「な、なるほど……」


 変化球主体のこの時代にこれだけシンプルな投球を組み立てる投手はほとんどいなかった。だからこそ、蘭華のような強豪チームでも直ぐには攻略することができなかった。



「────ストライーク! バッターアウト!!」



 この回先頭で打席に入った7番打者も低めいっぱいのストレートに手が出ず、見逃し三振に倒れた。

 明姫月バッテリーのシンプルな配球に翻弄される様を見て、大矢優姫乃が不安そうな声を漏らした。


「けど、それじゃあ相手の失投を待つ以外に具体的な対策が取れないんじゃ……」

「いやいや、ヒメちゃん。そうと分かってれば攻め手はあるはずだよ」


 優姫乃の質問に反応したのは、大柿紫のすぐ傍らに腰掛けていたチームの主砲藤宮柚希だった。


「あのピッチャーの武器は打者の想像よりノビてくるストレートと、同じような軌道から鋭く沈むスライダーでしょ? その2つの球種を低めのゾーンで出し入れして錯覚を作ってるんだよ。ストライクになるストレートは振りたいけど、ボールになるスライダーは振りたくない。そんな打者心理を上手いこと利用されてるんだよ」

「それくらいはわかるけど、それが見極められないって話でしょ? みんながみんなアンタみたいに簡単に野球してる訳じゃないんだからね」


 大柿紫の話を聞いている時とは明らかに優姫乃の態度が違った。柚希も今更それを気にする様子もなかったが。


「だからさ、スライダーをストレートと見間違えるってことはスイングするまでのどこかで認識してるはずの“違い”があるってことだよ。ね? カントクさん」

「ああ。あの2球種を見分けるために重要なのは“投球の角度”だ」


 柚希の説明を引き継ぐ形で、大柿紫は論の核心に触れた。


「2つの球の軌道は似ているが全く同じではない。例えば、2つの球を全く同じ終着点に到達するように投じたとすれば、最後に沈むスライダーのほうが軌道としてはより高く膨らむ必要があるだろう」

「それは、確かに……」

「しかし、このわずかな軌道の差が打者の目を欺く“毒”となる」


 ここまで聞いて、選手たちはようやく大柿紫が真っ先に口にした結論の意味に気づき始めた。


「ストレートを狙っている打者にとってはこの僅かに浮いた軌道が絶好球打ち頃のストレートのように見えるが、実際にはそこからゾーン外へ沈んでいく。逆も然りで、低めのスライダーを振るまいとしている打者には低く沈み込む軌道が空振りを誘うスライダーのように見えるが、実際はそこからゾーン内へノビてくる。この軌道の変化がちょうど打者がスイングの要否を判断する地点から縦に別れ始めるから、打者の眼はたった2つの球種を真逆に錯覚してしまうのだろう。先にも言及したが、人の眼は縦の変化には鈍いものだから」



「────スイング! バッターアウッ!!」



 その言葉通り、続く8番打者の彼女も鋭く沈むスライダーを空振りし、二者連続三振となった。


「このさえ分かってしまえば、対策を講じることは難しくない。あのストレートはかなり特殊な球質の球だが、スライダーはそういう訳でもない」

「……だから、甘めから落ちてくることを頭に入れた上でスライダーその球を狙えってことですか?」

「そうだ。打席で見ていない者でもベンチからスライダーの軌道はもう充分に確認できたろう」

「『はいっ!』」


 大柿紫の論考がようやく最初と同じ結論に行き着き、今度は選手たちも皆納得して頷いた。


「もちろん、たった2つの球種を最大限機能するように組み立て、ここまで大きなコントロールミスもなく投げてきたあのバッテリーには敬意を表さなければならない。しかし、これでもうデータも対策も必要なものは全て整った」



 ────キィッッ!!



 この回3人目の打者は初球のストレートを打ち上げセカンドフライ。この回もランナーすら出せず三者凡退に終わったが、指揮官の眼には揺るぎない確信が宿っていた。


「次の回、あの投手を。試合の流れを変える先制点を取る。1点か2点、それだけあれば今日のお前には充分だろう?


 そんな言葉で、大柿紫は入れ替わりでマウンドに上がろうとしていた“蘭華のエース”に発破をかけた。

 エースの答えは、もう決まっていた。


「ああ、もちろん」


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