第32話 先制点を巡る攻防


「……なぁにしに来たんだよ、ヒメ様」

「アンタ、ワタシが来る度いちいちその顔するのやめなさいよね」


 エースとしてのプライドか、陽野涼は大矢優姫乃捕手がマウンドに上がるのを嫌がっていた。が、今更それに怯む間柄でもなかった。


「どうも向こうは徹底的にカウント球のスライダーを狙ってきてるみたいね。誰の提案プランかは分からないけど、ここまで統一されてる攻めは見事ね。チーム内でちゃんとコミュニケーションが取れてる証拠だわ」

「だぁから、そんくらいでウチらが負けるかっつってんだよ」


 いつまでも不貞腐れたような態度をとる涼に対して、優姫乃も静かに語気を強めた。


「アンタ、そうやってすぐ相手をナメてかかるのやめなさいっていつも言ってるでしょう?」

「……別に、ナメてる訳じゃねーよ」


 優姫乃に追い詰められた涼は思春期の子どもが親に言い訳するかのような声色トーンでそう呟いた。


「ただ、ウチらとアイツらとじゃ目指してるもんが違うだろ。グランドに立つ目的が、価値観が違う。に野球をやってきたアタシたちが、仲良く楽しく野球をやりたいってヤツらに負けていい訳がないだろってだけだよ」


 彼女は決して嫌味を吐いている訳でも、明姫月を貶めようとしている訳でもなかった。ただ偽ることなく自分の心を言葉にうつしているだけであった。


「アンタね、そうやって人を……」

「別に人として見下してる訳じゃねーよ。けど、そうでなきゃ報われねー思いもんがこっちにはあるだろ」


 陽野涼は藤宮柚希と同じく推薦入学で名門蘭華女子野球部に入部した。1年の夏から全国に出場するチームのエースを任されてきた。

 誰もが羨むエース街道を歩んできた彼女だったが、中学時代は無名の公立校の野球部に所属していた。自分がどれだけ好投しようとチーム勝利に結びつかない環境は負けず嫌いの彼女にとって歯痒さと憤りが募るばかりだった。

 そんな日々を味わってきた彼女だからこそ、当たり前のように全員が勝利を目指して必死に努力している蘭華のチームメイトたちを誰よりも尊敬していた。そんなチームの先頭エースでいられることを何よりも誇らしく思っていた。


「はぁぁぁ……」


 チームの責任を一身に背負おうとするエースに向かって、正捕手である優姫乃は大きなため息を漏らした。


「ワタシだって負けていいだなんて思ってないわよ。3年生がいないこの日のために懸命に努めてきた子がいるのも知ってる。ただ、ワタシは過去の結果だけで相手を知った気になるなって言ってるの。そんなものは見ず知らずの他人が作り上げた無責任な偶像に過ぎないのよ。今目の前にいる相手くらい、自分の目で見て計りなさい」

「……」


 蘭華女子野球部にとって、藤宮柚希と陽野涼は“特別”だった。2人とも、多くの期待を受けて入部し、1年生の時から厳しい場面で結果を残し続けてきた。

 そんな2人には蘭華の伝統を守ってきた上級生たちも一目置いていたが、その反面、同級生や下級生にとっては皆目触れづらい存在となっていた。突出した才能と特殊な感性が、凡人を突き放す壁のように見えて日常的に話しかけることすらままならなかった。ましてや試合中、感情的になっている彼女に意見を返せる者なんて誰もいなかった。

 ただ1人大矢優姫乃を除いては。


「あの子たちは弱くないわよ。少なくとも今日、ワタシたちに本気で勝つつもりでここにいる。アンタが楽して見誤っナメてたら簡単に足元掬われるわよ」


 大矢優姫乃は決して“特別”な選手ではなかった。平均以上の身体能力や野球IQなどは持ち合わせていても、2人のような突出した才能には恵まれなかった。


 それでも彼女は恵まれなかった現実に腐らず、努力と工夫で2人と並び称されるほどの選手になった。


 3人が揃って試合に出るようになったのは1年の秋。当時3年生が引退したばかりのチームにおいて2人は飛び抜けた存在になろうとしていた。周りが心配になるほどのマイペースで掴み所のない性格の柚希と、プライドが高く相手が上級生であろうと決して自分の意見を曲げない涼。そんな2人と積極的にコミュニケーションを取り、チームの輪の中に迎え入れたのが他ならぬ大矢優姫乃だった。

 2人も、能力は劣っていても自分たちと同じ目標のために懸命に努力し、結果を残してきた優姫乃に敬意を払い、チームメイトの中でも特段心を許していた。

 だからこそ、優姫乃の言葉は時に監督である大柿紫よりも効力を持っていた。


「はぁ、わーったよ。ヒメ様がそこまで言うんならひとまず今の言葉は取り下げる。ただ、アタシはまだアイツらを認めたつもりはねーけどな」


 どこまでも自分の意見を曲げようとしない尊大なエースの姿に、女房役の優姫乃は呆れたように息をついた。


「アンタって本当に意地っ張りよね……」

「はッ、わかってねーなぁキャッチャーヒメ様は。意地も張れねー奴が好き好んでマウンドの上こんなトコ立つかよ」


 優姫乃は不覚にも、それは一理あるかもなと思ってしまった。


「とにかく、ここは1つのアウトを丁寧に行くわよ。集中しなさい!」

「へー、へー」


 最終確認を強く釘付けて、優姫乃はマウンドを離れた。


「シオリちゃん。ちょっとちょっと」


 優姫乃がポジション戻る間際、大飛球に倒れベンチに帰ってきた葵が打席を待つ栞李を呼んだ。

 走り寄ってきた栞李に対して、葵は簡潔に一言二言だけ言葉を伝えた。


「バッター! 準備が良ければ打席に入ってください。試合を再開します」

「あ、はい! すぐ行きます」


 球審に促されて栞李は慌てて打席に向かった。その様子を目で追いかけるフリをして、優姫乃の視線は今まさにベンチとサインを交わしている1塁ランナーへ向けられていた。

 2アウト1・3塁のこの場面、攻撃側の作戦として真っ先に思いつくのが1塁ランナーの盗塁スティール。ランナーを2・3塁に進めてヒット1本で2点入る場面を作るのが定石セオリーとされていた。


「涼! ツーアウトだから、ここは打者バッターに集中するわよ!」

「へいへい」


 そのセオリーを知っていながら、蘭華バッテリーは栞李8番打者との真っ向勝負を選択した。

 その最大の理由は打順。

 末永栞李の打順は8番。そこは本来チーム内でも打撃の苦手な選手が座る打順である上、2つ後ろにはメイ・ロジャース全国クラスの好打者が控えている。ランナーを溜めた状態でメイに打席を回すことが明姫月打線の生み出せる最大の脅威であることは明白なため、その脅威ピンチを未然に防ぐべく、蘭華バッテリーは例え盗塁を許してでも打者との勝負に集中することを選んだのだ。

 それは無論、真っ向から勝負すればこの打者末永栞李を打ち取れるという自負を含んでいたのだか。


「ふぅ……」


 もちろん、この展開は葵にも予想できたことだ。しかし、投手と打者の真っ向勝負になれば不利になるのは紛れもなく明姫月のほうであった。というのも、明らかに投手と打者のクオリティに差があり過ぎる。栞李も新入生にしては比較的打席での貢献度も高い選手だが、相手は全国的に名の知れたエースピッチャー。その差を埋めるために葵が考えたスライダー狙い作戦も既に優姫乃相手捕手に見抜かれている以上、同じように機能はしないだろう。だからといって、この絶好の先制機を見逃すほど明姫月に精神的余裕もない。

 なんとしてでも先取点が欲しい。そのために、津代葵策士は迷わず初球から仕掛けた。



「────ランナー走った!!」



 大方の予想通り、陽野涼が足を上げたのを見て1塁ランナーの芝原あやめがスタートをきった。しかし、陽野涼の巧みなクイックモーションにタイミングをずらされたのか、明らかに1歩目のスタートが遅れていた。


 “これなら刺せる!”


 その様子を視界の端に捉えていた大矢優姫乃はすぐにそう確信した。この盗塁を封殺してイニングを終わらせる。そのために送球体勢に移ろうとした時、思ってもみなかったことが起きた。


「バント……っ!?」


 打席の栞李がバットを横に寝かせたのだ。

 アウトカウントはツーアウト。打者がアウトになってもこの回は終わる。となれば考えられる作戦は……


「セーフティ!!」


 栞李のバントの構えを見て、一塁手ファーストが真っ先に前へ飛び出した。マウンド上の陽野涼も3塁ベースカバーに残る三塁手サードに変わって3塁側へ走り降りる。

 この際、蘭華の一塁手はガラ空きの1・2塁間を庇うように無意識のうちにややセカンド寄りにプレスをかけていた。



「────そこだ! シオリちゃん!」



 蘭華野手たちのプレッシャーにも負けず、栞李はわずかに空いた1塁ライン上に向かって白球を転がした。


「オーライ!!」


 当然、その打球に対して真っ先に手を挙げたのは一塁手。これを1塁へ送球してチェンジ。誰もがそんな一連のプレーを思い描いていたが、そこで不意に“異変”が訪れた。


「1塁! カバーいない!!」

「は……っ!?」


 一塁手が飛び出してきたために1塁ベースでボールを受け取れる選手がいなくなっていたのだ。本来ベースカバーそこにいるべきだった二塁手は盗塁の送球カバーで2塁ベースに寄っていた。それに気づいた涼が慌てて1塁へ走り出そうとしたが、3塁側へ降りていたせいで1塁までは大きな距離がある。到底ベースカバーは間に合わない。そうなれば直接打者走者をタッチするしかないのだが、2塁方向へプレスをかけていた一塁手はそれにも少し距離がある。白球がフェアゾーンを転がっている隙に、抜群のスタートを切っていた3塁ランナー緋山菜月はもう本塁ホームのすぐ手前にまで迫っていた。

 誰もが明姫月の先取点を確信しかけていたその時、本塁を守る司令塔大矢優姫乃が鋭い声を飛ばした。



「────触らないで! 切れる!!」



 虚をつかれたプレーにかき乱され、蘭華ナインのほとんどが失点を覚悟する中、優姫乃だけは焦らず最後まで冷静に打球の行方を追っていた。そんな優姫乃だったからこそ、その打球がわずかにファールラインの外に向かって転がっていることに気がついた。

 その指示に従って一塁手もイチかバチかその打球に触れずに見送った。


「ちッ……アヤメちゃんもう1人!! 帰ってこれる!!」


 しかし、明姫月の正捕手である葵もそれをタダで見送らせる程カワイイ性格はしていなかった。予めスタートを切っていた芝原あやめ1塁ランナーは2塁を蹴り3塁ベースに向かう途中で一度スピードを落としていたが、葵の声を聞いて再加速し一気に本塁を目指す。これによって、この打球が最後までフェアゾーンに残れば明姫月に2点目が入る可能性が生まれた。すぐに拾って送球すれば2点目は防げるものの、フェアゾーンでボールに触った時点で明姫月に1点が記録される。

 試合の流れが変わりかねない難しい判断を迫られても、優姫乃は決して揺らがなかった。


「いい! 大丈夫。切れるから」


 チームメイトも最後まで優姫乃の判断を信じて打球を見送った。


「残れぇ──ッ!!」

「切れろ切れろ切れろ!」


 絶妙に勢いを殺された打球はゆっくりとスピードを失っていき、ちょうどラインの真上で止まったように見えた。


「ファール! ファールボールッ!!」


 しかし、あと一歩のところで白球はラインの上から転がり落ち、ファールゾーンへ出てしまった。

 その判定ジャッジがコールされると、観客席から雪崩のような安堵の息が漏れた。


「あーッッ! 惜しいぃぃぃ!!」

「あとちょっとで先制できたのに……」

「いいよ栞李ちゃん! ナイスバント!!」


 先制点のチャンスを目前で逃しても、明姫月ベンチに過度な気落ちはなかった。それどころか今度こそ先制するぞとばかりに勢いを増しているようだった。

 それもこれも、全てはたった1人のプレイヤー津代葵の策略がもたらした結果だった。

 そんな明姫月の勢いを落ち着かせるべく、優姫乃はポジションに戻る前に陽野涼の元に立ち寄った。


「迂闊だったわね。盗塁のスタートが遅れてたせいで盗塁阻止に気を取られ過ぎた」


 開口一番、反省を口にしたのは誰よりも深刻な表情をしていた大矢優姫乃だった。

 葵の作戦は1塁ランナーの盗塁を囮に使い、セーフティバントで先制点を奪おうというもの。ただしこれは投球がボールだったり、バントが空振りになってしまうとセカンドでランナーが刺されてイニングが終わってしまう。それを避けるために葵は前の打者に球種の狙い打ちを指示していたのだ。


「配球から図られてたのか……」


 スライダーを狙われピンチを背負ったバッテリーは初球の入りに変化球ではなく見逃し狙いのストレートを選択していた。結果として、これが陽野涼の持ち球の中で最もバントしやすい球種になってしまった。


「ここまでの条件がたまたま揃ってたのか、それとも意図的にのか……考えるだけでゾッとするわね」


 何よりも優姫乃を驚かせていたことは、この一連の戦略は全て、彼女や陽野涼を中心とした組み立てられていたことだった。

 そもそもスライダーを狙い打とうにも、捕手の意図通りに投球できる涼のコントロールありきであり、投球の質が高い投手相手でなければ意味をなさない。盗塁阻止に関しても、打者勝負と伝えていながらスタートが遅れたのを見るやランナーを刺すためのシフトに切り替えたのは、咄嗟の状況判断でプレーを変更できる蘭華内野陣の完成度クオリティの高さが故の事だった。

 それを尽く信頼し、利用されたことには優姫乃も驚きを通り越して恐怖すら感じていた。


「あー、どうも本当にアタシが間違ってみたいだな……」


 その一見地味なワンプレーは、強情で意地っ張りな陽野涼が自分の意見を撤回するだけのインパクトがあった。


「前言撤回。こっからはアタシも全力で行かなきゃな」


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