第16話 不格好な笑顔


「ふ〜、今日の試合やっぱり緊張したね〜」


 試合後の部室の雰囲気は明るかった。

 初回、ヒナタ先輩の活躍で何とか1失点で凌ぎきった裏の攻撃、凪紗先輩キャプテンのタイムリーツーベースヒットであっという間に逆転に成功。

 ヒナタ先輩はその後もエラーや味方のミスでランナーを背負う場面があったものの、その度にギアを上げ得点を許さず。

 終わってみれば『5-1』のスコアで完勝を収めていた。


「それじゃあみんな、わたしは先に帰るね〜」

「あ、ヒナ先輩! おつかれさまで〜す!」


 そんな和やかな空気の部室から、ヒナタ先輩がひっそりと離れていった。


「先輩! 待ってください!」


 静かに遠ざかるその背中を、私は慌てて呼び止めた。


「葵? どうしたの〜?」

「や、その……途中まで、一緒に帰ってもいいですか?」


 慣れないことで変に固くなる私の声を聞いて、先輩はにこりと顔を綻ばせた。


「もちろんだよ」


 その笑顔に安堵感を覚えたのは、この時が初めてのことだった。


「それにしても、葵から誘ってくれるなんて嬉しいなぁ。今日はどうかしたの〜?」

「いやその……」


 この人はこんな時ばかり鋭いから、少し悔しい。


「今日の試合のことで、先輩にちゃんと謝っておきたくて……」


 散々心の準備をしてきたはずなのに、それでも尚声が震えそうになる。そんな情けない私に対しても、陽葵先輩の声は穏やかだった。


「べつに葵が謝る必要なんてないよ〜」

「けど! 散々迷惑かけましたし……あの1点だって、私のパスボールがなければ」


 地面に向かって言葉を吐きつける私の額を、彼女がまたそっと持ち上げてくれた。


「も〜、すぐまたそんな顔して。顔上げてよ。ね?」


 ようやく顔を上げた私に向けて、陽葵先輩は柔らかく笑いかけてくれていた。


「先輩は……どうしてそんなに誰にでも優しいんですか?」


 キツく張っていた心が思わず緩むようなうららかな瞳に見つめられてつい、包み隠していた言葉たちがこぼれ出す。


「試合中だって、私がどんなにミスしても嫌な顔しないし、私の分も勝手に責任背負って、結局、全部1人で片付けちゃうし……」


 初回、私のミスで点を失った後から、球威もキレも明らかに増していた。まるで別の投手ヒトになったかのような、気迫のこもった投球だった。

 ブルペンでも試合が始まった時も、決して手を抜いていたようには見えなかったのに。


「私にはアナタのことが分かりません。アナタが何を考えてるか分からないです。どうしてアナタがそんなふうに笑ってるのか、分からないんです」


 感情が溢れて目の前が真っ白になっていた私へ、陽葵先輩から返ってきたのは一糸纏わぬ自然な声色だった。



「────わたしはやっぱり、『自分のため』じゃそんなに頑張れないんだよね」



 その声音に思わず、私は一時、耳を奪われた。


「どれだけ強く意気込んで、高い目標を設定してみても、結局最後の最後で強く踏み切れない。ここぞって時に思いきりよく腕が振れなくなるんだんだよね」


 それは、今まで私の目に映っていた自由奔放で勝手気侭な『一之瀬陽葵』からは想像もできないような言葉だった。


「みんなはよく、わたしに特別な才能があるって言ってくれるけど、それっぽい実感はないし、それを辿った先にあるかもしれない大きな未来も、わたしにはうまく想像できない」


 今日のピッチングを見て、彼女に特別な何かを感じなかった人はいないだろう。ましてや本人にその手応えがなかったはずはない。

 そのはずなのに、すぐ隣の彼女の表情にウソやごまかしの色はなかった。


「けど、そんなわたしに誰かが期待してくれる。わたしのプレーで誰かが喜んでくれる。ただそれだけのことが自分の成功よりずっと嬉しいんだ。わたしって単純だから、満面の笑みで『頑張れ』って言ってもらえるのが何よりも嬉しいんだよ」


 そう話す彼女の瞳はオレンジ色の夕陽を浴びて、キラキラと輝いていた。


「そのためなら、わたしはいくらだって腕を振れる。そのほうが『自分のため』よりずっとずっと頑張れるんだよ」


 胸が苦しくなるほど優しいその笑顔が、試合中あの時のソレと重なって見えた。


「だから今日は、後輩のはじめての試合を嫌な思い出にしたくなかっただけ。葵に、あんな泣きそうな顔……してほしくなかっただけだよ」


 ふと、きまぐれな風が、私の後ろ髪をやさしく振り払っていった。


「……ホント、ズルい人ですね」


 街のクリスマスツリーだってきっと、それを見に来てくれる人がいるから何年もその場に建っているのだろう。あれだけ人の目を惹くものが、誰の苦労もなく建つはずはないのだから。


「今日は、本当に……ありがとうございました。先輩」


 2人にしか聞こえないような細い声を聞いて、陽葵先輩は満足そうに頬を丸めた。


「うん。ようやく笑ってくれた」


 その時の私はいったいどんな顔をしていただろう。慣れてるはずもない、不格好な笑顔だったはずだ。とてもひと様に見せたいような顔じゃない。

 けれど、それが一番素直に出た私の本当の表情かおだったと思うから。


「そんなにまじまじ見ないでください」

「えー、可愛いのに」

「そうやって誰にでもすぐカワイイカワイイって言わないでください」

「え〜。思ったこと言ってるだけだよ〜?」

「だから余計にタチが悪いんですよ」


 目の前に広がる夕暮れの空が、昨日より少し、色鮮やかに見えた。

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