第16話 丹後再訪

  波多野が駅前に駐めた車の後部座席に二人は座り込んだ。

「こちらへは初めてとお聞きしました」と波多野は木下に伺った。

「あーそうだ」木下は知っていたのかと加納を見ながら頷いていた。

「リフトで飛龍観へ上がられたのですね、どうでしたか初めての股覗きでの天橋立は……」

「良かったが場所が遠い、同じ京都なのに遠い姫路と時間が変わらないのが気になった。天橋立は特急で二時間少しだが、姫路より近いのに姫路だと新快速で二時間弱だからお客さんを呼び込むのはこれは波多野さん大変ですよ」

 山間部を走る山陰線の特急と平野部を走る電化された複々線の東海道線では差がありすぎた。

「そこがネックですが車で高速道路を使えば二時間は掛かりませんから」

 木下の云う行き止まりにならないために波多野は車の利便性に賭けていた。 

 車が走りだすと、まず木下はスムーズな車の出だしに感心した。それは地下鉄出入り口での「無理ならけっこうです」と云う強引さは微塵もなく謙虚だと加納から聞かされたイメージがそのまま伝わって来る発進だった。

「僕らよりちょっと上ぐらいですのに車の扱いには慣れてますね」

「そうですか、免許を取って七年ぐらいでしょうか」

「でも役所なら業務の大半を民間に委託するからそう乗らないでしょう」

「いや税収の少ない町ですからそんな余裕はありませんよ、だから出掛けるときは自家用車ですけれどそれでも役場内の仕事が主ですから出るのは少ないですね」

 車は町中を抜けて道が一本の国道になると間もなく海岸が迫る道に出た。直ぐに木下が鮮やかな海を眺めて感動した。

「加納、綺麗な海だなあ須磨の海岸とはやはり違うなあ」

「瀬戸内海とここでは違うよ第一今日は凪ているが日本海は広くて波が荒いから海水が良く掻き回されるんだろうなあ」

 瀬戸内と違って荒れる海で育つ漁師は、良い悪いかがハッキリして中途半端な物腰を嫌うし拘りもない。魚の群れを見付けても網に掛からず可怪おかしいと思えば直ぐにやり方を変えて別の群れを追う。

「良くかき回せるか、偏らないところがいいんだろうなあお前も俺も」

「海と一緒にされると困るけどね」

 まったくだと観光でしか海と接しない木下も同調した。

 見とれた海も単調な海岸線が続くと途中で抜ける幾つかの集落が今度は逆に気を落ち着かせる。見慣れるとしっかり物事を掴んでいないと気持ちを振り子のようになるから怖い物だと実感させられた。

 道が急に海岸沿いの国道からそれて未舗装の林道に入った。

「ここからが俺の物らしい」

「間違いなく加納さんの所有物件ですよ」

 すかさず波多野が言い添えた。そうかと木下は今一度周囲を見回した。

「波多野さん、その遺産の件ですが伯父の仕事は順調何ですか? 祖父が残した現金も多少だが分けてくれたのですが……」

「少ないんですか」

「いや、思っていた以上に多く振り込まれていて」

「どれぐらいあったんだ」

「年収の半分ぐらい」 

 ホオ~いいじゃないかと木下は感心した。

「それで伯父さんには借金と云うか期日を過ぎた未払いのある得意先は無いんでしょうか」

「取引先の銀行さんからもそう云う話は聞きませんし、税金の滞納もありませんから健全な経営じゃあないですか」

「じゃあ遠慮無く使ってもいいか」

「おい、さっそく何に使うんだ」

「妹の沙織さおりがこの金を当てにしてるんだ。来春卒業する妹は専門学校に通う者たちで家を借りてそこを将来の事業所にする計画を立てているんだ」

「粋なことをするなあそれは両親は知ってるのか」

「まだ言ってないが妹にはゴーサインを出した」  

「なあ加納、お前のお母さんはお前を連れて再婚したそうだがお養父とうさんとは実の親子じゃないそこは角は立たないのか」

「物心ついた時からのお父さんだったからそれがある日突然、本当にまったくの突然、何も予期せず進学で戸籍を閲覧して自分の欄に養子と記入されていて『ハァ、何これ?』と一瞬戸惑ってたまたま父が留守だったので母に訊いて知ったがその後もまったく生活に変化がなかったから多分、養父おやじは『あ、そうか』のひと言で済みそうだ」

 そうかと木下は取り越し苦労だったとひと息付いた。


 着きましたと波多野の声と同時に車は停止した。しかし回りは鬱蒼とした森の中で確かにもう林道はなかった。木下の怪訝けげんを払うようにここからは歩いて頂きますと波多野のに言われて「どう云うこっちゃ」と木下は加納の顔を窺った。

「祖父の同意が得られず道はここで中断したんだ」

 確認するように木下は波多野に目をやった。彼はそうですと頷き先導した。二人は、波多野に続き山道を歩き出した。

「それでもちゃんと歩けるようになってるやないか」

 木組みの階段を上り出すと木下が興味を示した。

「あの林道と言いこの山道も本家の波多野さんを説得するために作らしたものなんですよ」

「そうかそれで役所の波多野さんとしては世代交代を機に一気に進めたい腹づもりで頑張ってるんですか是非成功させたいですね」

 木下のエールに波多野は感激した。波多野もこの人は加納さんとは違う心意気を感じ取った。

「加納さんは良い友人をお持ちでよろしいですね」

 入社してひと月の仕事仲間を良友と呼ばれて、これは誇りに思って良いのか。加納は複雑な心にさいなまされた。我が身の保身を図るなら、これは干渉しないに超した事は無いが。波多野さんに比べて、素直に受け容れない我が身の情けなさをしみじみと味わった。

「いやあ、波多野さんこそ自分が主体となって取り組めるプロジェクトを持っていて羨ましいなあ」

 木下は先導する波多野に語るとその背中からヒシヒシと熱いものが伝わる。

 過疎化に悩む何処の自治体も起死回生の生き残りを懸けた一手を模索中なのだろうが、冒険心に二の足を踏む中で、彼は果敢に挑戦する意欲がひときわ頼もしく見える。

 行く手の雑木林の隙間から見え始めた青空が半分までになった。どうやら頂上が近いらしい。先を行く波多野さんが立ち止まった。その足元は拓けた地面で周りは大半を青空で締めていた。そこから先は下り坂を意味していた。

 やれやれとひと踏ん張りして波多野さんに続いて二人は頂上に立った。頭上に有った木々は今や平伏したように足元に広がり目の前には海が広がっていた。右手には彎曲した陸地が続き遙か先に小さな山陰が若狭湾に没して途切れていた。

「今日は天気がいいですから良く見えますが丁度正面に島影のように幽かに見えるのが越前岬です」

「随分と遠いなあ」

「でも右手前の海岸線は天橋立を始めに地形が変化に富んだリアス式海岸が続いてますからその景色を眼下に見下ろせて子供から大人までが楽しめるレジャー施設を作る予定何です」

「加納、お前はここだけもらったんだなあ」

「人が生計を立ててる実家をどうこうしても仕方が無いしここもそうなんだったが」

「それじゃあサッサと相続放棄するつもりだったのか」

「とにかくこの景色を見てからにしてくれと波多野さんに説得された」 「風光明媚な手づかずの自然は開拓すべきだそれがお前の持論だったなあ」

「風光明媚だがまったく手の付けられない場所も有るがあれは何とかならないもんか」

「日本にまだそんなところがあるのか? 何処だそこは」  

「千島列島、戦前は日本人は住んで居たが今は北の幌筵島と占守島、南の択捉島と国後島の二島には人が住んでるが後の得撫島うるっぷとうから温禰古丹島おんねこたんとうとの間にある十四の島はほとんどが無人島だ」

「そう云う政治的な話はよそう波多野さんも返事に困ってる」

 役所勤めの辛いところだろうが頂点を極めるには政治手腕も駆け引きの道具になる。その典型が無理を言ってから折り合いの付くところで妥協するのが上手い交渉術だ。最初から譲れない主張を前面に出すのは愚の骨頂だが、引き際を間違うと祖父の波多野のように更に上乗せしてきて困った波多野遼次はたのりょうじさんは加納に誠意を尽くしてここまでこじつけた。

「まあ、まあ木下さん、加納さんは政治的な局面でなく純粋な自然崇拝者として言っておられるのですから暫く耳を傾けても良いんじゃないでしようか」

「波多野さんがそう云うなら、加納それでどうなんだ」

「手付かずの自然の美しさほどその価値を広めるべきだと思ってる。美しい景色は万人の物だと言っているだけなんだ、それをあの北の寒い国は持て余して手放さないでいる……」

 まるで千島列島はただ風雪にさらされるままに朽ち果てて地上から見捨てられた存在だと、そこまで言って虚しさが漂った。シベリア抑留で潰えた英霊の魂だけが列島に彷徨っている。

「どうした」と木下が声を掛けてくれたお陰で我に返った。それで加納は笑って応えられた。

「波多野さんソロソロ引き揚げましょうか」

「これに匹敵する景色を思い浮かべてくれて浸っていただいた。それで有り難いです」と波多野は顕著けんちょに礼を述べる姿に、木下は友人との違いを見せ付けられた。それが果たして加納の為になるのか思案を巡らす内に三人は山を下りた。

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