第13話 橘麻衣 その六

 一本木忠太と役人の一行が猫屋のまえを通りすぎてから、小半時ほどが経っていた。

 集まった野次馬と、たまたま居合わせた買い物客の群れが、ようやく散らばりはじめている。

 麻衣も店の軒先から、百軒や、すっかり仲良くなった裏店の住人たちと一行を見物していた。

 いまは三々五々引き上げていく老若男女を、ひとりでぼんやりと眺めている。百軒もご近所さんたちも、すでに家のなかに入ってしまってとなりにはだれもいない。人いきれのせいか、脳がしびれ、麻痺したように体が動かないのだ。

 家に入らない理由はまだある。

 麻衣はこの行列を―――尚之介のすがたを、そして、犬養のすがたを最後に一目見たら未来に帰ろうと決めていた。

 常夜燈はすでに麻衣のもとにある。春平太から尚之介の手に渡り、それから蔵六の手で猫屋に届けられ、百軒によって調整と最終確認がなされた。実に十ヵ月ぶりに、常夜燈は麻衣の手に戻ったわけだ。

 ここまでくれば、帰るのは簡単である。まず、猫屋に入り、百軒にいままで世話になった挨拶をして、蔵六やイチへの文をことづてる。さらに、つると吾平にも礼を言ったら、ここへ来たときとおなじように、常夜燈にスマホを差しこめばいい。それでなにごともなく未来へ帰れるはずだ。

 ―――が、その踏ん切りがなかなかつかない。出てくるのはため息ばかりで、未来へ帰れるという歓びが沸き上がってこない。

 理由はわかっている。この時代の人間に恋愛感情を抱いてしまったからだ。あろうことか、この時代の人間―――木島尚之介に自分は恋をしてしまっているのだ! この場所から去りがたいのはそのためだ。

 数日前、尚之介に言った言葉を思い出すたび、自分の愚かさを痛感してしまう。

 なんて浅はかなことを言ったんだろう、と嘆かずにはいられなかった。よりによって、未来にいっしょに行こうなどとは―――自分でも正気の沙汰とは思えない。

 そのときのやり取りを百軒に話すと声を上げて笑った。

「それはいい。わしがあと三十年若ければ麻衣殿といっしょに未来への冒険に繰り出すものを」だが、百軒は同時にこうも言った。「麻衣殿にはかわいそうだが木島様はそういう男ではないのでしょうな」

 たしかにそのとおりだし、万が一いっしょに行くと言われでもしたら、それはそれで大ごとである。

 義務教育すら受けていない三十路の男が、易々と平成の世で生きていけるはずがない。 

 未来での常識を一から学ばなければならないだろうし、それどころか、住民票や戸籍すらないのだ。いくらタイムパラドックスの心配がないからといって、江戸時代の人間を自分の都合で平成に連れて行っていいはずがない。

 すこし考えればわかるはずだった。だが、百軒に言わせれば、「そのすこしがわからなくなるのが恋というもの」であるらしい。

 もう一度会って尚之介に謝りたい。そして、最後にちゃんと礼を言って別れの挨拶をしたい―――。

 しばらくすると、百軒が暖簾を分けて顔を出した。

「冷え込んできましたな」

 いつの間にか、小雨が降りだしていたようだ。無言で空を見上げる麻衣に、百軒はさらに言った。

「それに、そんなところで佇んでいられたら商売の邪魔ですよ。お入りなさい」

 言葉とは裏腹に、優しげな声である。

 あきらめるような気持ちで土間へと足を踏み入れた。後ろ手で戸を閉めようとしたときだった。ふと呼ばれたような気がして動きを止めた。

 耳を澄ましていると、また呼ばれた。今度は気のせいではない。声に聞き覚えもある。

 麻衣はあわてて戸を開き、軒下へ飛び出した。すぐに、通りが騒然としていることに気がついて、彼らの視線を追った。

 目に飛び込んできたのは尚之介だった。いったい何事だろう。麻衣は首をかしげた。が、ほんとうに絶句したのは、そのとなりを走る一本木忠太に気づいたときだった。

 しかも、よく見るとさらに後方から数人の同心たちがこちらへ向かって走ってきていた。ふたりを追っているのは火を見るよりも明らかだ。

 もしかして逃亡……?

 そんな言葉が脳裏をかすめ、麻衣の心臓は跳ね上がった。一本木忠太は―――、いや、それよりも尚之介はいったいなにを考えているのか。

 尚之介は猫屋の前で立ち止まると、麻衣を見た。それから百軒に視線を転じ、こう言った。

「公儀に一矢報いる気になったらいつでも協力すると言いましたね。あのときの約束はまだ有効でしょうか?」

 呆然とする麻衣をよそに、百軒が嬉々として即答する。

「よくぞ申してくれました、木島様! そのお下知、いまかいまかとお待ちしておりましたぞ!」

「ちょっと待ってください―――」

 麻衣は思わず声を上げたが、そんな言葉ごときで止まる男たちではなかった。

 百軒は店の奥にすっとんで行くと、あっという間に諸葛弩をたずさえて戻ってきた。

「殿、敵はいかほどで?」

「戦力は五人だが、すぐに増援がくるだろう。無理はしなくていいから、すこし時間を稼いでほしい」

「おまかせください。この百軒、命を賭して殿しんがりを務めさせていただきましょう」

「かたじけない」

 勢いに押され、麻衣はもう突っ込むことをあきらめた。

 尚之介と一本木、そして麻衣は百軒と入れ違いに店に入った。ふり返ると、ほんの数町さきに追手が迫っていた。

 土間に入るなり、麻衣は尚之介に言った。声は、ほとんど悲鳴だった。

「ちょっと、木島様! まさか、その泥棒を逃がすとか考えてるんじゃないですよね⁉」

「そのまさかだと言えば、お前は協力するか?」

 尚之介は応えながら、どんどん奥へと入っていった。麻衣と一本木忠太がそのあとを追って廊下をすすむ。

「え、私が……? いったいなにを……」

 尚之介は足を止めるとふり返った。そして、あろうことか、こんなことを言った。

「いまさらで悪いが、俺たちもお前といっしょに未来に行こうと思う」

「は……?」

 あまりの急展開に頭が追いつかず、麻衣の思考は停止した。焦燥を煽るように、表で言い争う声が聞こえてきた。同心たちが店の前にたどりついたのだろう。

 不安げな麻衣にここで待つように命じると、尚之介は階段を上がっていった。

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