第10話 木島尚之介 その六

 花井との再会をきっかけに芽生えた葛藤は、犬養との会話であらたな段階を迎えた。

 会話の流れでなにげなく口にした、「花井を見つけ出す」という言葉に、魅了されはじめたのだ。

 どうせ放浪生活にもどるなら、江戸をたつ前にやつとの因縁を清算させてやろう―――。

 思いは急速に膨れ上がり、長年忘れていた生きる目的へと成長した。

 尚之介は翌日から、花井を探しはじめた。

 すぐに見つかると高を括っていたが、思いのほか捜索は難航した。自分が狙われることを予想してか、花井は下谷の自宅にも馴染み先にも戻らなかったのだ。

 犬養や蔵六に協力を仰いだのは、捜索開始から三日後だった。不承不承ながら了承したのが蔵六で、一方、抜け目のない犬養はすでに花井の動向を探りはじめていた。

 捜索範囲はやがて本所や深川、さらには浅草、吉原の方面にまでひろがっていき、しだいに神田に戻るのが億劫になっていった。

 尚之介が久しぶりに蔵六の元に戻ったのは、しばしのときがながれた二月半ばのある日のことだった。

 顔を合わせるや、蔵六はなにも言わずにふいと部屋を出ていった。半時も経たずに戻ってきたものの、相変わらず口を利くつもりはないらしく、黙々と仕入れてきた惣菜をならべ、ひとりでさっさと晩酌をはじめた。

 尚之介は苦笑を漏らしながら、料理に箸をつけた。

「心配をかけたようだな、そのことについては素直に詫びよう。だから、いい加減に機嫌を直せ」

「まったく―――」と、蔵六はため息とともに切り出した。「あんたってひとはいつもそうだ。これと思い込むとすぐに周りが見えなくなる……」

「嫌なら協力する必要はないといつも言っている―――」

「そんなことは言っておりやせんッ」蔵六はぴしゃりと反論を遮ったかと思うと、しばし黙り込み、やがて諦めたように口を開いた。「今日、犬養様から伝言を預かりました。花井はお上の命令を無視して江戸をたつつもりのようです」

「ほんとうか、いつ?」

「それを教える前に、約束を果たしていただきやす」

「約束?」

「イチ姐さんとちゃんと話をするって約束です。忘れたとは言わせやせんぜ」

「……それか」尚之介は眉間にしわをよせ、顎をなでつつ不機嫌そうに応えた。「しかしやけにしつこいな。それほどこだわることか……」

「あんたねえ! それを言うなら、花井のことなんて、それこそ今さらこだわることじゃあねえでしょうッ」

 荒っぽい声に、尚之介は目をしばたたかせた。叩きつけられた徳利から酒がこぼれ出るのも構わず、蔵六は据わった目でこちらを睨みつづけている。

 互いに相手の出方を探り合ううち、尚之介はようやくその不自然な態度の原因に思い当たった。

「お前もしかしてイチのことが……」

 尚之介が核心に触れようとしたとき、ちょうど訪いを告げる声が、戸の向こうから聞こえてきた。障子に映っているのは女の影である。

 とぼけたように、蔵六がつぶやいた。

「お、イチ姐さんにちがいねえ。噂をすればなんとやらだ」

 先ほど買い物に出たときに、おせっかいにも知らせに行ったのだろう。

 蔵六に招き入れられ、イチが土間にすがたをあらわした。顏には、無理矢理に連れてこられたことへの不満が浮かんでいる。その背後に麻衣のすがたまであったのは、少々意外だった。いったいなにをしに来たのだろう。

 気をつかったのか、蔵六はすぐに麻衣を表へ連れ出そうとした。が、イチはふたりを引きとめると、そのまま框に腰を落ち着けた。下駄も脱がずにこう切り出した。

「今日はあんたたちに別れを言いに来ただけですぐに帰るつもりだから、出て行く必要はないよ」

「え……別れって、どういう意味ですか?」

 おどろく麻衣に、イチがこともなげに言い放つ。

「例の呉服屋に正式に嫁ぐことが決まったのさ。長患いをしていた前の女房が亡くなったからその後釜としてね。アタシももう若くないし、年貢の納め時ってやつだろうね」

 ふいに静寂が訪れた。が、その静寂を麻衣はすぐさま打ち破った。

「ちょっと待ってください! なんで急にそんな話に⁉ イチさんはそれでいいですか? ほんとうに納得して決めたことなんですか―――」

 麻衣は、イチの縁談に反対しているようだったが、尚之介にはその理由がわからなかった。その弁舌を聴きながら思わず自嘲の笑みをこぼしてしまったのは、いまおなじ時代を生きる女のことさえわからない自分に、百五十年後の女の気持ちなどわかるわけない、と気づいたからである。

 縋りつかんばかりに訴える麻衣に、イチは呆れた口調で応じた。

「あんたは、ほんとうに変わったコだね。なにをそんなに心配してるのか知らないけど、こんないい話ことわるほうが馬鹿ってもんだよ」

 麻衣はあきらめたように俯いたが、やがて顔を上げると、ふたたび口を開いた。

「それじゃ、あのことはどうなんですか? 引きとめてくれるって約束したじゃないですか―――」

 イチが業を煮やしたのはそのときだった。

「麻衣ッ」その顔を睨み上げると、叱りつけるような口調で言った。「あんたもいっぱしの女なら、自分の惚れた男くらい自分で引きとめな。アタシに―――ましてやむかしの女に頼ってんじゃないよ!」

「ちょっと、イチさん!」

 麻衣は目を剥き、素っ頓狂な声を上げた。が、イチはそんな麻衣のようすなどお構いなしである。尚之介に目をやると、こうつづけた。

「ちょっとあんた、女を泣かせんのもたいがいにしておきなよ」

 その口調には、もう恨みも怒りもなかった。惚れ惚れするほどに颯爽と生きる女のすがただけがあった。この女には勝てない、と素直に思った。

 いつまでも過去を引きずり、その因縁から逃れられずに自分は人生を棒に振ろうとしているのかもしれない。だが、そんな生き方しかできない自分自身のことも、尚之介はよくわかっていた。

「達者で暮らせ」

 それがかろうじて出た言葉だった。目が合ったのはほんの一瞬である。いや、もしかしたら目が合ったと思ったのは自分だけで、イチの目にはすでに過去など映っていないのかもしれなかった。

 ふん、とそっぽを向くと、イチはなにも言わず部屋を出て行った。

「もう、ほかに言うことないんですか⁉ ほんっと朴念仁!」

 そんなことを言い残すと、麻衣はあわてて走り去った。イチのあとを追ったのだろう。

 嵐のようなひと時が過ぎ、しんと静まりかえった部屋にふたりだけが取り残された。

 尚之介は無言で猪口に手をのばした。酒を喉に流し込み、代わりに深い吐息を吐きだす。酔いがまわりはじめるのを待ち、口を開いた。

「……ということらしいぞ、蔵六」と、自嘲を浮かべつつ、語りかけた。「色々と遅すぎたようだな。朴念仁、朴念仁と言われつづけたものだが、お前もたいがいらしいな」

「旦那に言われちゃあ、涙も出やしねえ……」蔵六は力なく答えてから間をおき、ぽつりと言った。「花井は下谷に戻っているそうです」

「江戸をたつまえにいったん自宅に戻ったか……」

 相槌を返し、蔵六はつづける。

「いまは犬養様のお手先が張りついていて、上にも報告していないってことらしい。つまり、夜が明けきるまえに待ち伏せば、捕まえられる可能性はあるってことです。でも―――」

 先の言葉を予想し、尚之介は視線でその言葉を遮った。―――放っておけば犬養の旦那がとっ捕まえてくれるでしょう。と、おそらく蔵六はそんなことを言いたかったにちがいない。

 わかっていたが、いや、わかっていたからこそ、尚之介は何食わぬ顔で話題をそらした。

「犬養の計らいか、ありがたいことだな」

「まったくそのとおりで……」

 蔵六はそう言って視線を落としたが、すぐに気をとり直すと、上機嫌で言った。

「飲みますか」

「ああ」

 ふたりは互いの猪口に酒を満たすと、そのまま酔いつぶれるまで杯を重ねた。


「世話になったな」

「もう慣れやした。またいつでも帰って来てくだせぇ」

 そんな会話を最後に、尚之介は長屋の敷居をまたいだ。

 西の空には、まだ夜の余韻が残っている。

 人通りはまだまばらで、よどみのない静謐せいひつな空気を吸いこみながら、通町を神田川方面へと向かって歩いた。

 八ツ小路広場に出ると、ひと気のない御門前にぽつりとたたずむ女のすがたが目に入った。手足の長い特徴的な体型や、そわそわと落ち着きのない立ち居振る舞いはまちがえようがない。麻衣である。

 会話をしたい気分ではないが、素通りするわけにもいかないだろう。

 麻衣は筋違橋御門の前に立ちはだかると、気の強そうな眼差しを向けてきた。両手で作った拳が、意思の固さを物語っている。

 仕方なく、尚之介は顔を上げた。

「別れの挨拶なら短めにたのむ」

 冷たく言い放ったつもりだったが、麻衣が怯むことはなかった。むしろますます闘志を燃やしたようにさえ見えた。

「そんなことを言うためにわざわざ来たんじゃありません」

「じゃあ、なんの用だ?」

「昨日、イチさんに言われたことです。尚之介様もいたから知ってますよね、自分の惚れた男くらい自分で引きとめろって、だから来ました」

 その台詞の意味に気づくまでにしばしの時間を要したが、やがて口を開いた。

「……悪いが、お前の気持ちには応えられそうにない。俺にはやらなければならないことがあるんでな」

「それって、花井のことですか?」見上げる目に、怒りがこもっている。「もしかして本気であいつを斬るつもりですか、そんなことしてなんの意味があるんです? 下手したら切腹か島流しかもしれないんですよ」

「そうかもな。だが、それが武士のけじめというやつだ」

 落ち着いた声で尚之介は応じた。が、逆に麻衣の怒りは増したようだ。

「江戸幕府ってもっと成熟した近代国家だと、法治国家だと思ってました。そんな仇討ちとか復讐とか、忠臣蔵じゃあるまいし、そんなことのために人生を棒に振るなんて馬鹿馬鹿しいとは思わないんですか!」

 ひと息にまくしたてると、麻衣は怨みのこもった目で尚之介をにらんだ。その目に涙がにじんでいる。

「おそらくお前は勘違いしている」

「勘違い……?」

「ああ、見ず知らずの土地にいきなり放り出されたあげく、事件に巻き込まれて、さぞ不安だったのだろう。そんなときに声をかけられて勘違いしたんじゃないのか。俺のことを好きだとな」

「でも私は―――」

「麻衣、お前は賢い女だ。自分の思うままに進めばいい。俺も俺の道を行くだけだ」

 一歩的に会話を打ち切ると、尚之介はそのまま歩きだした。

 麻衣はもうなにも言わなかった。


 御門をくぐって神田川を渡り、寛永寺へと向かって進む。途中、大通りを外れ、旗本の屋敷や御家人の組屋敷がひしめき合う一帯へと足を踏み入れた。

 花井の屋敷は、かつての尚之介の組屋敷から目と鼻の先である。

 六年前も、二度とふたたびこの場所にもどることはないと覚悟したが、今度こそ最後になるにちがいない。尚之介はほんのいっとき、自らの半生に思いを馳せた。

 小半時も待たず、旅装に身を包んだ花井が通りにあらわれた。

 雑念を追い払って、標的に集中する。北へ向かって歩きだしたということは、日光街道か中山道へと出るつもりだろう。

 尚之介はそのあとをつけたが、尾行はほどなく覚られてしまった。やはり勘だけは一流のそれらしい。

 危険を察知するなり、花井は駆け出した。質素な板塀のつづく、閑散とした通りを脱兎のごとく走りぬける。どうやら寛永寺黒門前に向かっているようだ。

 尚之介にしてみれば、ひと目につく場所に出られるまえに片を着けたいところだったが、そんな思いとは裏腹に、広小路は目前に迫っていた。

 御徒町を抜けたとき、突然、花井が足を止めた。角を曲がったところで、チラリとこちらを気にし、またすぐに前方に視線を戻す。不自然な行動だった。

 尚之介は、距離をとりつつ花井の背後に回りこみ、その視線の先を追った。

 目に入ったのは犬養のすがただ。数人の手先を従えて通りの真ん中に立ちはだかっている。左腕を懐中にしながら煙草をくゆらせ、無表情で切り出した。

「やはり来たか、木島……」

 犬養の手先が花井に張り付いている、という蔵六の情報を思いだして合点がいった。尚之介の気がかわったときのための保険、という意味もあるだろう。

 周到さに呆れながら、尚之介は答えた。

「お前のほうこそ、わざわざ高みの見物か……」

「それもあるが、お前がやられて、そいつに逃げられでもしたら面倒なんでな」

「まったく頼りにるやつだよ、お前は」

 以心伝心と言えば大げさだろうが、それだけで意思の疎通は十分だった。

 国中を放浪していた尚之介と長崎に出向していた花井が、偶然にもおなじときに江戸にもどった。いまここで六年前の因縁を終わらせろ、という天命にちがいない。

 尚之介はなかば本気でそんなことを考えていたし、当の花井でさえ、その巡り合わせにあらがおうとはしなかった。

「そういうことかよ……」吐き捨てると、花井は刀を抜いた。犬養に攻撃の意思がないことを確認し、板塀に背をあずけて正眼に構えた。「こうなったら、せめて道連れにしてやる―――」

 言い終えるや、花井は踏み込んだ。一足飛びに間合いを詰めてくるが、太刀筋は丸見えだ。   

 落ち着いてその切先を躱すと、尚之介は反撃に出た。ふり下ろした初太刀を弾かれるや、さらに一歩を踏みだし、返す刀で斬り上げる。

 一歩二歩と、花井は退いた。が、板塀まで追い込んだかと思ったのは早計だった。つぎの瞬間には、真一文字にふり抜かれた一太刀が尚之介の脛先三寸を走り抜けていた。

 背筋に冷たいものが走った。

 ぎりぎりでかわしたものの、尚之介は自らを戒めて十分な間合いをとった。正眼に構えなおすと、剣先を効かせつつ相手の隙を窺った。

 朝の光が差し込んで、ふたりの影を路地に伸ばしていった。松籟にのってやってきた煙草の香りが、鼻腔に届いた。

 睨み合いがしばしつづき、やがて裂帛の気合が通りに響きわたった。花井が踏み込み、面を繰り出そうと、両腕を振りかぶった。

 刹那、そのがら空きになった懐へ、尚之介は飛びこんだ。刀を水平に持って、花井の腕の下をすり抜ける。すれ違いざまの一刀が、胴に食い込んだ。肉を切るたしかな手ごたえを手に感じていた。

 ふたりは互いにすれ違い、足を止めた。ひとの倒れ込む音を背後に聴いたのはその直後である。

 尚之介は刀を振って血を飛ばした。それでも落ちない部分は懐紙でていねいに拭った。

 愛刀は、すぐに本来の輝きをとり戻し、突き抜けるような空の青をその刀身に映していた。しかし、こころのわだかまりが晴れることはなかった。

 人を斬るのは初めてではない。花井を斬ってもなにもかわらないのは、はじめからわかっていた。

 犬養が尚之介のかたわらを通り過ぎていった。花井の頭の横でしゃがみ、首筋に手を当てた。

 死亡を確認してから、犬養は口を開いた。

「狙っていたような抜き胴だったな」

「こらえきれずに大技で仕留めに来ると踏んでいた。長引けば集中力が途切れることはわかっていたのでな」

 花井に尾行された夜のことを思いだしながら、尚之介は答えた。目を見張る動きを見せたのははじめだけで、後半は大ぶりな攻撃が目立っていた。

「なるほど。だから刀を短く持っていたわけか……」

 納得したようにうなずくと、犬養は背後をふり返り、配下に向かっていくつかの指示を出した。

 骸を運ぶ準備に取り掛かる者、声を張り上げて集まりはじめた野次馬たちを追い払う者、奉行所へと向かって駆け出す者―――。男たちが犬養の指示に従っててきぱきと動いた。

 やがて辺りにひと気がなくなると、犬養はふたたび尚之介に顔を向けた。低い声でこう言った。

「どうせ上意を無視して江戸を出ようとした罪人だからな、上もさほど厳しくは追求しないはず、辻斬りとして処理することも難しくないだろう」花井の骸を顎でしゃくりつつ、さらにつけ加えた。「ちょうど旅支度も整っていることだしな」

 曖昧な笑みで、尚之介がうなずき返す。たしかにここには菅笠から草鞋、手甲脚絆や合羽までそろっている。

 皮肉なものだ、思った。考えてみれば、六年前に江戸をたったときも、この寛永寺黒門前から旅立ったのだ。

 しばらくぼんやりと花井の遺体を眺めていたが、どんなに考えたところで結果は変わらない。

 尚之介は顔を上げると、犬養に意思を告げた。

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