第3話 木島尚之介 その三

 尚之介が次に向かったのは、江戸橋広小路に屋台を出す二八蕎麦屋である。

 日本橋から江戸橋、伊勢町堀へとつづく河岸かしは江戸の物流の一大拠点であると同時に、北町奉行所や八丁堀からも目と鼻の先という場所だ。

 尚之介が店先の四斗樽に腰かけてしばらくすると、となりの樽にひとりの侍がどかりと腰を下ろした。

「しぶとく生きていたか」

 侍―――犬養登は、目さえ合わせずにいきなり切り出したが、尚之介は意にも介さずに答えた。

「互いにな」

 六年前とおなじく、犬養は縞の着物を着流し、黒羽織の裾を帯に挟んでいた。小銀杏髷に雪駄穿き、供一人を連れて歩いている。その見た目からもわかるとおり、犬養はれっきとした現役の廻り方同心である。

 朝、蔵六にここで会えるよう手はずを調えてもらっていた。わざわざそんな回りくどい会い方を選んだのは、八丁堀まで赴く気にならなかったからだ。

「それで、俺になにを聞きたい?」

 犬養がさっそく本題に入る。

「話が早いな」

「再会を懐かしむような間柄でもないだろう。お前が俺に会いたがる理由がほかにあるか?」

「たしかに」尚之介は頼んでおいた花巻蕎麦をひと口すすってから、単刀直入に言った。「水野越前守の近況を知りたい」

 犬養は顔色こそ変えなかったものの、無言でその質問に応じた。しばしの沈黙のあと、やおらキセルを取り出し、背後に控える小者に向かって怒鳴った。

「おい、クマ、火だ! ぼさっとしてんじゃねえ」

 クマと呼ばれた二十七、八の小柄な男は、持参の煙草盆ですでに火をおこしていて、手に乗せた火口を差し出していた。

 犬養はその火をキセルに移し、ゆっくりと煙草をくゆらせた。

「まさか人生を儚んで水野もろとも心中しようってんじゃあねえだろうな……」犬養はいつもとおなじ、どこか投げやりで厭世観のある口調で言ったが、尚之介の横顔をちらりと見やってから、こう言い直した。「ねえか。お前にそんな感傷があるわけねえわな」

「そうでもないさ。……と言えば止めるか?」

「止めやしねえよ」

「それが同心の台詞か」

 尚之介の口から苦笑がこぼれたが、不機嫌そうな皺を眉間に刻んだ犬養の表情はぴくりとも動かない。

「あいつァあいつだ。お前の知ってる水野越前守、それ以上でもそれ以下でもねえ」

「つまり、性懲りもなくあくどいことをつづけてるってわけだな……」

 尚之介はしばらく無言で久しぶりの江戸風の蕎麦を堪能した。

 その間、犬養は貧乏ゆすりをしながら、せわしなく煙を吐きつづけていた。煙草を味わっていると言うより、それを燃やしきることが目的かのようだ。

「相変わらずと言えば、あいつもそうらしいな」

 食べ終えた尚之介がふたたび口を開いた。

「あいつ?」

一本木いっぽんぎ忠太ちゅうた。日本橋の袂で読売(瓦版の売り子)を見かけてな」

「ああ、あいつか……」

 犬養は不機嫌を一段と募らせて応えた。

 一本木忠太は江戸を根拠に盗みを繰り返す盗賊で、数カ月か数年に一度ふらっと現れては、豪商、大大名の屋敷ばかりを狙って莫大な資産をかすめ取っていく大悪党である。

 その名前が最初に世に出てから十年ちかくたったいまも、幕府は犯人の捕縛に至っておらず、本名も素顔も突きとめきれていなかった。

 だが、それだけではない。さらにたちが悪いのは、この盗賊が義賊としての顔を持ち合わせていることだった。

 一本木は盗んだ金品を、あるときは病気の夫と幼子をかかえた長屋の女房に施してみたり、あるときは小石川養生所の番小屋に投げ込んでみたり、また、天保の飢饉のときには近隣の農村に分け与えたりもしていた。

 当然といえばそうかもしれないが、その評判は歌舞伎役者のごときで、人気絵師によって描かれた錦絵は、それをありがたがる江戸庶民によっていっとき飛ぶように売れた。いまそれらを目にすることがないのは、天保の改革の取り締まりの対象になったことが原因である。

「瓦版には、この十五夜に日本橋の両替商がやられたって書いてあったが……?」

「大和屋のことか……まあ、俺にはたぶんやられたんだろう、としか言いようがねえ。いつもながら奉行所にはなんの届けも出されてねえからな」

「どういうことだ?」

「奉行所が把握しているのは被害のほんの一部ってことだ。届けが出されなきゃ俺たちに真偽を確認する術はないからな。大金を盗まれておきながら被害を訴え出ない理由は……言わなくてもわかるだろう?」

「……奉行所に知られたくない金ってわけか」

「しかも、やつは被害者が届け出られない事情をある程度把握したうえで盗みに入っているようだ」

「たしかなのか」

「証拠はねえ。だが、思い当たる節はある」犬養はほんの少し前かがみになり、声を落とした。「二、三年前、不正を暴かれた代官某が役宅で切腹しているのが見つかったらしいんだが、じつはそれが一本木が原因だって噂があってな」

「なんでそうなる?」

「つまり、一本木に盗み出された証拠が意図的か偶然かはわからんが、しかるべき筋に渡り、それが決め手となって代官某の悪行が露見したってわけだ。盗賊のおかげで幕府の不正が暴かれたなんて世間に知られるわけにいかねえからな。隠ぺいを謀っただれかに詰め腹を切らされたってことだろう」

「たしかに辻褄は合うが……。それにしても代官某とかある筋とか、お前にしては歯切れの悪い言い方だな」

「しょうがねえんだよ、内々に処理された話が俺のところまで下りてくるわけないからな。噂を繋ぎ合わせて作ったただの妄想だと思え」

 うわの空で相槌を打つと、尚之介はキセルから上がる幽かな煙を見つめながらふとこんな言葉を漏らした。

「まあ、たしかに義賊だな……」

 犬養が尚之介に吟味の目を向ける。

「……お前、なに企んでる?」

「べつになにも企んでなどいないさ」

 しばし探り合うように見つめ合ったが、やがて視線をそらすと、犬養はキセルの先を灰吹きに叩きつけながら言った。

「まあ好きにしろ、俺の目の届かないところでならなにをしたって構わねえ」そして、おもむろに腰を上げると、ひと言の挨拶もなしに背を向けた。「行くぞ、クマ! いつまで煙草盆ひろげてやがる、さっさと片づけろ!」

 どやしながら立ち去る犬養の声を聞きながら、尚之介は徐々にかたちを結んでいく常夜燈奪還計画に思いを馳せていた。


 尚之介が長屋に戻ったのは七つごろだった。

 座っていられないほどの底冷えに閉口し、火鉢の用意をはじめると、ちょうど蔵六が帰ってきた。炭に火がつき、自然と晩酌がはじまった。肴は、蔵六が煮売屋で買い求めたいくつかの惣菜である。

 ふたりはしばらくのあいだ黙々と箸を動かしつづけていた。尚之介が切り出したのは、腹が満たされ、酒がめぐって体が温まってからだった。

「どうだ、なにかわかったか?」

 尋ねると、蔵六が待っていましたとばかりに得意げに話しはじめた。

「越前守の役宅の蔵が最近急に改築されたって話を、出入りの米問屋から聞きだしやした。鍵も、かんぬきからたいそうな錠前に付け替えたそうで」

「常夜燈のためだと思うか?」

「まあ、この折の改築ですからね、そう考えるのが妥当でしょう」

「そうか、よくやった」

 労いに照れ笑いを浮かべつつ、蔵六は話をつづけた。

「ですが、いったいどうやって盗み出すつもりで? 一本木忠太の野郎の手を借りでもしないかぎりあの蔵を破るのは無理ってもんですぜ」

「だろうな」尚之介は事もなげに答えてからしばし沈思したが、やがて顔を上げると、唐突に言った。「だが、手を借りることはできなくても、名前を借りるだけならできるだろう」

「名前……?」

 蔵六の酒を注ぐ手が止まる。

「一本木からの予告状を書いて越前守を脅すんだ。常夜燈を盗むという予告状をな。その存在すら知らないはずの盗賊からそんな書状が届けば、越前守は警戒して蔵から持ち出さざるを得なくなる―――」

「ちょっと待ってくだせえ」と、蔵六があわてて割って入る。「言ってることはわかりやすけど、蔵は役宅の中。役宅は御堀の向こうですぜ、いくら忠太からの予告状とはいえ、そんな安全な場所から持ち出そうなんて思いますか……?」

「ただのカラクリなら出さないだろうな。だが蔵六、忘れたか、あの常夜燈は久松時右衛門殺しの重要な証拠でもあるんだぞ」

「そうか!」蔵六は膝を打って尚之介の不敵な笑みに応じた。「あっしとしたことが、そのことをすっかり忘れておりやした」

「そういうことだ。義賊一本木忠太に常夜燈を奪われるってことは、久松時右衛門殺しの黒幕だということが明るみに出る可能性があるってことだ。自邸に置いておくのは危険……いや、実際に危険かどうかは微妙なところだが、少なくとも越前守が真の黒幕なら疑心暗鬼になってなにか動きを見せる可能性が高い」

「そこで蔵から持ちだしたところを、あっしらで頂こうってわけですね」

「そのとおりだ」

「やっぱり思ったとおり、面白くなってきやしたねえ……」

 蔵六が舌なめずりし、ほくそ笑んだ。

 それからふたりは炭がパチパチと爆ぜる音を聞きながら、しばらく静かに酒を呑み交わした。

 四つごろ、頬を真っ赤に染めた蔵六が「厠、厠」と唱えながら部屋を出ていった。戸が開閉され、温もった部屋がたちどころに冷え込む。

 尚之介は部屋の隅に詰まれた布団をひっぱり出してそのなかにもぐりこんだ。

 戻ってきた蔵六が、枕屏風を挟んで律義に敷かれた布団を見て礼を言った。

「居候の身だからな、これくらいはやらせてもらうさ」

「旦那はちっとも変りませんねえ……」

 そんなやり取りをしつつ、蔵六は火鉢のまえにしゃがみ込んでしばらく暖をとっていた。やがて、切り出されたのは、奪還計画のことだった。

「さっきの計画だとふたりではちょいと厳しいと思うんですがね、少なくとも越前様の屋敷に潜入する間者がひとり必要じゃないかと……」

「ああ、イチに頼むしかないだろうな」

「本気ですか⁉」

 せき込みつつ、蔵六が見開いた両目で尚之介を見返した。

「あいつ以上の適任がいるか?」

「いや、あっしが言ってるのはそういう意味じゃなくてですね……」

「大丈夫だ。きっとうまくやってくれる」

「……まあ、旦那がそれでいいならあっしはべつに構いませんけどね……どうなっても知りませんよ……」

 蔵六はこれから起こるであろうひと騒動に思いを馳せつつ、布団にもぐりこんだ。


 つぎの日の夕刻、尚之介たちは、件の頼みごとをするために神田の煮売り酒屋にイチを呼びだした。畳敷きの壁際で足をくずして座っている通人風の三十路女がそれである。

 着崩した伊達紋付と前で結んだ帯が豊かな体の線をより強調し、周りの男客たちの視線を集めていたが、本人にそれを気にするようすはまったくない。

 そのイチから右回りに麻衣、尚之介、蔵六と四人が円座になって座っていた。麻衣を連れてきたのは、計画の進捗を説明するためと、本人の強い希望によるもだった。

「よくもまあ、ぬけぬけとアタシのまえに顏を出せたもんだね」

 イチは開口一番、気丈そうな切れ長の目で尚之介をまっすぐに見据えて言った。

「言いたいことがあるのはわかっている。だが、あとにしてほしい。この件が解決してからなら、いくらでも聞いてやる」

「……いったいなに事だって言うんだい」

「ひとが死んでいるんだ。筑前守の悪行をこれ以上見過ごしたくないのは、お前もおなじだろう」

「ふん」とイチは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。酌婦を呼んでどんどん酒や料理を注文し、やがてななみなみと酒の注がれた枡を手にすると、ほんの少し機嫌が直ったようすだった。「べつに興味ないけど、せっかくここまで来たんだから飲み食いだけはさせてもらうよ、話したいことがあるなら勝手に話しな」

 再会の挨拶を済ませ、尚之介は本題を切り出した。

 イチは黙って話に耳を傾けていたが、興味の大半は目のまえの料理と手のなかの酒に向いているようだった。まともに口を開いたのは、話が終盤に差しかかったときである。冷ややかな流し目を尚之介に向け、言った。

「つまりアタシに水野の屋敷に間者として潜り込めってのかい? 六年ぶりに戻ってきたと思ったら、いきなりそんな頼みとは、あきれて言葉も出ないね」

「お前には済まないと思っているが、ほかに選択肢がない」

 尚之介としては最大限の配慮で言葉を選んだつもりだった。が、それが癇に障ったらしく、イチは片膝を立てて尚之介をにらみ上げると、ドスの利いた声でまくしたてた。

「そんな話をしてるんじゃないんだよ、このすっとこどっこいの朴念仁が! 大昔に捨てた女をとつぜん呼びつけて、ほかに言う台詞はないのかってことを聞いてんだよ!」

 六年前までのおよそ二年間、ふたりは恋仲だった。

 重追放の身となったとき、当然の成り行きとして別れを切り出したが、イチは頑として受け入れず、「ついていく」と言い張った。「流れ着いた先で所帯を持つ」のだとさえ言っていた。その覚悟はほんものだったろう。とはいえ、明日をも知れない身でそんな提案を受け入れるわけにはいかなかった。

 尚之介はなかば置き去りにするかたちで江戸をたたざるを得なかったのだ。だけでなく、説得するために言った、「ほとぼりが冷めたら迎えに来る」という約束さえ、(言うまでもないことだが)果たされることなく現在に至っている。怒りを爆発させたイチの心情は察して余りあるものだった。

「悪かったと思っている」

 ほかに言いようがなかった。いや、本来ならほかにも言いようはあるのだろうが、尚之介の語彙からそれ以上気の利いた台詞が出てくることはない。

「まあまあ姐さん、気持はよおくわかるけど、ここはひとつ穏便に……」

 事情を把握している蔵六も割って入ったが、そんなことで怒りが収まるはずはなく、イチはフンとそっぽを向いて押し黙ってしまった。

 気まずい空気が四人を包みこんだとたん、間を埋めるように蔵六が酒を煽りはじめた。こういうときのために連れてこられているというのに、その役目すら放棄したようだ。

「あ、あの」と、おずおずと口を開いたのは、それまで尚之介の言いつけを守って口を閉ざしていた麻衣だった。麻衣は左側に座るイチに体を向けると、突然、手をついて頭を下げた。「ごめんなさい、こんなことになったのは全部わたしのせいなんです。だから喧嘩しないでください!」

「おい、お前は―――」

 尚之介が口を挟もうとするのを、イチがすかさず遮った。

「麻衣とか言ったねえ……あんた、このひとの新しい女かい?」

「ち、ち、ち、ちがいますよ! なんでそんな話に⁉」

 あわてて上げた頭を激しく横に振って、麻衣は否定した。

「じゃあ、口をはさまないどくれ、これはアタシたちの問題なんだよ」

「えっと、そうじゃなくて」イチの目力に気圧されながらも、麻衣は引かなかった。「ふたりのことに口を出すつもりはありません。そうじゃなくて、私が言いたいのは間者の話です」

「間者……?」

「はい、その役、私がやります。だからもう揉めないでください」

「……あんた、経験があるのかい?」

「いえ……でも、下女の仕事なら川越で覚えました」

「お前なあ」と、耐え切れずに尚之介が口をはさんだ。「自分がなにを言ってるのかわかっているのか。屋敷に潜入するってことは、たんに下女の仕事をしていればいいってもんじゃない。信頼を得て内情を探ったり、場合によっては荒事に巻き込まれることもあるかもしれないんだ。素人にはとうてい無理な役目だ」

「危険は承知の上です」

「心意気は立派だが、ここはイチに頼むしかない」

「でも、あれがないと私は……」

 おそらく麻衣は、ここで引けば、『協力して常夜燈を奪還する』という建前が失われ、自分にその所有権が無くなってしまうと考えているのだろう。気持ちはわかるが、提案に乗って計画を台無しにでもされたら元も子もない。

 互いに退けず、膠着状態に入ったかと思われたときだった。

「わかったよ、役宅への密偵、引き受けてやろうじゃない」どういう心境の変化か、イチが唐突に手のひらを返した。「けど、これはあんたのためにやるわけじゃないよ、麻衣の代わりに引き受けるんだからね」

「どういう意味だ?」

 尚之介が尋ねる。

「べつに意味なんかありゃしないよ。ただ、素人のくせに自分から間者役を申し出るなんて健気だと思っただけさ」

「でも、そのせいでイチさんが危険な目にあったら……」

 ふたたび、麻衣が割って入った。

「それなら心配無用だよ、これでも元は忍びの出だからね」

「忍びって……それ、ほんとうですか⁉」

「まあ、そうはいっても、いまはしがない妾だけど……」イチは平然と応えたが、それでも微妙な空気を避けることはできなかった。フン、と鼻を鳴らすと、さらにつづけた。「憐れみなんて欲しくないからこれだけは言っとくけど、相手は日本橋に大店を構える呉服屋の旦那で、もらった部屋は一等地の二階建て、そのうえ下女までつけてもらってるんだから、あのころよりよっぽど贅沢な生活させてもらってるよ」

 イチの視線に気づいて、尚之介はしばらく考えてから、こう応えた。

「幸せならいい」

 そのあと訪れた沈黙に任せるまま時間はながれ、間もなくお開きとなった。


 店を出ると、まずイチと麻衣を日本橋の家まで送り届け、帰りは、酔い覚ましがてら堀沿いをぶらぶらと歩いた。静かな通りに魚の跳ねる音がときおり響く。

 月のない暗い夜で、常盤橋御門をすぎると、視界を照らすのはイチの家で借りた馬乗り提灯の明かりだけとなった。

「旦那、雪ですぜ」

 ほろ酔い加減の蔵六が弾んだ声で言った。つられて見上げると、細かな粒が埃のようにふわふわと上空を舞っているのが見えた。

 尚之介は無言で提灯の火に視線を戻すと、こんなことを漏らした。

「すっかり巻き込んでしまったが、もしも辞めたいならいまからでも降りてくれて構わない」

 蔵六はぎょっとしたようにふり返ったものの、返事に迷いはなかった。

「ご心配なく、いざってときはちゃあんとひとりで逃げるんで。あのときもそうだったでしょう?」

「たしかに、お前は俺よりも要領がいいからな」

 尚之介が思わず苦笑する。

「だいたいそんな台詞、あっしに言うくらいなら姐さんに言ってやれってんですよ、まったく」

「お前、知っていたんだろ」

 尚之介の唐突な切り返しに、蔵六の肩がぴくっと跳ねた。

「……なにをですかい?」

「とぼけるな、旦那のことだ」

「ああ、それね」蔵六は火照った顔にばつの悪そうな表情を浮かべたが、すぐに開き直った。「まあ、当然のなりゆきでさあ、あれほどの女を世の御大尽が放っておくはずはありませんからねえ。いい話じゃありませんか。いやあ、あっしもあやかりてえもんだ」

 そして、はっはっは、と乾いた笑い声を上げた。会話はそこでいったん途切れたが、ややあって口を開いた。

「それにしても姐さん、やっぱり断りませんでしたねえ。これも惚れた女の弱みってやつですかね」

「麻衣を気に入ったからだって言ってただろう?」

 その無神経な言葉に、蔵六が突然ムキになって声をあららげた。

「あのねえ! あのひとはあんたに惚れてんですよ、旦那の朴念仁はあっしも承知してますがね、いくらなんでもそれはあんまりですぜ」

 しかし、尚之介はその訴えを、「まったく、なにを熱くなってるんだ。飲みすぎたか?」と、酔っぱらいの戯言としてあっさりと流した。

 蔵六は諦めたようにため息を吐きだすと、こちらに背を向けてすごすごと歩きだした。

「とにかくこの件が片付づいたらちゃんと話し合うって約束したんですからね、そこだけは守ってくださいよ」

「わかっている。だからこそお前にはしっかりしてもらわないと困るんだよ」

「へい、へい、それはもう十分に承知しておりますよォ」

 その返事を最後に、蔵六は黙り込んだ。

 うっすらと降り積もっていく雪の、踏みしめる音を聴きながら、ふたりは無言で歩きつづけた。

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