夜明け前に灯る

植木田亜子

第1話 木島尚之介 その一


 空駕籠を担いで問屋場へと戻っていく雲助や、宿を決めかねて通りをうろつく旅人たちのあいだを冷たい風が吹き抜けていった。

 中山道熊谷宿、旅籠が軒を連ねる表通りは薄闇に包まれはじめている。

 人混みから逃れるように、尚之介は水飲み場へと身を寄せた。背後に忍び寄る気配に気づいたのは、菅笠を置いて柄杓に手を伸ばそうとしたときだった。

「お侍さん、うちに泊まっていってよ」

 ふり返った尚之介の前にたたずんでいたのは留女とめおんな(客引き)だった。二十代半ばといったところだろうか。涼し気な目元と勝気に引き締まった口もと。身なりからしてそれほどの安宿の者とも思えなかった。

 旅籠なら安くても二百文。いまの所持金では、そんな贅沢はできない。木賃宿がせいぜいである。

「悪いがそんな金はない……」

 刀の柄に掛けた手を下ろして、尚之介は応えた。が、留女は引きさがらなかった。尚之介が立ち去ろうとして菅笠に手を伸ばしたとたん、猫のように素早い身のこなしでそれを横から奪い取った。

 わき目もふらずに水飲み場に逃げ込んだのは、こういった強引な客引きに絡まれないためだ。思わず舌打ちが漏れたのも仕方のないことだろう。

 江戸を重追放の身となって六年である。目的もなく中山道を西へ行き、博徒の用心棒などで日銭を稼いできたが、気づけばまたふらふらと戻っていた。銭もなければ行く当てもなく、だからといって、なんとかしなければならないという気持ちさえいまでは残ってはいなかった。

「返すんだ」

 ため息を吐きつつ、尚之介は菅笠に手を伸ばした。

「返して欲しかったら、うちに泊まってってよ」留女はからかう口調でつづけた。「ねえ、素泊まりで四十文ぽっきり。それならいいだろう?」

 留女は笠をひらひらさせながら軽やかにあとじさっていった。

 異変が起こったのはその直後である。留女が突然、「きゃっ」と声を上げ、勢いよくこちらに倒れこんできたのだ。水飲み場に入ろうとする男に突き飛ばされたらしい。

 尚之介は女の体を受け止めると、すかさずふたりの間に立ちはだかった。

「大丈夫か?」

声をかけながらも、視線は突き飛ばした男のほうに向けられていた。

 尻はしょりにパッチ、背に小箪笥を担いだすがたはどこからどう見ても行商人だが、視線や身のこなしは隠密の類にちがいなかった。男の視線が女にではなく、尚之介に向いていることもその証拠である。

 尚之介が誰何すいかしようとしたとき、留女がすっくと立ちあがった。両者のあいだに颯爽と立ちふさがったかと思うと、髪と襟元を整え、くいと顎を持ち上げた。

「あんた、いきなり何すんだい。怪我でもしたらどうしてくれんのさ⁉」

 感情のない男の目が一瞬留女を捉えたが、すぐに視線を戻して言った。

「木島尚之介だな」

「貴様、公儀の手先か」

 不服そうな顔の留女を強引に背後に押しのけると、尚之介は質問に質問で応えた。

 放浪の身の上では人の恨みを買うことも多々ある。だが、こんな回りくどいことをしてくる輩となれば、思いあたる筋はこれしかなかった。

「いかにも」

 その答えで事態の深刻さに気付いたのだろう。留女が息を呑んだ気配が、尚之介のうなじに伝わってきた。

「公儀の手先がいまさら俺に何の用だ?」

「お前に命が下った。さるお方から直々の指名だ」

「ふっ」と、思わず自嘲が漏れていた。公儀の気まぐれだと思えば怒りさえわかず、むしろその盲目に哀れ味を覚えたほどだった。「六年も放っておいて今さら命令だと? 呆れて言葉も出んな」

 尚之介は刀の柄から手を下ろすと、落ちたままだった菅笠を取り上げた。踵を返すと、背中に男の声が追いすがった。

「この仕事をやり遂げればお前を復職させてもよいとのお考えだ」

「だれの差し金だ?」

 興味が湧いたというわけではないが、尚之介は反射的にそう聞き返していた。

遠山左衛門少尉ざえもんのじょう様」

「左衛門少尉様が……?」

 遠山景元といえば元北町奉行で、現在の大目付おおめつけである。名奉行としても庶民の味方としても名高く、悪名高い天保の改革の折には、行きすぎた倹約令などに反対し、老中水野忠邦や当時の目付鳥居耀三と対立した人物でもある。

 思わぬ大物の名前に逡巡したものの、尚之介の答えは変わらなかった。

「他を当たれ。俺は公儀に振り回されることにうんざりしたんだ」

「ならば言い方を変えよう」

 と、男は言った。だが、すでに歩き出していた足をわざわざ止めたのはそれが原因ではない。つづく金属の音に反応したのだ。ふり返ると、懐から出した包みを水桶の縁に置くところだった。

「ここに三十両ある。成功すればさらに三十」

 思わず息を呑んでしまったのも仕方のないことだろう。それだけあれば数年は懐の心配をせずに済む。

「支度金にしては多いようだが……」

「それだけ重要な任務ということだ。……やる気になったか?」

「話を聞くだけだ」

「川越多賀町に狗屋いぬやという店がある」男が切り出した。「まずはそこへ行き、主人久松時右衛門という男に近づいて信用を得ろ。そして男の発明したカラクリ『常夜燈』のことを探るんだ」

「いったいなに者だ」

「去年の伝馬町の火災の折に脱獄したカラクリ師だ。詳しいことは本人から聞きだすんだな」

「罪人か、面倒くさいことになりそうだな」すでに話を聞いたことを後悔しかけていたが、それでも背に腹は代えられなかった。やがて重い口を開くと、尚之介は話のつづきを促した。「なぜいまさら俺に白羽の矢が立った。お前がやればいいんじゃないのか?」

「他の者では時右衛門の信用を得ることはできないが、お前ならやれると左衛門少尉様はお考えになったのだろう」

「どういう意味だ?」

「それも会えばわかる」

「なるほど」と、半ば観念したように、尚之介は首肯した。「だが、探りだしたあとはどうすればいい?」

「いずれこちらから遣いをやる。それまで待っていろ。……交渉成立か?」

「いいだろう」

 尚之介が包みを懐に仕舞いこむと、男が思いだしたかのように切り出した。

「いいか、お前が優先すべきは、『常夜燈』だ。遣いが行くまで絶対にそのカラクリを守りぬけ」

「守るだと?」眉間に皺をよせ、尚之介が問いただす。「他にもそのカラクリを狙っているヤツらがいるということか」

「そういうことだ。三十両分は働いてもらう」

「いまさら言いやがって。そういうことは金を受け取るまえに言うもんだ」

「どっちにしろ行くのだろう。お前はか弱き庶民を見殺しになどできない性分だからな」

 チッ、と尚之介の口から舌打ちが漏れる。

「俺のことは調べ済みか」

「当然だ」男は話を締めくくったが、口調を変えると、最後にこうつけ加えた。「それより急いだ方がいい。面倒臭い連中がこっちへ向かっているようだ」

 通りの先に目を転じると、複数の役人がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。お節介な近隣住民が不穏な空気を察して町役人に連絡したのだろう。懐の三十両が見つかればあれやこれやと問いただされるにちがいない。逃げる必要はないが、いまは時間が惜しかった。

 視線を戻したときには男のすがたはすでになく、尚之介はすぐに歩きはじめた。

 背後を気にしながら、人混みの中を足早に突き進む。危険だが、このまま次の宿場に向かうしかなさそうだ。なんとも心許ない冬の陽を見上げつつ、覚悟を決めた、と、ちょうどそのきだった。

「お侍さん、お侍さん」

 ふいに呼ばれたような気がして目をやると、先ほどの留女が路地の陰から顔を出し、ちょいちょいと手で尚之介を手招きしていた。

「お侍さん、こっちこっち」

「なんでお前が……」

「いいから、いいから」

 おどろく尚之介を受け流し、女はついて来いとばかりに背を向けた。上手く説明はできないが、なんとなく信じてみようという気になって従うことにする。路地を抜け、裏にひろがる畑を突っ切って進んだ。

「川越に行くんだったら、あの道を行けばいいよ」

 しばらく進んでから足を止め、女は言った。目のまえに広がるのは田圃風景である。そのなかを畦道のような細い道が一本通っていた。中山道からいったん外れ、川越城下を通って板橋宿でふたたび中山道に合流する川越往還への道だ。

「明日中に着けるか?」

「歩いて行くなら到着は明日の午後だろうね。でも、急いでるんなら喜八って男に合うといい。三十両もあれば馬の一頭や二頭借りられるはずだよ」

「それは助かる」

 女はひとつうなずくと、宿場と田園の境目に建つ小さな腰掛け茶屋を指さした。

「喜八はあの茶屋の裏手の農家に住んでる。不愛想だけど無害な男さ」

「なにからなにまで世話になったな。礼を言う」

「礼なんかいらないよ。そのかわり喜八への謝礼の半分はわたしの取り分なんだから、そのつもりでけちけちしないどくれよ」

「なるほど狙いはこの三十両か。納得したよ」

「二百文を払えない客がいきなり大金持ちになったんだから、ただで帰す手はないだろう」

 女は一仕事を終えたような満足げな笑みを浮かべたが、すぐにその顔に緊張が走った。視線を追ってふり返ると、追手のすがたが目に入った。

「お前はどうする? このままでは逃げきれないぞ」

「逃げる? べつにあたしはなにもしちゃいないよ。旅のお侍に道を尋ねられたから教えただけさ」

「なるほど。ちがいない」

「さあ、あたしの心配はいらないから、行った、行った。あんたが捕まったら元も子もないんだからね!」

「たしかにそのとおりだな」

 尚之介は女に追い立てられるようにして走り出した。木立のなかをすり抜け、掘っ建て小屋の陰に身を寄せつつ進むと、宿場の終わりにたどり着いたころには追手のすがたは見当たらなかった。教えられた農家をすぐに見つけ、さっそく喜八という男と交渉し、金に物を言わせて難なく馬を手に入れた。これほど順調に宿場を出ることができたのは、留女が上手く時間稼ぎをしてくれたおかげだろう。そう考えれば、喜八に払った多額の謝礼も安いものだった。

 尚之介は久しぶりの馬に苦戦しながらも、なんとか走り出すと、川越への一本道を急いだ。

 城下の北を流れる赤間川が見えはじめたときには、ふもとの常夜灯に火が入っていた。

 木戸の前で馬を下りると、小屋から番太が出てきて怪訝な表情を浮かべた。袖口のほつれと擦り切れた袴とを交互に見やってから口を開く。

「こちらへはどういったご用件で?」

「公用だ」

 答えつつ、尚之介は懐から公用手形をとり出した。実は喜八に金を渡したときに気づいたのだが、包みには三十両とこの手形が入っていたのだ。

 紙を広げたとたん番太の顏色が変わった。食い詰め浪人と侮っていた態度が一転し、尚之介の咳払いひとつにびくっと肩を震わせる。

「し、失礼しました。あの、私は何かした方がよろしいのでしょうか?」

「いや、内密の御役目ゆえ他言無用だ」恐縮するすがたに留飲を下げた尚之介は、優しげに尋ねた。「それより、久松時右衛門というカラクリ師を知っているか?」

 番太は時右衛門のことまでは知らなかったが、職人が多く住んでいるという多賀町までの道順を聞きだすことができた。屋号までわかっているのだから、行けば何とかなるだろう。尚之介は馬を番小屋に預け、木戸をくぐった。

 川越城下は、町の東側に城が位置しており、それを南北から挟むように武家屋敷が建ち並んでいる。十ヵ町四門前と呼ばれる町人町が西大手門前にひろがっていて、多賀町はその西大手門からほど近い場所にあるということだった。  

 尚之介が通った最北に位置する志多町の木戸から、城下を半分ほど南下しなければならないようだが、全長でも十町ほどの小さな城下町である。大した時間はかからないだろう。

 尚之介は町の中心を南北に貫く喜多町通りを足早に歩いた。日はとうに暮れていたが、辻行灯つじあんどん軒灯のきとうの火で通りは十分に明るい。東の空にちらちらと瞬くのは城の櫓から漏れる光だろう。

 七間もあろうかという広い通りの両側には様々な商店が軒を並べていて昼間の賑わいを容易に想像させたが、さすがに真冬の六つ時である。ほとんどの店が暖簾を下ろしていて、人影はまばらだった。

 教えられた多賀町の時の鐘の鐘楼までさほど時間はかからなかった。表通りを歩いて、『狗屋』の看板を探す。

 間もなく見つけ出したのは、二階建てで間口二間ほどの小ぢんまりとした店だった。犬の横顔をかたどったひょうきんな看板を掲げている。暖簾は下ろされ、中はひっそりと静まり返っていた。

 一瞬ためらったもののすぐに訪いを入れる。軒先に立って聞き耳をたててみたが、しんと静まり返った店内からは物音ひとつ聞こえない。

 しばらく待って、もう一度声をかけた。

 ほんのわずかに戸口が開いていることに気がついたのはそのときだ。手を掛けて確かめると、やはり戸は抵抗なく動いた。

 尚之介はいったん目を転じて通りに視線を走らせた。視界に入ったのは提灯を揺らしながら家路を急ぐ商家の番頭と、供を連れて歩く若い侍のみ。ふたりともこちらを気にする様子はなかった。

 相変わらずひとの気配はなく、中から漏れ出るのは冷え冷えとした静寂だけである。ひやりと背筋に悪寒が走り、尚之介は生唾を呑みこんだが、ひと呼吸で覚悟を決めると、さっと引き戸を開いた。鯉口を切ってから、慎重に土間に足を踏み入れる。

「時右衛門殿、おられぬか⁉」

 ふたたび呼びかけてはみたものの、やはり返事はなかった。

 尚之介は壁に背を預けつつさらに奥へと足を進めた。店内は暗かったが、格子窓から差し入る明かりで中の様子はおおよそつかめる。

 まず目を引いたのは、壁を覆い尽くすほどの大きな木棚だった。鈍色に光る望遠鏡や照明器具らしき筒状のガラス製品、市松人形を思わせる童子の置物などが所せましと並べられ、薄明りの下で怪しげな輪郭線を浮かび上がらせていた。

 その棚の向こうには板敷の帳場と奥へつづく襖があり、背中を寄せる右手壁側は、通路が台所を通って裏庭までつながっているようだった。

 このまま土間を奥へと進むか、それとも帳場に上がってみるか。

 逡巡したとき、突然人の気配を感じとった。だれかが息をひそめながらこちらの様子をうかがっている―――。

 尚之介は帳場の奥に狙いを定めると、忍び足で進んだ。板間に上がって襖を開け放つ。

 室内は暗く、月明かりを求めて縁側に出ようとした。が、つぎの瞬間、氷のように冷たい何かが足首に触れ、尚之介は飛びのいた。蛇に絡みつかれたような錯覚に、思わず息を呑む。

 闇に目をこらしていると、やがて横たわる人の輪郭がぼんやりと浮かんできた。

 尚之介は傍らにしゃがみ、顔を覗きこんだ。暗い色の筒袖にたっつけ袴をつけた初老の男。背格好からして久松治右衛門その人だろう。

 袈裟掛けにざっくりと切り裂かれた胸から、血があふれ出している。息はあるが、長くは持ちそうになかった。

「クソッ」と思わず舌打ちが漏れる。「いったいなにがあった?」

 肩を抱き起こして尋ねると、時右衛門は尚之介に焦点を合わせた。

「あなたも『常夜燈』をお探しか」

 台詞から察するに、常夜燈を狙う輩にやられたと考えるべきだろう。

「案ずるな、私は木島尚之介という者だ。お前を守るように言われて来た」

 公儀という言葉をあえて避けたのは、そんな言葉を口にすればかえって警戒心を抱かせると考えたためだが、時右衛門の反応は予想外のものだった。細い目をいっぱいに見開いて尚之介の顔をまじまじと見つめ返したかと思うと、声を詰まらせながらこんなことを言った。

「あなたがあの木島尚之介殿でしたか……まさかご公儀があなたを遣わすとは……」

「俺を知っているのか⁉」

 ふと、お前ならやれる、と言った隠密の言葉を思い出したが、改めて考えてみても思い当たる節はなかった。戸惑う尚之介をよそに、時右衛門はしばし感慨深げな視線を向けつづけた。

「これは天の導きなのやもしれん」やがてぽつりとつぶやき、そして、意を決したようにこうつづけた。「木島様、無理を承知でお頼みします。さっきここから出ていった娘を、麻衣を無事江戸に送り届けていただけないでしょうか。日本橋の百地百軒というカラクリ師のもとへ―――」

「ちょっと待て、俺はそんなことをしている時間は―――」

「常夜燈のことを探りに来なすったのでしょう。ならば、あの娘が知っています」

「なに……⁉」

 状況を整理する間もなく、時右衛門は言葉を継いでいく。

「麻衣には、わしになにかあればひとりで百軒のもとへ向かうようにと言い含めております。だが、いつまた先ほどのような輩に常夜燈を狙われるかと思うと……死んでも死にきれませぬ……」

 時右衛門は制止を振りほどいて上体を起こすと、深々と頭を下げた。その後頭部を見下ろしつつ、自分に残された道を思い浮かべる。

 三十両分は働いてもらう、とあの隠密は言ったが、事態はすでにその範ちゅうさえ超えているような予感がしていた。とはいえ、この状況でこの老人の頼みを断ることなど自分にはできないのだということもわかっている。

 様々な打算が脳裏をかすめたが、やがて諦めたように、尚之介は言った。

「仕方ない。ほかに選択肢はないようだ」

「ありがとうございます……」時右衛門はその顔に安堵の色を浮かべたが、すぐに真顔に戻ると、最後の力をふりしぼるようにして訴えた。「木島殿、常夜燈は公儀に託したのではありません。あなたに託したのです。どうか、そのことをお忘れにならぬよう……」

「約束しよう」

 尚之介が答えると、時右衛門はふたたび頭を下げ、沈みこむように畳に横たわった。

「悪いが医者を呼んでいる暇はない、このまま行かせてもらうぞ」

 無慈悲とも思える言葉だったが、時右衛門は満足げにうなずいた。

 息をひきとったことを見届けると、尚之介は座敷をあとにした。

 縁側から庭へ下りて勝手口から出てみたものの、土地勘のない者には麻衣とやらがどこへ向かったのか見当もつかなかった。確信を持てないまま、とりあえず裏店のほうへと足を踏み出す。

 進行方向の先から男の怒鳴り声が耳に届いたのは不幸中の幸いだった。音を頼りに路地を奥へと進んでいった。

 やがて女の悲鳴や揉み合うような物音までが聞こえはじめたが、つづく金属音に思わずハッとした。斬撃音である。ギンギンと鉄の弾き合うような音は斬り合いが始まった音にちがいなかった。

「いったいなにがどうなっているんだ……」

 焦燥に駆られ、尚之介は先を急いだ。

 音の出どころは、時右衛門の家から数棟先の長屋の裏からだった。路地の奥から人の争う気配も伝わってきている。

 刀を握り直すと、尚之介は路地に突っ込んだ。

 空き地に出たとたん、目に入ったのは賊らしき三人の男と、その男たちに囲まれるひとりの女、そしてその女をかばうようにして刀を構えるひとりの侍だった。

 男どもが時右衛門を襲った賊で、女が麻衣だとすると、両者のあいだに立ちふさがる侍はなに者なのか。見当もつかないが、とりあえずここは助太刀するべきだろう。

 そう判断した直後、足下に転がるむくろに気がついて動きを止めた。なりからして賊の一味であることは疑いようがない。先ほどの斬撃音の、それが答えというわけだ。

 尚之介は助太刀を思いとどまり、成り行きを見守ることにした。

 先に動いたのは謎の侍だった。その踏み込みに気づいた瞬間には、賊のひとりが断末魔の叫び声を上げていた。

 残るふたりは明らかに戦意を失っていた。が、侍は止まらなかった。ひとり目の男が地面に倒れ込むより早く次なる賊を斬り伏せたかと思うと、さらにその返す刀が、最短距離を通って寸分の狂いなく三人目の鳩尾を捉えた。鬼神のごとき早業である。

 計五人の賊を斬り伏せた侍は刀をひと振りして鞘に納めると、尚之介を見やり、なに事もなかったかのように淡々と切り出した。

「どうやら助太刀に来てくださったようですね。間に合いませんでしたが、そのご厚意には感謝いたします」

 背丈はふつうだが手足が長く、ひょろりとした印象の若者だった。年のころは十七、八。顔はまだ子供のそれだが、剣の腕は並みの大人以上であることはまちがいない。五人もの賊を斬り伏せたあとだというのに、着崩れ一つしていないことがその証拠である。

 十分に間合いを保ったまま、尚之介は尋ねた。

「なに者だ?」

「お気になさらず、ただの通りすがりですので」

 到底信じられなかったが、それ以上追求したところで無意味だろう。質問を変えて、聞きなおした。

「お前も常夜燈を狙う口か?」

 その問いに、侍がふっと息を吐きだした。影で表情はよくわからなかったが、どうやら笑っているらしい。

 しばし無言で牽制し合ったが、やがて踵を返すと、侍はこちらに背を向けてゆうゆうと去っていった。

 その背中が闇の中に消えるのを見届けると、尚之介はほっと安堵のため息を吐いた。

 柄を握る手が汗でぐっしょりと濡れている。賊はともかく、あの若い侍と立合うことになっていたらただでは済まなかっただろう。この先、そんな事態が起こらないことを願わずにはいられなかった。

 ともあれ、ひとまず窮地は脱した。刀を鞘に納め、麻衣の元へと歩み寄った。

「お前が麻衣だな? 怪我はないか?」

 年は二十歳過ぎだろう。高い身長に長い手足を地味な色の着物に包んでいた。

「はい、私は大丈夫です……。それであの、あなたは……?」

「案ずるな、俺は怪しい者ではない。時右衛門殿から、お前を日本橋のカラクリ師のもとへ送り届けるように頼まれたのだ」

「時右衛門様が……?」

 麻衣は目を白黒させていた。驚くのはもっともな話だ。尚之介は簡潔にいきさつを説明し、質問を重ねた。

「それで、常夜燈はどこだ? お前が持っているのではないのか?」

「その、さっきまで持っていたのですが、……やつらに盗まれてしまいました」

 詳しく訊くと、賊は全部で六人いたらしく、先ほどの若い侍が割って入るまえに頭格の男が常夜燈を持ち去ったということだった。

 やはり面倒なことになってきたな、と尚之介は内心頭を抱えたい気分だった。が、顔には出さずにつづけた。

「やつらはただの下手人だろう? 黒幕の目星はついているのか?」

「おそらく……」

 麻衣は不安げに視線をそらすと、足元に視線を落とした。なかなか口を開こうとしないその態度に、苛立ちよりも、嫌な予感がつのっていく。

「だれなんだ?」

 たっぷりと間を取ってから、麻衣は意を決したように答えた。

老中首座ろうじゅうしゅざ、水野越前守えちぜんのかみ忠邦様ではないかと……」

 その名前を耳にしたのは久しぶりだった。脳裏をよぎったのは六年前の因縁と、この件に関わったことへの後悔である。

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