遺稿 五

 終わらせた話の続きが書けない。

 書かない、ではなく、書けない。

 四季坂文吾という作家は、一度作品を完成させると、どんな出来であろうと、どんな状況にあろうと、それで満足してしまい、もうそれ以上何かを思い浮かべて書くことができなかった。

 文吾と掛けて『平成の文豪』などと呼ばれていた彼のこと、いくつもの締め切りに日々追われており、終わらせた話に構っている暇がそもそもなかったのもある。

 彼を好きな読者の間では有名な話だったが、それを知る機会のなかった雪夜は、初めて知ったその事実に多少落胆しつつ、必ず書くと約束させたのだからと、気長に待つことにした。

「結婚して、半年、一年経った。いつも忙しくされてたから、タイミングを見て、書いてるかどうか訊ねてみたの。もうちょっと待ってくれって言われたから、更に待って、二年、三年。迷惑なことだって分かってるけど、もどかしくなって、急かしたりもしたわ。そのたびに、困った顔をしながら、もう少しだけ待ってくれって」

 そうして、四年経った。

「旦那様はようやく、そろそろ書けそうだって言ってくれた。私、もう……嬉しくて嬉しくて! だって四年も待たされたのよ! 彼を幸せにする為の物語を!」

 三十目前にも関わらず、十代の少女のようなテンションではしゃぐ妻に、老作家はこんな忠告をした。

「ようやく書けそうになったけど、君があんまりうるさく騒いだりして邪魔してきたら、話が飛ぶ可能性もあるから、なるべく大人しくしてくれって。そんなの困るから、私、頑張って耐えたわ」

 そして、

「三ヶ月前、お夕飯を一緒に食べてる時に、いきなり旦那様から、朝まで外に出掛けててほしいって頼まれたの。いつもなら私が家にいても気にしないのに、今回は私がいると気が散るみたいで。朝には書き上がるだろうから、それまではって。私ね、それだけ真剣にやってくれてるのねって、すぐに出掛けたわ」

 結果、

「朝になって帰ってみれば、旦那様は既に、その机の上に突っ伏して亡くなってた。だらんと垂れた手の下に、真っ赤な血で汚れたハサミが落ちてたわ。私──原稿はどうしたのかと思って、すぐに旦那様の傍に駆け寄ったら、それらしい物は旦那様の顔の下にあった。その時には気付かなかったけど、机の端の方に、メモが置かれてたんですって」

 ──やっぱり、君には見せられない。

「裏切られたと思った。私の想いは伝わってなかったのねって。悲しかった。だけどそれ以上に、求めてやまなかった作品がそこにあるのに、読ませてもらえないことが悔しくて堪らなかった」

 葬儀が終わり、遺品をどうするか──台無しにされた遺稿をどうするか考えてた時、ふと、秋羅のことを思い出した。

「秋羅ちゃんに昔、私の過去を視てもらったことがあるじゃない? 確か、先生との大切な会話を忘れちゃった、とかで。人のを視られたんだから、物の過去だって視られるんじゃないかって」

 解約して放置していた昔の携帯とその充電器を探し出して、電話帳に残っていた秋羅宅の電話番号に掛けると、秋羅ではなく、その母でも父でもなく、大学を卒業して以来疎遠になっていた友人・冬乃が出た。数年振りの会話だったが、秋羅に過去を視てほしい旨を真っ先に伝えると、冬乃はこう説明した。

 現在、秋羅はその特異な才能を活用すべく、誰かの忘れた記憶を、忘れ去られた物の記録を、視て、伝えるという仕事をしており、視てもらいたいなら依頼してくれ、と。

 雪夜は依頼することにし、そして秋羅は書斎にいる。

「お願い、秋羅ちゃん。私は、それを読みたいの」

 いつの間にか、雪夜はドアに凭れていなかった。

 楽しげな笑みも消え失せ、そこにあるのは、瞳にほんのりと憎しみを込めた、どこまでも真剣な表情。

 じっと、秋羅の背中を見つめながら、もう一度言った。

「どうしても、読みたいのよっ!」

 泣く寸前のような声で懇願する姉の友人に、

 今回の依頼人に、

「……元より、そのつもりでここにいます。それに、」

 秋羅はそう答えながら、今まで逸らしてきた視線を、

「ここまで来て、物を目にしてしまえば……正直私も見たくなってきます」


 しっかり対象に合わせた。


 物心ついた時から使えた、特異な才能。

 人でも物でも、直接目にして見つめ続けると、次第に、対象に関する過去が視えてくる。

 画面越しやガラス越しなど、たとえ透明であろうと間に隔たりがあると視ることは叶わず、視過ぎるとひどく疲れることから、普段は伊達眼鏡をして制御している。

 特に力も込めず、じっと、秋羅は見つめ、──そして視た。


 四季坂文吾の遺稿を。

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