四季坂文吾が遺した物

黒本聖南

遺稿

遺稿 一

 例年よりも残暑が長い、とある日の午後一時。

 白いワンピースの裾と薄茶の長い髪を揺らしながら、足早に自宅へと向かう雪夜ゆきよの手には、近所の洋菓子店の名前が可愛らしいフォントで印字された、正方形の箱があった。

 半透明な袋に入れられたその箱の中には、苺の小さなホールケーキが入っている。

 ほんの三ヶ月前に夫を亡くし、子供もいない雪夜だが、二時に客人が来る予定であり、その人物へのもてなしの品を買う為に、先程まで近所の商店街にある洋菓子店へと行っていた。

 客人は一人、それも小食で偏食がちな、十代の少女であった。

 本来彼女の為に、そしてついでに自分も食べるつもりで買う予定だったのは、ショートケーキ二個のはずだったが、いざ洋菓子店に入り、ショーウィンドウ越しに商品を目にすると、雪夜はほとんど無意識にホールケーキを頼んでいた。

 はて、自分は何故、一番小さいとはいえ、ホールケーキを買ってしまったのか。

 ショートケーキ二個よりも値が張るし、場合によっては夕食に影響が出るかもしれず、客人は十代も後半の少女、カロリーが気になる年頃だろうに。

「……誰かの、誕生日?」

 袋に入った箱が傾かないよう気にしつつ、歩みを緩め、雪夜は僅かに首を傾げて考えた。

 その所作は、二ヶ月前に三十歳になったばかりだというのに、童顔も相まって、十代の少女を思わせた。

「今月は九月だから……」

 そこまで交遊関係の広くない雪夜だが、個人的な趣味の関係で、幾人もの誕生日を覚えており、特に九月にそれは集中していた。

 暦はそろそろ十月になろうかという頃だったが、念の為、覚えている最初の日から順に挙げていく。

 脳内での作業ではあるが、小さいながらも無意識に声が口から零れていき、すれ違う通行人達は訝しげな視線を一瞬、雪夜に向ける。

 彼女も自分に向けられる視線に何となく気付いてはいたものの、つばの大きな淡い黄色の帽子を目深に被っていたので、そのまま気にせず続けた。

「……で、十四日、十六日、少し飛んで二十日、二十一日……あ」

 そして雪夜は、答えに辿り着いた。

 自分が何故、ホールケーキを買ったのか。

 今日が何の日、否、誰の誕生日であるか。

「じゃあ、仕方ないか」

 そう呟いた雪夜の顔には、頭上に広がる青空のように、晴れやかな笑みが浮かべられていた。

 些細な疑問が氷解した所で、雪夜の自宅があるクリーム色のマンションが見えてきた。時間的にも約束には十分間に合いそうで、彼女は小さく吐息を零した。

「ぐえっ」

 零した所で、足元から妙な音が。

 次いで、柔らかく、それでいて硬い感触が足の裏から伝わってきた。

 疑問が解消されたことと、マンションが見えてきたことで、足元が疎かになっていた雪夜。歩みを止めて下を見れば、白のパンプスを履いた自身の右足が、何やら黒くて大きなものを踏みつけていた。

 微かに、黒い物体が動く。

「ふ……ふま、ないで……」

 声は足元、黒い物体から。

 目を凝らしてみれば、どうやらその正体は、裾の長い黒のパーカーを着た、地面に横たわる人間だったようで。

「あら?」

 雪夜は足を退けて、声のした方、頭部のある辺りに近寄るとかがみ込み、その人物の顔を覗きにかかる。

 こちらもこちらでフードを目深に被っていたようで、顔を確認することができない。仕方なく雪夜はケーキの入った箱を地面に置き、空いた両手でそっとフードを取ってみれば、どうやらその人物は彼女の知り合いであった。

 更に言えば、これから会う予定の少女であった。

秋羅あきらちゃん、こんな所でどうしたの? この道はあなたの部屋でも、私の家でもないんだから、寝っ転がっては駄目でしょ?」

「……ユキ、さん?」

 秋羅と呼ばれた少女は、無理矢理 あらわにされた顔をしかめさせながら、瞼を閉じたままで、声のする方へとゆっくり動き始める。

「はい、ユキさんです」

 雪夜がそう答えると、少女は動きを止め、

「…………ごめ、ユキさ…………もう、」

 むり、と掠れた声で彼女に告げるのだった。

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