第3話 悪女の誕生_前編



 数週間、私は死んだように何もせず、ただベッドに座って過ごした。



 屋敷の召使い達が、私のために毎日部屋に食事を運んでくれたけれど、食欲が湧かず、ほとんど手を付けなかった。


 やがて私は、肋骨の骨が浮き出るほど痩せこけた。


 それでも、食事が喉を通らない。



「イネス、閉じこもりきりなのはよくない。来なさい、一緒に散歩しよう」


 ある日訪ねてきたグレゴリウス卿に、散歩に誘われた。


 本当は散歩をする気分じゃなかったけれど、多忙なグレゴリウス卿からくわしい話を聞くには、今しかないと思い、私は誘いに応じた。


 グレゴリウスの屋敷は広く、庭は隅々まで手入れされている。花々が咲き誇っていたけれど、その色にも、匂いにも、私は何も感じなかった。



「・・・・!」


 当てもなく二人で庭を歩いていると、曲がり角で誰かとぶつかりそうになった。



 はじめは背が高い、女性だと思った。輪郭が細く、目鼻立ちが中性的で、作り物のように整っていたからだ。


 でもよく観察して、男性だと気づく。年齢は私と同じぐらいだろうか、どこか影がある目をしていた。



「ディデリクス。庭にいたのか」


 グレゴリウス卿が彼に声をかけた。


閣下かっか


 ディデリクスと呼ばれた青年は、丁寧に一礼する。


「客人とご一緒とは知らず、失礼しました」


「そんなにかしこまる必要はない。彼女はイネスだ。これから、ここで暮らすことになる」



 ディデリクスは、私の顔を見つめる。私も、彼の顔を観察した。



(・・・・冷たい目)


 彼の目は凍えていた。すべてが作り物のように見えるのは、元々の顔立ちのせいもあるだろうけれど、彼の表情が動かないせいでもある。



 まるで、鏡を見ているようだと思った。



 ――――今の私と同じで、彼の心も死んでいる。



「急ぎの用がありますので、失礼します」


「ああ、また後で」


 ディデリクスは身を翻し、去っていった。



「ディデリクスの無礼を許してほしい。・・・・彼は色々あって、他人との関りを避けているんだ」


「そうですか・・・・」


 深く聞いてはならない気がして、私はそれ以上は聞かなかった。


 それに今は、聞かなければならないことが他に山ほどある。



「お聞きしたいことがあります、閣下」


 私はグレゴリウス卿の目を見すえ、単刀直入に切り出した。


「そう話を急がなくていい。ここは安全だ」


「安全だと、言いきれますか? パンタシア軍が今でも、私を捜しているはずです。場合によっては、あなたにも迷惑をかけてしまうかも・・・・」


「その件ならば、心配ない。君は、公的には死んだことになっている。私がそう偽装した」


「・・・・・・・・」


「真相が知りたいだろう? イネス」


 グレゴリウス卿は立ち止まり、私を見る。


「君のお父上は無実だ。――――彼は、謀殺された」


「ええ、父は無実です。・・・・黒幕には薄々、察しがついています」


 ルジェナに脅迫されてから間もなく、暗殺未遂事件が起こった。この二つを関連付けるのは、自然なことだ。



「ダヴィド・ガメイラ・ヘレボルスは、娘のルジェナを、次の皇后にしようと画策している。ルジェナが皇后になり、男子を産んでその子が皇太子になれば、ヘレボルスは皇族の一員になれるのだ」


 私の考えを読んだのか、グレゴリウス卿はそう言った。



「陛下を襲撃した男はヘレボルスの関係者で、商売に失敗して、多額の借金を抱えていたそうだ。ほとんど無一文で金を返す目処めどなどなかったはずなのに、暗殺未遂を起こす前日に、なぜか借金を完済している」


「ヘレボルスが、大金を支払って、彼を雇ったとお考えなのですね。・・・・でも、陛下の暗殺未遂事件なんて起こせば、死を免れないと、彼にもわかっていたはずです」


「家族思いの男だったそうだ。・・・・家族を愛していたのなら、残された家族のために、何でもするだろう」


「・・・・・・・・」


「君の実家のクレメンテは、ヘレボルスと対立していたし、ルジェナを皇后にするには、皇后である君が邪魔だったんだろう」


「ルジェナを皇后にする、ただそれだけのために、彼らは罪を捏造し、大勢の人を殺したとおっしゃるんですか?」


 怒りで、拳が震えた。拳を強く握ると、爪が手の平に食い込み、痛みを覚えたけれど、それでも力を制御できない。


「ヘレボルスなら、それぐらい迷いなくやってのける。君はダヴィド・ガメイラ・ヘレボルスが、成りあがるために今までどれだけの血を流してきたか、その罪深さを知らない」


「・・・・・・・・」


「それに――――ヘレボルスは、それ以上のこともやってのけた」


「それ以上のこと?」


 嫌な予感に胸を塞がれて、私の声は震える。



「マクシミヌスの処断が終わると、ヘレボルスは今度は、対立している他の貴族達にも牙をむいた。暗殺未遂事件に関わっていたのは、クレメンテだけではないと言い出し、次々と証拠を捏造したんだ。私も嫌疑をかけられたが、何とか乗り切った。・・・・だが、乗り越えられなかった者も多い。――――多くの血が流れたよ」



 私は声を失い、銅像のように立ち尽くした。



「・・・・ヘレボルスはこの機に、敵対していた貴族達を一掃したんだ」



 グレゴリウス卿は、ひときわ大きな花に手を伸ばす。花びらに触れるだけかと思っていたら、彼は花を握り潰してしまった。



「――――ヘレボルスは、陛下を傀儡にして、敵を消すことで、パンタシアの政治を手に入れたんだ」



 グレゴリウス卿が手を開くと、バラバラになった花びらが零れ落ちる。



 私は血痕のように散らばる赤い花びらを、じっと見つめた。



「もう長く、ろくに食事を食べていないそうだな」


 グレゴリウス卿は、私に向きなおる。


「食事を拒否するのは、間違っている。君は、生き残らなければならない」


「・・・・お気遣いには、感謝します。けれど、食欲が湧かないんです」


「・・・・君の痛みはわかる。生き残ってしまったことに、罪悪感を感じているんだろう? だが、生き残ったことには意味がある。その命は、大切にしなければ」


 グレゴリウス卿が、善意から私を説得しようとしてくれていることは、十分にわかっていた。



 それでも、痛みがわかるという言葉に、私は苛立ちを覚える。



「・・・・閣下に、私の痛みがわかるとは思えません」


 どうして私一人だけが、生き残ってしまったのか。私がもっとうまく立ち回れていれば、家族を守れたかもしれない。――――罪悪感と悲しみに押し潰され、骨がよじれるような苦痛を感じていた。



「・・・・わかるよ。――――私も、天涯孤独のようなものだからな」



 その言葉に驚いて、私はグレゴリウス卿の顔を覗き込んだ。



 彼は寂しい眼差しで、屋敷の窓を見上げていた。


「少し前までは、この屋敷も騒がしかったんだ。妻と息子、娘の笑い声が、毎日響いていた。――――だが、今はいない。妻達とともに、屋敷からも賑やかさが消えてしまった」


「なぜ・・・・」


「私は長い間、ヘレボルスと対立していた。腐敗の象徴であるヘレボルスを、政界から一掃したかったんだ。・・・・愚かにも、正攻法とヘレボルスに勝てると、思い込んでいた」


 グレゴリウス卿の声に、苦みが混じる。


「だが、知人の結婚式の帰り道に、刺客に襲われて、自分が間違っていたと気づいたよ。相手は私が思うほど、生易しい存在ではなかったのだと」


「・・・・・・・・」



「私の妻と子供達は――――刺客に殺された。なのになぜか、私は無様に、生き残ってしまった。・・・・もう何年も前の話だ。証拠はなく、この件でヘレボルスを裁くことはできなかった」



 ――――衝撃的な告白に、呼吸が止まった。



 だけどそれでは――――辻褄が合わない。



「・・・・辻褄が合いません。グレゴリウス卿には、ベルナルドゥス様と、ディデリクス様がいらっしゃるじゃありませんか」


「二人は、私の実子ではない。ベルナルドゥスはグレゴリウスと同じ、ユルス氏族の、グリエルムス家の男子だ。父母が不慮の事故で死に、私以外に親族がいなかったため、私が引き取り、養子にした」


「では、ディデリクスは・・・・」


「ディデリクスもユルス氏族の一つ、ロドルフス家の人間だ。・・・・ディデリクスの家族も、あの子がまだ五つの時に、ヘレボルスが放ったと思われる刺客達に殺されている。以来、私が育ててきた」


「・・・・・・・・」


「ディデリクスにも、養子にならないかと話してみたが、家族の仇をとるまではロドルフスの名を捨てるつもりはないと言いきった。あの子は――――復讐に燃えている」



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