ノーリスク起業と男のロマン

与方藤士朗

第1話 脱サラ&起業のリスク

1969年8月19日(火) 大阪市内「なにわ帝国ホテル」


「やあ、大宮君」


 薄色の背広にネクタイをした30代の体格の良い男性が、ポロシャツ姿の同世代の青年に声をかけた。彼らはホテルのロビーから喫茶に入り、アイスコーヒーをそれぞれ注文した。やがてアイスコーヒーが運ばれてきた。


 「しかし西沢君、帝国ホテルにご宿泊とはねぇ。元プロ野球選手は違うなぁ」

 「東京の帝国ホテルにも泊ったことあるけど、ここも、ええやろ。今風のビジネスホテルにして、なにわはつくけど「帝国ホテル」。こっちのほうが大阪らしくて気楽でええ」

 「それなら、ホテル事業部でも作って、東京の本家に掛け合って、神戸に三宮帝国ホテルを作ったら? 本業の洋菓子もそこで売れまくってますます潤うこと請合いだ」

 「アホなこと言うな(爆笑)。ヘマしたあかつきには、こっちの洋菓子事業までパーになってしまうやないかい! 天下の帝国ホテルに洒落まがいの喧嘩なんか売って、どースンネン。ヘッポコ商業高校出の野球馬鹿のオレは、大宮哲郎大先生みたいに天下の国立O大法科行くアタマないけど、それくらいのリスク加減はようわかるで(再爆笑)」

 「それはともあれ(笑)、わしは明日から、久々に岡山に里帰りしてくる。今週1週間は有給と夏期休暇の振替をとっているからね。おかげで、高校野球の決勝も、マルマル2日間、再試合も含めてうちで観られたから、ちょうどよかった」

 「畏れ多くも大宮大先生におかれては、おヒマなのか、お忙しいのか・・・(苦笑)」

 「お盆期間は、結構忙しかったで。年末年始と違って業務は止まらんからね」

 「さよか。ところで、昨日の電話では、よつ葉園に行く用事ができたって?」

 「そうなのよ。森川のおじさんから「御指名」がかかってナ。大槻和男君や。覚えているだろ、河内商科大学に通っていた、あの青年」

 「ああ、彼のことね。しかしありゃ、おもろい若者やったな。今、よつ葉園で働いているのだろ? 確か2年間の「丁稚奉公」とやらがあって、それが昭和45年春には終って、それから一旗揚げるとか何とか、もう、耳にタコができるほど聞かされたでぇ・・・」

 「森川のおじさん、そんなことは重々承知の上で大槻君をよつ葉園の児童指導員に新卒で採用したけど、あの青年、いいのか悪いのか、休みの日や昼間の時間があるときには、近所の川上モータースに行ってクルマの修理とか、そんなばっかりしとる。でだ、あのクン、ついにクラッチまで直せるようになったって、おじさんの前で得意になって吹聴したそうな。先日の手紙で、その状況が事細かに書かれていてねぇ・・・」

 「今哲郎の持っているのが、森川先生からの手紙か?」

 「その通り。まあ、読んでみてよ。西沢茂君にもお伝えするよう、御指名もあるで」

 「オレもか? まぁ、ええけど・・・、いや、オモロソーやから、ぜひ」

 大宮氏は、西沢氏に森川園長からの手紙を手渡した。

 

 西沢氏は、岡山にある養護施設よつ葉園の森川一郎園長とは面識がある。

 彼がプロ野球のパシフィックリーグに3年間存在した、川崎ユニオンズというチームに入団した1956年のキャンプで初めて岡山入りしたとき、当時O大生だった大宮氏に紹介されたことがきっかけ。

 西沢青年の実家は、神戸の洋菓子屋。戦前・戦時中を通して軍の指定業者であっただけでなく、戦後も、今度は進駐軍の指定業者として洋菓子などを生産し、納入していた。しかも祖父・父ともに、兵庫県議や神戸市議を歴任していた。

 本人の野球好きが嵩じてユニオンズのテストに合格していたこともあり、高校卒業と同時に、1年だけ選手をした。しかし、2年目を迎えて球団が解散になった段階で、父親と球団マネージャーの長崎弘氏から引退を勧告され、彼は選手を引退するかわりに会社清算の事務手続を手伝うこととなった。その後長崎氏は、オーナーであり自分を大学まで行かせてくれた同郷の大先輩・川崎龍次郎氏の後継として愛媛県の選挙区から衆議院議員選挙に出馬し、以後当選を重ねていた。会社清算が終わった段階で、長崎氏は西沢青年を私設秘書にして、数年間、政治を学ばせた。

 そんな経験があるからこそ、彼は倒産後の企業がどんなものかを熟知している。

 また、高校の同級生や秘書をしていたときに出会った人など、複数の知人が会社や飲食店を開業するにあたっても、さまざまな面で協力したことがあり、起業だけでなく事業を維持していくことはどれほど大変なことかも、彼は肌身で知っている。


 老紳士からの手紙を片手に、西沢氏は、その場にひざまずいてげらげら笑い出したい思いを必死でこらえ、何とか平静を装いつつ、苦笑を浮かべながら読んでいる。

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