45.大家さんと携帯電話

 冬支度が済んで既に二週間が経過していた。季節は既に冬、俺はすっかり寂しくなった外の景色をただ何も考えるでもなく部屋の窓から眺めていた。


「貴方は何を物悲しそうに外を見ているのかしら」

「そんな顔してましたか?」

「ええ、いつも以上に冴えない顔をしていたわよ」

「そうですか、大家さんの方はいつも以上に……」


 ここで反撃を繰り出そうとしたのだが、丁度良い言葉が見つからない。いつも以上に綺麗ですねとか言ったら気持ち悪がられるだろうし、いつも以上に言葉のキレが良いですねなんて言っても結局気持ち悪がられる。うん、俺なんでこんなこと言ってしまったんだろう。


「いつも以上に……何かしら?」

「あれですよ、いつも以上に……そう、いつも以上に目元がパッチリしてるなと思いまして」

「あら、よく分かったわね。小夏に言われて目元が大きく見えるメイクをやってみたのよ」


 うっそ、当たっちゃったよ。完全にまぐれだがこれなら気持ち悪がられるイベントも回避出来るんじゃないか?


「でもそんな些細な変化に気づくなんてなんか気持ち悪いわね」


 そう思っていた時間は僅か二秒程だった。結局こうなる運命だったのだろう。


 それはともかく今日は大家さんの様子がおかしい。まぁ様子がおかしいのはいつものことなのだが今回は違うベクトルで大家さんがおかしかった。というのも何が嬉しいのか分からないがさっきからずっとニヤけているのだ。つい今まで気にしないようにしていたが、流石にもう我慢できない。


「何か良いことありました?」

「どうしてそう思ったのかしら?」

「いやだって顔ニヤけてますし」

「あら、本当ね。うっかりしていたわ。……ふふ」


 頭のネジが飛びすぎてついに感情すら制御出来なくなったかと少し哀れに思いながら大家さんを見ていると、彼女は突然俺に向かって手招きし始めた。なんですか。


「そこに何かあるんですか?」

「いいからこっちに来なさい。大事な話よ」

「大事な話ですか。分かりました」


 大事な話とはなんだろう。大家さんの畏まった態度を少々不気味に思いながらも俺は彼女の方へとゆっくり足を運ぶ。そうして大家さんのすぐ近くまでいったところで彼女は俺に対してやはり嬉しそうに問いかけた。


「貴方この前携帯を持っていないと言ったわよね?」

「はい、仕事を止めた時に必要なかったので解約しましたよ」

「そう、ならこれは分かるかしら?」


 大家さんが取り出したのは黒くて小さな薄い長方形の物体。これは……。


「これってSIMカードですか」

「そうよ、私が新しく契約しておいたの」


 そうSIMカード、携帯電話の通信に必要な小さなICカードだ。でも契約したからなんだというのだ。


「これは貴方に使ってもらうわ」

「そうですか、俺が使うんですか……って俺が使うんですか!?」

「どうしたの? 嬉しくないのかしら?」

「い、いえそれは……」


 落ち着け、まずは冷静になるんだ。大家さんが何の見返りも求めずにSIMカードを渡してくるなんて普通に考えてあり得ない。絶対何か裏があるはずである。


「でも俺はお金なんて持ってませんよ」

「そんなの知っているわよ。無職に期待なんてしていないわ。安心しなさい、別に貴方からお金を徴収するなんてことはしないわ」


 それってつまりただでSIMカードを貸してくれるってことですよね。他人がただ何かをくれるというだけでも怖いのに今回はその他人が大家さんときた。もう怖いなんてレベルでは済まない。怖いを通り越して逆に嬉しい。


「それだったらありがたく受け取らせていただきますけど……何も悪いことは企んでないんですよね?」

「悪いことって私を悪人か何かだと思っているの? あまり疑り深い男は嫌われるわよ。ただでさえ貴方にはんだから嫌われる真似なんてしない方がいいわ。いえ、貴方にはという魅力があったわね、失礼」


 大家さんは言葉の節々に悪意のある強調を散りばめながら俺の問いに返事をする。返事の仕方はともかく大家さんがそこまで言うのなら本当に何も悪いことは企んでいないのだろう。少なくとも今は。


「すみません、折角の大家さんの好意を疑ったりして。じゃあこれはありがたく使わせていただきますね」

「分かれば良いのよ。ところで携帯本体は持っている? もし持っていないのなら私が前に使っていたものを貸すけれど」

「そうですね、持ってないので貸していただけると助かります」


 だとしたら大家さんの目的はなんなのだろう。真意を確かめるため、じっと大家さんの動きを観察していると彼女はおもむろに口を開いた。


「ところで貴方に一つお願いがあるのだけれど」

「はい何ですか?」


 来た、来た。これを待っていた。このとても今から人にものを頼むようには見えない態度。これでこそ大家さんだ。安心する。


「何で貴方はそんなにホッとした顔をしているのよ……。まぁいいわ、それでお願いのことなのだけれど貴方にはこれから貸す予定の携帯で毎日私にメールを送って欲しいの」

「メールですか」

「そう、でもただのメールではなく私への愛を囁くようなメールをお願いしたいのよ」

「はぁ……」

「勘違いされても困るから先に言っておくけれど別に貴方に気があるとか、そういうことではないわ。ただ私も良い歳だから最近両親が私の結婚のことで色々煩くてね。それで小夏に相談したら誰かに彼氏のふりをしてもらえば全て解決するとアドバイスを貰ったのよ。それで選ばれたのが貴方、手始めに私達が交際している証として愛のメールというわけなの。貴方の残念な頭でも理解出来たかしら?」


 ああ、なるほど小夏ちゃんの差し金だったのか。メールだけならパソコンがあれば十分だろうとも思ったのだが、手始めにという言葉を聞く限りこれから携帯を使う場面が何かあるということだろう。あと残念なのはあなたの方です。


「はい、それは理解したんですけど……。それで何でさっきから大家さんはニヤニヤしてるんです?」


 そう、大家さんがさっきからずっとニヤけているのが気になる。今の話で彼女が嬉しくなる要素なんてどこにもないだろうに。そう思って問いかけると彼女はいつもの意地の悪い笑みを浮かべた。


「だってこれから毎日貴方が苦悩しながら書き上げた恥ずかしい文章がメールで送られてくるのよ? 一体どんな気持ちで書くのか想像すると笑える……もとい微笑ましいじゃない?」


 全く、大家さんという人はつくづくいい性格をしている。もちろん悪い意味である。

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