第7話「ボーダーライン」

 アセットは思わず息を飲む。

 全身がまるで、彫像になったように動かなくなった。

 それは恐らく、極度の緊張感によって筋肉が硬直してしまったのだ。そういうことがあると王立魔学院アカデミーでは学んだが、体験するのは初めてかもしれない。

 そして、それをもたらしているのは……純然たる殺気だ。

 それは、弓矢を構える幼馴染おさななじみのカイルも同じようだった。


「カイルッ!」

「来るな、アセット! ……少し、森の奥に入り過ぎたようだな」


 森の奥は自然の領域、本能と野生だけが支配する場所である。

 人間が踏み入っていいのは、陽の光が届く場所だけだ。

 空を覆うように木々が枝葉を広げる、奥まった方へは決して入ってはいけない。そこでは、人間の条理や法則など通用しないのだ。一歩を進むごとに、人間はただの脆弱な動物に変わってしまう。

 そして、目の前の猛獣はここでは最強の存在に最も近かった。

 危険な一瞬を凝縮した時間は、永遠にも感じられる。

 だが、ビルラだけが普段と変わらぬ声を僅かに弾ませていた。


「ほう、おおかみですか……それも、大きい。私も実物を見るのは初めてですね」

「ビルラさん、下がって」

「いえ、私は平気です。私の肉体は光学映像に過ぎませんので。しかし、あのお嬢さんはそうではないので、助ける必要がありそうですね」


 言われてアセットは、ようやく気付いた。

 巨大な狼の目の前に、へたりこんだ女の子が震えている。その身なりはとても綺羅きらびやかで、着飾った姿は村人ではないことは明白だ。何故なぜ、こんな場所に貴族めいた少女がいるのか、それはわからない。

 だが、ガタガタ震える彼女はこちらを向いて、パッと表情を明るくした。


「まあ、カイル! わたくしを助けに来てくれたのですね!」

「いや、まあ……この状況、ちっと助けられるかどうかは微妙だけどな、お嬢様」

「いーえっ、助けなさい! 騎士のほまれいさおしにかけて、わたくしを守るのです!」

「俺、騎士じゃなくてただの平民ですよ。見捨てちゃおけないけどさ」


 どうやらカイルと少女は顔見知りのようだ。

 妙に気の抜けた会話のやり取りを聞くうちに、アセットにも余裕が少しだけ戻ってくる。

 改めてアセットは、瞳に闘争心を滾らせる獣を見やった。

 この辺りでは狼は珍しくないが、酷く大きい。ちょっとした馬くらいはありそうだ。気が立っているようで、どうやら狩りの帰りらしい。狼は口に、息絶えたウサギをくわえていた。

 例の少女は、不用意に森の奥に踏み入ってばったり鉢合わせしてしまったようである。


「カイル、そのまま……そのままで頼むよ。今、僕が」

「お、おいっ、アセット!」

「こういう魔法は初めて使うんだけどね」


 アセットは迷わず、両の手の平を噛み合わせる。そうして左右に広げると、魔造書プロパティが現れた。それは念結アクセスによって浮かぶ緑色の光で、解読不能の文字が乱舞していた。

 魔法の発動準備が整うと、静かにアセットは言の葉をつむぐ。


「眠りを誘う夢魔むまの歌をここに……まどろみの中へいざなえ」


 不意に赤い矢印が宙に浮かんだ。

 背後でビルラが驚きに目を丸くしていたが、構わずそっとアセットは手を押し出す。

 赤い矢印は、狼の頭上まで移動し点滅した。

 そして、奇跡が起こる。

 魔法はいつだって、原理原則を無視して結果だけをもたらす、ゆえに魔法なのだ。

 ぐらりとよろけて、狼はくわえたウサギを落とし、次にドサリとその場に倒れた。


「……寝た、かな。カイル、今のうちに彼女を」

「あ、ああ」

「因みに、狩りのことだけど。どうする? 今なら」

「ん……いや、やめとこう。これだけ頂戴して退散しようぜ」


 カイルは弓のつるを外して、ウサギを拾い上げる。

 そんな彼の足元まで、少女はって駆け寄りしがみついた。


「カイルッ! よく来てくれたわ。助かった……そこの者も、感謝します」

「ったく、いいから立てよ、シャルフリーデお嬢様」

「た、立てないわ……腰が抜けてしまったの」

「なんで森へ? 俺、何度も言ったよな? 一人で森に入るなって」

「だ、だって……お父様がお仕事の間、退屈なんですもの」


 カイルは大きく溜息をつくと、アセットに肩を竦めてみせた。


「こいつはシャルフリーデ、領主様の一人娘だ」

「ああ、そういえば……領主様、村に来てるんだ」

「多分、オヤジと会ってるんだろ? まったく、世話が焼けるお嬢様だぜ」

「まあ、無事でよかったよ」


 カイルが屈んで背を向ければ、よじ登るようにしてシャルフリーデが張り付く。彼女を背負って立ち上がると、カイルはようやく安心したように安堵の表情を見せた。

 あとはもう、ここに長居は無用である。

 アセットも、初めて使った魔法にそこまで自信を持ってはいない。

 一時的に相手を昏倒こんとうさせる魔法は、使用者の力量次第で効力が変わるのだ。こうしている今、この瞬間に目を覚まさないとも限らない。

 急いで村へと戻り始めれば、滑るように走るビルラが隣に並んだ。


「アセット、今のがこの惑星の魔法ですか……確かに、魔法に見えるでしょうね」

「ビルラたちの世界の、その、カガク? そういうのとは違った?」

「……いえ、大きく違いはしないでしょう。ただ……いえ、まだ確証がないのでなんとも」

「それより、さ。ビルラ、気付いてた? 誰かがさっき、こっちを見てたような気がしたんだけど」

「ふむ、そういえば」


 アセットは、極度の緊張の中で確かに見た。

 人の気配が、生い茂る木々の向こうからこちらを見ていた。見守っていたような、監視していたような、そんな気配があった。

 ちらりとだが、赤い頭髪が見えたような気もした。

 だが、今となってはそれはどこにも感じられない。


「それにしても、アセット。先程は見事な判断でした。やろうと思えば、あの狼を殺すこともできたでしょうに」

「いや、できないよ。僕たちの魔法は、そういうふうにはできていないんだ」

「そうですか。そこまでの権限は解放されていないということですね」

「ん? なんだい、それは」

「いえ、こちらの話です」


 前にロレッタにも説明したが、魔法はそんなに攻撃的なものじゃない。先程の眠りを誘う魔法だって、本当は加減して使うものだ。不眠に悩む人への治療などに用いられる。

 勿論もちろん、戦いに役立つ魔法も無数に存在する。

 それはただ、戦いにも使えるが、基本的に日常の暮らしを楽にさせるためのものだ。

 そんなことをビルラと話しつつ、駆け足で村へと戻る。

 先を進むカイルの背では、シャルフリーデがすでに先程の恐怖を忘れているようだった。


「ねえ、カイル。わたくしを連れて、村を案内なさい。今日はそうね、貯水池の方へ行ってみたいわ」

「あのなあ、お嬢様。俺たちは毎日忙しいんだよ」

「あら、わたくしだって同じよ。音楽に絵画、お茶会に礼儀作法……退屈なんだから」

「お嬢様のそれだって、立派なレディとかになるための勉強じゃないか。少しは精進しょうじんしたらどうなんだよ」

「まっ、失礼ね! でもカイルだから許してあげるわ! いい? あなただから許すのよ?」

「へいへい、っと。ほら、もう立てるだろ? もうすぐ村だ、もう怖い獣も出ないはずだぜ」


 なんとなく、ロレッタが見たら怒りそうだなとアセットは思った。

 カイルも同じ気持ちらしく、村の手前でシャルフリーデを下ろす。ようやく自分で立って歩けるようになると、不満そうにシャルフリーデはくちびるを尖らせた。


「それで? カイルはなにをしてたのかしら。狩り? ねえ、そのウサギをどうするの?」

「決まってるさ、食うんだよ。ちょっと今、寝込んでる奴がいてさ」

「まあ! 病人がいるのね! なら、急いだ方がいいわ。行きましょう!」

「行きましょう、って……あーあ、なんだよもう。悪いな、アセット。悪気はないんだ。それがまた、たちが悪いというか……まあ、憎めないお嬢様さ」


 さっきまで縮こまっていたのに、シャルフリーデは大股で一番前を歩き出した。

 最後にアセットは、一度だけ森を振り返る。

 ここはもう、木漏こもが優しく降り注ぐ静かな森だ。だが、その奥には原初の闇が広がっている。それを忘れてはいけないし、不可侵の領域だと知っておかねばならない。


「お父様は村長さんと話してるわ。ねえカイル、知ってる? 今、王国は存亡の危機にあるのよ? ふふ、それでね」

「北から攻めてくる魔王の軍勢だろ?」

「そう、そうなの! でも、大丈夫だわ。きっと大丈夫……だって、諸王しょおうに見いだされた勇者様がいるんですもの」

「勇者様だあ? なんだそりゃ」


 アセットも初耳である。

 王国を含め、周囲の国々が協力してことにあたっている。魔王率いる闇の軍勢とは、全面戦争の様相をていしてきた。戦いは長引くだろうし、徐々に国力は削られてゆく。

 今では、王立魔学院アカデミーの学生でさえ、戦地に参陣すべきとの声も少なくない。

 だが、そんな逆境の人間たちを守るべく、救世主が現れたらしい。


「あの、シャルフリーデさん」

「なにかしら? ええと、あなたは……カイルの友人ね?」

「ええ。アセットといいます。今の話は本当ですか?」

「そうよ、わたくしはお父様から聞いたもの。ああ、勇者様……どんな方なのかしら。きっとどこかの国の王子様ね。神の御加護ごかごを受けて、世界を救ってくださるんだわ」

「……そんな話、聞いたことがないな」


 本当のことを言っただけなのだが、シャルフリーデに怖い目で睨まれてしまった。


「あなた、失礼ね! わたくしが嘘を言っているとでも? お父様は先月まで、前線へ出ていたんですからね! 恐ろしい魔物と戦ってたんです!」

「はあ」

「王国の貴族として、高貴なる義務があるんですもの!」


 なんとなくだが、アセットは理解した。

 どうやら諸王の同盟は苦戦中らしい。

 だから、勇者の登場などという大衆受けしそうな筋書きストーリーが必要になったのだ。これは恐らく、これから戦争の劣勢を覆うために国中に広がるだろう。美辞麗句びじれいくを連ねた噂話で、現実から目を逸らすつもりなのかもしれない。

 漠然ばくぜんとだが、アセットはげんなりした。

 嫌になった……すぐに大人の考えを察してしまう自分にもだ。

 なにはともあれ、皆でカイルの家の離れへと向かうことになったのだった。

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