1-6 ハイドン

 翌日、クリス・ザイファートがジャグリングをしているところに、さやかがやって来た。するとザイファートも曲芸をやめて近寄って来た。

「フラウ・ヤギ……エヒトクラングには会えたんですか?」

「ええ、会えました……」

 本来なら朗報を伝えに来たのだから堂々としてよい筈であるが、さやか自身、どこまで蔵野を信用して良いものかわからない。

「もしかして、調律、断られた?」

「ううん、大丈夫、ちゃんと引き受けてくれましたよ! ほら、私に任せてっていったでしょう? ほほほ」

「なんだ、浮かない顔してるからダメだったかと思ったよ。ははは」

「そ、そうね、ほほほ」

 はははvsほほほ。さやかも不安を悟られぬよう、精一杯の空元気で応対する。

「じゃあ、早速会わせてもらえる? 打合せたいことが……」

「実は……エヒトさんは忙しくて、直接お会いすることは出来ないそうなんです」

 するとザイファートの目に懐疑の色が浮かんだ。

「本当に……エヒトクラングと話したんだろうね? まさか、この僕を騙そうとしていない?」

 ぎくっ。

 意味は違うが、騙そうとしているのは確かだ。ちなみに蔵野は、ザイファートと直接会わないことも依頼を引き受ける条件に挙げていた。

「ととと、とんでもないです! それより、ザイファートさんのご希望を聞いてくるように、とのことなんですが……」

「今回、ハイドンのソナタを弾くんだけど、ハイドンに相応しい音を作って欲しい。ちょうどヴァージッツ先生にバッハの音を作ってくれたようにね」


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「とのことなんですが……」

 さやかは、再び大成警備保障の本社を訪れていた。小学校侵入犯がまた来たことで、さやかは好奇の目に晒されて居心地が悪かった。しかし、そんなことも言っていられない。

「ハイドン……ね」

 蔵野の声には気持ちがこもっていなかった。もっとも、ヴァージッツの時のように、何の変哲もない調律をして、これがハイドンの音ですよ、はいどんぞ、などダジャレを交えて宣うに違いない。そう思っていると、「曲はピアノソナタ変ホ長調、HobホーボーケンXVI 52番だな」

「……え?」

 さやかはバッグから資料を取り出して見た。たしかにプログラムにはハイドンのピアノソナタ変ホ長調、HobホーボーケンXVI 52番があった。

「なぜそれを……」

 プログラム内容はまだ蔵野には伝えていない。なのにどうして曲目がわかるのか……だが蔵野はさやかの疑問には答えず、質問で返した。

「会場はどこだ?」

「ヨントリーホールですよ。有名なホールで会社も必死に頑張って押さえたと聞いています」

「ヨントリーホールじゃあダメだ。糸川食品本社の地元、糸川市にあるアニティ文化ホールに変更しろ」

「えええ、そんな急な会場変更に応じるわけないじゃないですか!?」 

「応じなければ今回の話がなくなるだけだ。ようするに事は君次第だ。……私はこれから現場があるからこれで失礼する」

「ちょ、ちょっと、蔵野さん!」

 蔵野はさやかの呼び止める声も聞かずに立ち去った。


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 翌日、さやかの報告を聞いた前田課長は、彼女が予想した通り苦い顔をした。

「さすがに会場変更は厳しいな……ウチだけじゃなく、クライアントの糸川食品さんの都合もある」

「そうなんですけど……ザイファートさんが演奏する条件は蔵野さんが調律することで、蔵野さんが調律する条件が会場の変更なんです」

 正確には、自分は何もしないと蔵野が言っていたのだが、無論そのことは伏せておいた。

「ところで、その蔵野という調律師が会場変更を要求する理由は?」

「あ……聞いてないです……」

「おいおい、それでどうやってクライアントを説得するつもりだ。とにかくもう一度連絡して確認するんだ」

「わ、わかりました」

 さやかは早速蔵野の携帯にかけてみたが、繋がらない。仕方なく勤務先の大成警備保障に電話してみた。

「すみません。矢木と申しますが、蔵野さんはおられますか?」

「蔵野は基本的に夜勤ですので、夕方以降の出社となりますが……」

「そうですか、またかけ直します……」

 さやかはため息をついて受話器を置いた。『蔵野さんと連絡がつきません』などと報告すれば、また前田課長からドヤされそうだ。どうしたらいいかと考えあぐねていると、その横を高橋はじめが通った。その時、さやかはあることを思いついて高橋を呼び止めた。

「高橋さん、クラシックのイベントに携わって長いんですよね?」

「ああ、入社してからずっとクラシック音楽課ココにいるから、それなりに長いけど、ウチの会社自体がクラシックのノウハウ浅いからなぁ」

「そうですか。ちなみに、ピアノ調律師が会場変更を要求するとしたら、どんな理由が考えられますか?」

「調律師が? いや、そんなケースは聞いたことがないけど……例のエヒトクラングとやらがそう言ったのかい?」

「はい。ヨントリーホールではなく、クライアントの地元のホールを使うようにと……」

 高橋は顎に手を当てて考えた。

「うーん、……一つ考えられるのは、招待客がクライアントの地元の人間が多いだろ。そうすると、よほどのクラシック通ならともかく、わざわざ遠い東京のホールに行くより地元でやってくれた方がありがたいだろうな」

「なるほど。それ、クライアントへの説得理由としては良さそうですね!」

「そうだな。招待客の何人かにアンケート取って、地元開催の方がありがたいという声が集まれば、クライアントも変更を受け入れざるを得ないだろう。幸いなことに、招待客へのDM発送もウチの仕事だったからリストは持っている。適当にピックアップして聞いてみよう。俺も手伝うよ」

 さやかと高橋は手分けして糸川食品イベントの招待客リストから電話した。その結果、連絡のついた招待客の内、予定通りヨントリーホールでやって欲しいと答えた者は一人もいなかった。

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