1-4 彼の行方

 さやかはザイファートの応対をした高橋はじめという社員に事情を聞くことにした。高橋はどこか先輩風を吹かせているが、器量は小ささそうだ。

「まさか〝エヒトクラング〟なんて名前の日本人がいるとは思わなかったからさ、何かの比喩だと思ったよ。それでも最初は関係者をあたって探したけどね、そんな名前の調律師を知っている人間は見つからなかった」

「それで……ザイファートさんの意向を無視して他の調律師を手配したんですか」

「無視だなんて、人聞き悪いな。やむを得ないから、業界一評判の良い調律師に頼んだんだ。杵口直彦という名人でね、数々の名ピアニストの調律をこなしてきて、どんな要求にも応えられるという専らの評判だったから、きっとザイファートの要求にも応えられると思ったよ。ところが、ザイファートは杵口さんが調律すると聞くと、怒り出してコンサートは取りやめだ、と騒ぎ出したってわけさ」


 これ以上高橋から聞くことはないと思い、さやかは〝エヒトクラング〟の正体を追うことにした。高橋のいうように、そんな名前の日本人はいないだろう。エヒトクラング(本当の音)という異名を持つ調律師がいないかネットで調べてみた。しかし、そのような調律師について語られている記事は見当たらなかった。

 さやかは外神田にある日本ピアノ調律師協会を訪ねてみた。応対した事務員は、さやかの告げた用件を聞くと事務所に案内し、パソコンを開いた。

「そうですね……〝エヒトクラング〟という名前の技術者は外国人も含めて、当協会には登録されておりません。過去に退会された方の中にも該当者はいませんね」

「では、そういうニックネームと言うか、異名を持つ調律師のことは聞いたことはありませんか?」

「うーん、聞いたことがありませんね。……お役に立てずに申し訳ありません」

「いえ、お邪魔してすみません、ありがとうございました」

 さやかは協会を後にした。


 だが、協会の入居するビルを出たところで、一人の男性から呼び止められた。

「僕は協会員の一人ですけど、さっきあなたがおっしゃっていたことに心当たりがあります……」

 さやかの目が輝いた。

「何かご存知ですかっ!?」

「知っているというほどではないんですけど、ドイツのメーカーに研修に行った時にそういう噂を聞いたことがあったんです。そんな名前の日本人技術者がいるって……」

「もっと詳しく教えていただけませんか?」

「詳しく……ともかく凄い腕の持ち主だったみたいですよ。でも、当時はあまり興味なくて、フランクフルトの工房で働いていたらしいことくらいしかわかりませんね……」

「フランクフルトの何という工房かわかりますか?」

「いや、そこまでは……」

 でも、とりあえず手がかりは掴めた。さやかは堂島エージェンシーの事務所を借りてインターネットでフランクフルトのピアノ工房を調べ、片っ端から電話して尋ねていった。自分でこんなに国際電話をかければ電話代もかかるだろうが、ここは経費を使わせてもらう。

 電話してみると、日本人調律師を雇ったことのある工房というのは案外多かった。しかし、〝エヒトクラング〟に該当する人物にはなかなか当たらない。そうして十数軒目のクラヴィーアハウス・タカダでようやくそれらしい情報を掴めた。その名前から推察出来るように、店主は日本人で、日本語で話せるのがありがたかった。

「確かにそういう日本人技術者はいましたよ。直接会ったことはありませんが……フランクフルトの工房で働いていたらしいですが、その店が潰れて独立したらしいですね」

「その人、今どこにおられるかご存知ですか?」

「人から聞いた話ですけど、帰国して東京にいるそうです。……何でも今は調律師を辞めて、小学校の警備員をしているとか」

 調律師を辞めた!? さやかは頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。

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