異動

 一九八一年 大阪


 うだるような暑さの中、草野裕くさのゆたかが千里中央のショッピング街を歩いていると、電器店に展示されていたテレビが一人のうら若き貴婦人を映し出していた。英国のチャールズ皇太子とダイアナ妃との結婚が大々的に報道されていたのである。

 恋人のいない男の嫉妬やっかみではないが、海の向こうの王家の婚姻に、どうして日本中がこうも熱狂するのか、……理解に苦しむとはこういうことだと草野は得心する。


 草野はこの春、浜松市にある宮家楽器技術センターを卒業し、一人前のピアノ調律師としてミヤケ月販大阪営業所に配属された。子供の頃から習っていたピアノに関する仕事につきたいと、調律師を志した。そうしていよいよプロの調律師として働ける……と思いきや、最初に命じられた仕事は〝月販〟の契約を取ってくることだった。

 月販とは、将来のピアノ購入を見越しての積み立て預金である。銀行と比べて遥かに高金利である上に、ピアノ購入の際には様々な特典が付くというもの。

「始めから調律の仕事がもらえるおもたら大間違いやで! まずは月販取ってこい。ほんで満期なる前にピアノ売るんや。そしたらそのピアノの調律が出来るで」

 新人研修での上司である、天野浩正あまのひろまさの言葉だ。つまり、自分が調律する仕事は自分で獲得して来なければならないと言うわけだ。一カ月ノルマは五十件。やってみればそれが如何に非現実的な数字であるかわかる。当時は今で言うパワハラなど当たり前の時代。ノルマを達成出来なければ厳しい懲罰が待っている。草野の同期は五人大阪営業所に入ったが、この数カ月で三人辞めて行った。営業成績の芳しくない草野もいつ辞めようかと常に模索している状態だった。

 営業成績の悪い者はろくに休みももらえない。いや、休めないことはないのだが、契約がしっかり取れるまで休まないのが暗黙のルールとなっている。定時で帰るなどもってのほかだ。

 草野は主に千里中央辺りを担当している。ショッピング街を出て、新千里東町の団地群をドサまわり。エレベーターのない五階建ての建物を上り下りして、一軒一軒訪問する。疲れないわけがない。草野は気晴らしに、高速道路の上に架かる橋から自動車の往来を眺める。ここは中国自動車道と中央環状線が並走していて、たくさんの車が通過して行く。たまにピーというサイレンが鳴って白バイが出動する。スピード違反の車両が捕まったのだ。大抵捕まるのは、ミニバイクとかファミリーバイクと呼ばれる、原動機付自転車だ。制限速度は三十キロだが、こうして周りが高速で走っている道路では知らずにスピードを出してしまう。

「最近、この手のバイクが増えたな……」

 草野は呟いた。この頃、ミヤケとモチダのバイクが新製品ラッシュで、テレビコマーシャルでも、見るたびに新しい車種が紹介されている気がした。だが草野はあまりバイクには興味がない。高校時代はバイクに熱中するクラスメイトが少なからずいた。しかしそういうのは、どちらかと言えば不良やツッパリと呼ばれるタイプで、草野が友達になれるような人種ではなかった。


 そうして自動車見物を終えた草野は再び団地回りをする。運良く、子供にピアノを習わせようかと思っている主婦に巡り合い、何とか契約が取れた。これで帰っても文句を言われることはなかろう、と思って草野は会社に戻った。

 事務所の扉を開けると、途端に拍手喝采の音が聞こえてきた。何だろうと思っていると、同期の太田博道おおたひろみちが前に立ち、上司の天野が何やら讃えている。

「入社数カ月でグランドピアノを売るなんて立派や、おめでとう!」

 また拍手。

 太田がピアノを販売したのは入社してから3台目だ。これまではアップライトピアノだったが、初めてグランドピアノを販売したのだ。鼻高な太田を見て、草野は居心地悪かった。同期が成功すると、必ずその反動が草野に来る。

「おまえの同期、頑張ってるやないか。ちょっとは見習ったらどうや」

「あいつに出来るんやったら、おまえにも出来るやろ」等々。そう言われるのが鬱陶しくて、草野は出来るだけ天野の目に止まらないよう、コソコソと月販の事務手続きに勤しんだ。ところが、しばらくすると天野から別室に呼び出された。

「おい草野、ちょっと会議室に来い」

 天野は立ち上がり、草野に手招きした。嫌な予感がしながら草野は後について行く。会議室に入り、席につくと天野はお気に入りの洋モクに火をつけた。何度も使い走りに行かされたので、草野もよく覚えている銘柄だ。

「……草野、急な話やけど、おまえに異動の話が出てんねん」

「はい!?」

 草野は初めて大声を出した。「異動って、どこですか?」

「ミヤケモータース大阪営業所。来週からそっちに行ってもらうことになった」

「ミヤケモータースって、あのオートバイのですか? 楽器とは随分畑違いですけど……」

 草野は我が耳を疑った。なぜそんなところに異動になるのか?

「そやな。まあでも、向こうでしっかり売りの勉強してこいや。ピアノの商売にも役立つやろ」

「僕、ピアノの業務に戻れるんですか?」

「……知らん。そら上の決めることや」

 そして天野は洋モクの火を揉み消して出て行った。

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