生存者 二十


    十五


 物音一つ聞こえなかった。正確には、感知することができなかった。そのときゴートの目はモニターに釘付けにされていた。ジャッカルの視界を中継した画面だ。青白い光を放つその画面上には、ケイン・マルドネスの浅黒い顔と、彼の手に握られたリボルバーとが映し出されていた。魔王のカリスマ性に射すくめられたジャッカルが、僅かな抵抗もできぬまま足を吹き飛ばされる直前のことだった。

 ケインが何を喋っているのかは、ゴートにはわからなかった。向こう側の音声はジャッカルの肉声を除き、届かないようになっていたからだ。それゆえ状況の細部まで理解していたわけではなかったが、このままでは不味いということだけは間違いないように思われた。黙って傍観を決め込んではいられない。

 ゴートは通信を強制的に開始させた。通信機器が生み出す低い唸り声に晒されながら、彼が叫ぶ。

「聞け、ジャッカル、私の声を聞くんだ! ジャッカル動け、奴のペースに乗せられるな!」

 喉も裂けよとばかりに喚き立てる彼の声に、しかしジャッカルは何ら反応を示さなかった。ゴートの必死の叫びはたとえジャッカルの耳には届いていても、彼の意識にまでは到達していなかったのだ。

「いますぐに喉笛を噛みきれ!」

 それですべてが終わる。そろそろギャングの下っ端連中が騒ぎ始める頃合いだが、まだ包囲網は完成してはいまい。ケインさえ早急に始末してしまえば、バックアップ部隊とともに脱出するだけの猶予は充分以上にある。

 作戦の終了は近い。ゴールラインはすぐ目の前だ。あとはただ、倒れこむだけでもゴールテープに手が届くだろう。だがそれほどの位置に立ちながらも、ゴートはこのとき足元から汚泥に沈み込むかのような感覚を覚えていた。立つべき大地が皮膚を失い、そのほぐれた筋繊維で彼を捕らえる。最初は足首まで、次は膝まで、その次には腰までと、見る見るうちに身体が自由を失っていく。戸惑いだ。このとき、彼の四肢を捉えたこの濁りの正体は、ゴート自身の脳髄から溢れ出た戸惑いそのものだった。

「ジャッカル、足を止めるな!」

 彼はやみくもに声を張り上げた。激しい呼気と一緒に、胸中の狼狽を吐き出さんとしたのだ。

「おい、聞こえないのか、ジャッカル――」

 そこでついに、「一刻も早く動いてくれ」と願ってやまなかったモニターの表示が変化を示した。ジャッカルの視界が天地を失い、横転したのだ。その映像は紛れもなく、ジャッカルの身体が地面に倒れ伏したという事実を伝えるものだった。

 ゴートは直感した。あいつは撃たれた、最後に残った足までやられたのだ、と。

 いまや、汚泥のごとき戸惑いはゴートの口元にまで迫っていた。肘、胸、肩の高さを通り過ぎ、ほどなく首を覆ったその淀み、零下の恐怖と困惑は、いよいよ彼の命をさえ脅かし始めていた。その間、自分がいったい何を思うのか、ゴート本人には冷静に見定める余裕はなかった。彼はただ呆然と通信画面の前に座り込み、そこに突き付けられた銃口を見つめるばかりだった。

 カメラ越しの映像だというのは無論承知している。しかし本質的には、それは直に銃を突きつけられているのと変わらなかった。もしこのままジャッカルが命を落としたなら、その相棒であるゴートもまた、遅かれ早かれ同じ運命を辿ることになるからだ。

 食道を逆流してくる吐しゃ物を、彼はどうにか喉元で押し止めた。吐き気を催すほどの口惜しさが身体中の全神経を這い回っていた。あらゆる苦渋の混在したヘドロに全身を呑み込まれ、もはや上下の見当すら付けられない。膝を屈するための大地すら感じ取ることができなかった。

 ゴートがその場面を認めたのは、それほどの茫然自失のさなかであった。白く染まる防弾ガラス。なだれ込む四人の人影。カービン銃。目を剥いて振り返るケイン。有無を言わさぬ弾丸のしぶき。網膜に焼き付く眩い閃き。

 混迷も逡巡もない。その四人は驚くほど完全に秩序だっていた。冷静さと興奮との均衡を適切に保ちつつ、一挙一動の端々に揺るがぬ精神力を垣間見せる。その者たちはどこまでも徹底的で、また正確だった。

 ケインが大の字になって倒れ込む。その胸板を貫通した衝撃は、背中側の肉までをも引き裂いた。深紅の輝きを宿す血だまりに寝そべりながら、それでもなお闘う意思を見せるかのように、魔王の身体が痙攣をし続けた。はっきりと止めを刺されるまで、その脳天と心房とに、熱い鉛弾を撃ち込まれるまでだ。

 想定を超えた事態にゴートは思わず見入っていた。戦友が生き永らえたことに安堵の息をこぼしつつも、憎むべき仇敵が伏したこと自体に関しては、一種の達成感と同時に、敗北感というものもまた覚えずにはいられなかった。

 だが、いまはそういった感情にかまけてはいる場合ではない。何をさておいても現状把握だ。状況の理解とコントロール。この手に制御を取り戻さなければ。

 ゴートは脂汗の浮いた額を撫で回しつつ、閉じた瞼の裏にスクリーンを広げた。

(なぜ、彼らは予定にないことを?)

 その疑問に対する解答を、彼は自らの記憶と思考のなかに求めた。意識を集中し、密室の呻りを聴覚から追い払う。ささいな環境音ですら煩わしくて仕方がなかった。

 彼がその身辺に迫る異変を察知できなかったのは、こうした精神状態こそが原因だった。混迷した現実に捕らわれるがあまり、周囲への警戒を怠ってしまったのだ。

 そのとき突然、轟音が彼の鼓膜を突き刺した。思わず肩の跳ねるような爆発音だ。続けざま、ゴートの後方に位置する扉から幾人分もの足音がなだれ込んできた。無骨で厚いブーツの底面が、孤独に満ちた通信室を次々と踏み締める。

(不意を打たれたか)

 ゴートがそう自覚するよりも一瞬早く、彼の身体は行動を起こしていた。椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がり、手元に置いてあった拳銃を取り上げる。敵の正体が何であれ、よりにもよっていま邪魔をされてはかなわない。彼は手早く戦闘体制を整えた。

 とはいえ、抵抗できる状態でないのは明らかだった。銃に手を伸ばし、敵のいる方向へと構えるくらいのことはできても、実際に引き金を引くのは能わず。なにしろ相手方は人数も多いうえに、いずれも重装備にその身を包んでいたのである。ざっと見ただけでも四対一。それも、こちら側の回転式拳銃一丁に対し、敵方は軽機関銃が三丁に散弾銃一丁という布陣だ。これでは勝ち目などあるはずがない。

 加えて、連中は揃いのヘルメットとボディアーマーとで守りを固めていた。手元の三十八口径でそれらを射貫くことができるか、ゴートは試してみる気にもならなかった。

 良くて袋叩き。悪くて蜂の巣。だが走馬灯の果てに辿り着いたその悪寒は、これもまた彼の予想を裏切ることとなった。ゴートは銃床で打ち据えられることもなければ、また自らの血に沈むような憂き目を見ることもなかったのである。彼はただ愕然と立ち尽くした。そうして相手方の真意も測りかねたまま、言葉なき威圧感に晒されるのみだ。

 これ以上の反抗心は表に出せない。銃はあれども撃てはしない。

 そういうゴートの沈黙をどう見たか、そのとき、開け放たれた扉の内にまた新たな人物が姿を現した。突入部隊と同様の防護服を身に着けてはいるものの、振る舞いというのはまったく異なっている。悠長なほどに優雅で、どこかもったいつけた感じさえ見受けられるような歩調だった。

 なにぶん逆光気味の立ち位置だ。瞬時に仔細まで確認できたわけではない。だがそれでもゴートは、相手の素性がすぐにわかった。直接に会ったのはほんの数回だが、それだけにかえって強く記憶に残っていたのだ。最後に見たとき、その男の顔は確か、折り目正しいグレーのスーツの上に乗っていたはずだ。

「どうも、フィッツジェラルドさん」

「君は……」

「グリーンです。ケネス・グリーン。覚えておいででしょう?」

 引き締められ、持ち上げられた頬の筋肉と、悩ましげに歪んだ眉。その顔に商談用の喜色を貼り付けながら、ケネスはゴートの前に立っていた。

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