生存者 十


 ゴートがそうした結論に達した直後、ようやく事態が動きを見せた。

 ジャッカルが視界を翻す。何らかの異変を察知したのか、彼は素早く振り返ると、いましがた通り抜けたばかりの通路を睨みつけた。どうやら、背後に不審な物音を聞き取ったようだ。

 モニター上で同じ構図を見つめていたゴートもやがてすぐに状況を理解した。そのとき、ジャッカルの後方から新たな脅威が迫っていたのだ。その脅威の正体がギャングの増援なのか、それとも騒ぎを聞きつけた警官たちなのかは定かでないが、ともあれ味方でないことだけは間違いない。

 こうなると完全に袋の鼠だ。退路が完全に塞がれたうえ、相も変わらず進行方向の扉は閉じられたままだ。のみならず、さきの控え室での銃撃戦とは違って、今度は利用できそうな遮蔽物も見当たらない。やがて到着するだろう増援のうち何人にかは対処ができるかもしれないが、その後は追い詰められる公算が大きい。

 もはや一刻の猶予もならない。兎にも角にも敵に先んじようと、ゴートはマイクを取った。こうなればいったんジャッカルを帰投させ、大勢を立て直すのが賢明かもしれない。

 しかし彼が通信を開始させようとしたちょうどそのとき、またしても事態は急変した。後方に振り返ったままのジャッカルの視界の端々を、おぼろげな霧が覆い始めのだ。その変化はカメラを通した映像でもはっきりと確認することができた。そこに漂う白霧は、それほどに明白な存在感を放っていた。

 直後、ゴートが叫ぶ。

「門が開いた! ゴー、ジャッカル!」

 実際に見て確かめたわけではない。だが彼は確信していた。どこか幻想的にも感じられるこの光景は、紛れもなく危険物が醸し出す特有の華々しさによるものだと。パニックルームの扉が開かれ、催涙ガスが流出しているのだ。

 命令を受け取ったジャッカルは間髪を入れずに行動を起こした。再び繰り返された急激な視野の移動が、モニターを激しく明滅させた。


 沈黙する防衛システムの真下、複数の人影が純白のもやを切り裂いて現れる。パニックルームの内側から現れたその者たちは、一様に息も絶え絶えといった様子だった。手狭な通路に殺到しようとするそれらをしかし、ジャッカルはまとめて押し返した。これぞ人並外れた腕力の成せる業だ。

 もはやお前たちに逃げ場はない。

 その事実を無言のままに示しながら、ジャッカルは断固たる決意とともに部屋の内部へと踏み込んだ。

 敷居をまたぐその瞬間、一瞬だけ背後を見やると、従業員用の控え室側から通路に向かって、多数の人間がなだれ込んでくる様が見えた。いよいよ増援が到着したのだ。

 しかし、それもいまとなっては恐れることはない。なぜならジャッカルはすでに強力な防御手段を手に入れていたからだ。あとはそれを起動させるだけでいい。ジャッカルは、セーフルーム内部の人間たちをけん制しつつ、後ろ手に扉の操作盤に触れた。途端、出入り口が封鎖され、背後の通路と部屋とがチタン合金製の扉で仕切られた。許可のない人間がロックの操作を試みたために、あらためて扉が施錠されたのだ。

 さらに、外部から簡単に干渉ができないよう、部屋の外側の操作盤はあらかじめ破壊してある。一度こういう状況を作ってしまえば、専門の技術士でも連れて来ないかぎりこの密室を破ることはできない。これでかなりの時間を稼げるはずだ。少なくとも、優先対象を始末するのに困らないだけの時間が。


 当面の安全が確保されたところで、次はゴートの出番である。彼はまたメインモニターを離れると、催涙ガスの管理機材に向き直った。ガスの放出を止めるためだ。

 肉体の九十九パーセント以上を機械に置換したジャッカルなら、ガスの効果を受けることはない。とはいえ、白く濁った気体それ自体が生み出す視界不良に関しては話が別である。一寸先も見えないほどの濃霧の中にあっては、誰だろうと作業は捗らないものだ。ゴートが装置を止めたのはそれが主な理由であった。

 続けて彼は、換気用のダクトに対する物理的な阻害も中止させた。多少の時間はかかるだろうが、ともかくこれで部屋の空気も正常に戻るはずだ。

 ほどなくして、視界五フィートほどの濃霧にうずもれていた空間はゆっくりとその輪郭をあらわにし始めた。派手なばかりで節操のないインテリア。引き倒された椅子やオーディオ機器。方々の床に転がる人間の身体。苦痛に呻いているのであろう、体を小さく丸め、顔を手で覆ったままの男たち。いや男だけではない。そこには幾人かの女の姿もあった。艶やかな肌をあらわにした、夜空の下に生きる女たちの姿が。

 屈み込み、倒れ込み、折り重なって白目を剥く。そうした人影には一切目もくれず、ジャッカルはただ一人アレックスのみに焦点を合わせていた。

 そういう愚直さが、ゴートには何よりありがたかった。ついさきほど、彼自身がジャッカルの戸惑いを諌めたばかりにもかかわらず、彼の胸中にはある種の衝動が芽生えていた。

 束の間に麻痺していた感覚が蘇り、かえって鋭敏になる。そうすると、街の支配者たるギャングに牙をむき、そのボスの息子を襲撃、殺害するというこの計画がいかに常軌を逸したものであるのか、どうしても考えずにはいられなかった。

 無関係の人間を巻き込むだけの正当な意義があるだろうか? いや、たとえそこに意義があろうとも、果たして自分にそれを実行する権利はあるのか?

 懇々と湧き出る泉にも似て、危惧は止め処なく溢れてくる。恐ろしげに笑う何者かの顔。歪なまでの使命感。煌く月に照らしだされた、醜く歪んだ己自身。

 そういった像の一切をすべからく振り払うような愚直さが、ゆえにゴートはありがたかった。あるいは、ジャッカルが見せたこの実行力は一種の無知、愚かさにも近しいものだったのかもしれない。それは諦めを知らぬ者の強さだ。

 やがて、赤熱せんばかりのエネルギーに満ちたジャッカルの虹彩が、ついにその男の姿を捉えた。閉じられた一室の奥。突き当りの壁に背を付けた格好の、アレックス・マルドネスの姿を、だ。

 アレックスは半透明のフェイスガードタイプのガスマスクで顔を保護していた。それゆえ、容貌の仔細な部分までは捉えることができない。ただ、その表情が耐えがたいほどの恐怖に歪められていることだけは、遠目からでも察しがついた。けばけばしいオレンジ色のスーツに包まれた見るからにひょろ長い手足を、まるで引きつらせるかのようにして背面の壁に這わせる。そういう姿だけで充分、内面の怯えというものが実感として伝わってきた。

 しかし当の本人は、それだけでは本心を伝えきれないと考えたらしい。ジャッカルが歩みを進めるにつれ、だんだんとアレックスの表情が明らかになってくる。すると、いったい何を喚いているのだろうか、彼の口は大きく開閉を繰り返していた。

――近付くな。こっちに来るな。このクズ野郎――

 音声が届かないなか、ゴートが付け焼刃の読唇術で読み取ることができたのは、それらの言葉だけだった。

「こちらゴート。ジャッカル、奴はなんと言っているんだ?」

 その質問にジャッカルは、アレックスの言葉を復唱する形で答えた。

「それ以上、近付いたら容赦しないぞ。後悔することになる。父さんが黙っていない。お前は死んだも同然だ。もし仲間がいるなら、そいつらもまとめて皆殺しだ。ぶち殺してやる。お前の家族も、恋人も、もし子どもがいるなら、そいつも一緒にはらわたを引きずり出して――」

「わかった、もういい……もう充分だ。ゴー、ジャッカル」

 いま一度繰り返されたゴーサインに、ジャッカルは即座に反応した。

 対するアレックスは震える膝をよろめかせ、つんのめるようにして逃走を図った。最後の悪あがきといったところだろう。だが、それがいったい何になるというのか。

 いまや憐れにも見えるその男を、ジャッカルは自身の身体で押し留めた。その手足と同様に細長いばかりのアレックスの首を、機械式の左手でぎりぎりと締め上げる。立て続けに、アレックスの顔面を覆うガスマスクが剥ぎ取られた。ここまでやられて反撃の一つもしないということは、おそらく火器のたぐいは所持していないのだろう。好都合なことこの上ない。

 もはや邪魔立てをする者はいない。高くそびえる障壁もない。現に、ジャッカルの手はすでに到達している。悪魔の嫡子たるその男の首筋に、その命に。

 そのとき、襲撃を開始して以降、自発的に声を発することのなかったジャッカルが、静かに口を開いた。

「よく聞け」

 音声通信機をアクティブにせずとも、ジャッカルの肉声だけはゴートに通じている。しかし、それはゴートに対してではなく、手中の男に向けて発せられた言葉だった。

「お前は簡単には死ねない」

 ジャッカルが右手を握りこむ。すると束の間、手首の辺りに閃きが走った。その白い光の筋は、彼の腕部に搭載された仕込み刀に沿って伸びたものだった。

 清廉なまでの輝きがアレックスの血走った目に跳ね返る。直後、その目から頬を伝って下方、顎と首との境目にかけてを、鋭い刃先が通り過ぎた。その切っ先を追う赤い線は、間違いなく表皮の奥にまで達していた。

 アレックスは再度喚き声をあげた。だが口の開き方から判断するに、今度のそれは決して言葉と呼べるような代物ではないらしかった。より単純で、より悪意のない、純粋な苦痛の顕現だ。

 ゴートはこのとき、モニターに浮かぶ一連の映像を見つめながら、音声が届かないことに対して安堵と口惜しさの両方を感じていた。もし仮にこの絶叫を直に聞いていたとしたら、それこそ当分は耳を離れなかったことだろう。だが、この悪魔が苦悶のために声をあげる機会というのは、もう二度とは訪れない。そういう意味では一抹の惜しさもある。良心と復讐心の狭間にあって、ゴートはただじっと事の顛末を見守っていた。

 そんな彼とは裏腹に、いままさに執行人としての役割を果たさんとするジャッカルは一切の迷いを浮かべることもないまま、どこまでも冷徹な声で告げた。

「報いだ、マルドネス。この痛みこそ、お前が払うべき代償なんだ」

 そう言い終わるや否や、ジャッカルはアレックスの顔に手を伸ばした。続けざま、いましがた用意したばかりの傷口に指先を深く差し込む。

「これが報いだ」

 やがてジャッカルは慎重に、かつ確実に、アレックスの表皮を掴む手に力を込め始めた。ゴートは今度こそ、無音であることに心からの感謝を捧げた。

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