生存者 二

 彼はそれで口を潤すと、やがてすぐ車を発進させた。あとは勤め先の事務所に戻り、車と道具を返却し、私服に着替え、帰宅する。それがオースティン・ロングの決まりきったルーチンだ。その決まりごとを再現するように、彼は四角いバンを軽快に走らせた。煌びやかな繁華街を離れ、無愛想なビジネス街を通過し、利便性の高いダウンタウンへ。逆説的に言えば、そこは利便性という意外に褒めるところのない地域だ。その一角にロングの勤める清掃会社はある。

 不必要なまでに狭苦しい駐車スペースに太った車体を押し込む。フェンスの土台をこすったような感覚があったが、彼はまったく気にしなかった。どうせフェンスも車も、元からボロには違いないのだ。

 事後処理を手早く済ませたあと、中年のマネージャーと二言三言、世間話をする。この時点までには、彼は着替えを済ませていた。贔屓のスポーツチームのロゴが入ったスウェットと、ノーブランドのジーンズ。やたらに派手な蛍光色のスニーカー。どの街、どの職場にでもいる、冴えない男の私服姿だ。

 それこそまったくの普段どおり、何一つ変わった様子も見せないままに、彼は職場をあとにした。水曜日の仕事終わりらしく浮かれた様子はない。かといって、特別に沈んだ調子でもない。なんらかの変化に対する兆候など、彼はただの一つも見せなかった。


 彼が行動を起こしたのは、帰路についてからのことだった。すなわち、店の車と同じくらいにくたびれた自家用ワンボックスカーの中で、である。

 傍目には気まぐれなドライブにでも見えたはずだ。疲れた気分を癒そうと、夕暮れの郊外へと足を伸ばす。ちょっとした気分転換である。

 彼の駆る車両は安全運転でハイウェイを抜けたのち、整備された森の広がる山中へと向かっていった。街中からの距離はややあるが、移動時間というのはさほどかからない。そういう具合に手頃な割には、それなりに雄大な緑溢れる風景を楽しめるというのだから、休日の遠出にもうってつけのコースである。

 とはいえ彼は、なにも楽しみのためにそこを走っていたわけではなかった。彼はこのとき、紛れもなく帰途についていたのだ。

 頭骨に伝わる微弱な振動を、彼は音という形で認識した。呼び出しのコールだ。

「ジャッカルだ」

 彼がコードネームを口にすると、すぐに頭部に埋め込まれた通信機が反応した。外部に音が漏れにくく、また誰かに見咎められることもない。頭蓋骨の中というのは案外、こういう物を隠すには適している。無論、物理的に可能かどうか、という制限は付きまとうが。

「こちらゴート、首尾はどうだ?」

 そう問いかける通信手の声に、彼は短く応えた。

「問題ない」

「疑われてもいないな?」

「他人の考えまでは責任をもてない。よければそっちで判断してくれ」

「お前が油断していないなら、私もそれで満足としておこう」

 嬉しそうに口の端を歪めるような気配を、彼は相手の声の調子から感じ取った。実際のところゴートはそうしていたのだろう。どうあれ、その言葉には続きがあった。

「とにかく、いつものように裏口から入るようにな。なるべくならその車が人目につくのは避けたい」

「わかった」

「それじゃあ、通信を終える。気を付けろよ」

 音声が途絶えると、それまで気にも留めていなかったワンボックスの鼓動がやたらと耳についた。半分いかれた電気モーターが立てる、悲鳴のような高音が。みどり豊かな森林のさ中にあって、それは異音以外の何物でもなかった。

 足下の道路は舗装こそなされているものの、片側一車線の車道の両端は、背の高い木立の群れに圧迫されている。「鬱蒼」という言葉がよく似合う、薄暗い緑ばかりの風景だ。そこに見える木々は複雑な多様性を伺わせながらも、かつ同時に、単調な繰り返しでもあった。一本一本が異なる形態を持った樹木の群れでさえ、森という単位になればその個性を失うのだ。 

 そういう環境であれば一見、藪に隠れた状態の、その轍に気付くような者はそうはいないはずだ。あるいはたとえそれを発見したとて、明確な目的もなしに道路を外れることはしないだろう。人の好奇心にも限度がある。

 ジャッカルがハンドルを切ったのは、そういう獣道を目指してのことだった。途端、ぐらりと車体が揺れた。前後とものスタビライザーが動作し、舗装路からの逸脱を受け止めるべく必死の抵抗を試みる。ついでビニール製のシートカバーが尻を蹴り上げ、シートベルトが鎖骨を掴んだ。たしかに酷い揺れではあったが、ジャッカルはそれを気にする様子もなく、ただひたすらに獣道を突き進んだ。そんな彼の姿というのは、「日常のストレスに疲れ切ったオースティン・ロング青年が、逃げ場所を求めてさ迷っている」ようにしか見えないものだろう。退廃と鬱屈から逃げ出す若者。それこそ、どこにでも転がっているような、さして珍しくもない情景だ。

 しかし当然ながら、彼はやけになどなってはいない。ジャッカルは確かな意思のもとにアクセルを踏み、あくまでも節度を保ちながら、荒れた草地を切り開いているのだ。

 道路を外れてやや行くと、いよいよ本格的な悪路に突入した。背の高い下草が密度を増すにつれ、轍の跡さえ不鮮明になる。彼がそこまで行き着いたときには、もはや日も暮れきっていた。街灯もない山道では輪郭のぼやけたヘッドライトを除いて、ほかに光源となる物はない。頭上を覆う枝葉のせいで自然光すら頼りにできないような有様なのだ。だが、ジャッカルに迷いはなかった。必要なら現在位置も方角も確認する手段はあるのだが、それには及ばないほど、この一帯は彼にとって慣れた道だったのである。

 ゆえに、直前まで続いていた闇が瞬時に晴れたときにも、また星空に照らされた荘厳たる洋館が忽然と姿を現した瞬間にも、彼は平然とそれらを受け入れることができた。

 深い森が突然にひらけたその先では、頭上高く切り立った断崖が彼を待ちうけていた。遥かまで悠々と伸びる峰を背追った岩肌が、厚く、黒い胸板を露にする。まるで夜空を支える柱かのように力強いその造詣の足元に、その洋館はあった。がっしりと横幅の広い地上三階建て。それぞれ一つ一つが大きく取られた窓枠には、その優美な木目をさらに際立たせるような、巧みな装飾が施されていた。繊細かつ緻密。丁寧な仕事の繰り返しによってのみ生み出される、呼吸さえ感じるほどの存在感。肌が粟立つほどの畏怖を覚えさせられながらも、また同時に、目を釘付けにされんばかりの情熱を訴える佇まい。

 そうと知らずに迷い込んだ者ならば、それこそ幻か白昼夢でも見ているのかと思うであろう趣だ。そうした、一種、異界じみてさえ見える光景の真下を、ジャッカルを乗せた醜い車は進み続けた。 

 実のところ、彼の行く側から見えていたこの情景は、館の裏手というのに過ぎなかった。それに輪をかけたほどの見ごたえある景色が正面玄関では見られるのだが、生憎と館の側面を回って迂回しなければ、正面側の様子を窺うことはできない。裏を返せば、最前の山道からこの館に続く順路の側からでは、いましがたジャッカルが通って来た裏道には気が付かないということだ。これは彼とその相棒たるゴートにとって、非常に重要な事柄だった。なんであれ秘密裏に行動を起こすためには、人に感づかれないような移動経路が必要なのだ。

 ジャッカルは館の裏手に添えるようにしてワンボックスを停車させると、ほどなく電気モーターのスイッチを切った。ヘッドライトが沈黙する。ここまでくれば明かりに困ることもない。館を取り囲む塀の上には、要所要所に電灯が設置されていたからだ。

 やがて周囲に人影がないのを確認すると、彼はその人工の光の下に身を晒した。落ち着き払った様子のジャッカルの両目は、館の裏口を見据えたままだった。

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