第三十二話 謎の女の正体

 ガラス戸の奥では、にぎやかなテレビの音がしていた。

 どうやらテレビを観ていて、ぼくらの声が聞こえないらしい。

 前田は「開けようか」とガラス戸に手を伸ばした。

 と、そのとき。

 ガラッと戸がいきなり開いた。

「前田さんっ」

 ぼくは慌てて、前田を引き寄せて背後にかくした。前田は「は?」とすっとんきょうな声をあげている。

「おい」

「うん」

 ぼくとカズヤは互いの目を見て、うなずきあった。

 開いたガラス戸の向こうに仁王立ちしている人物。それはおじいさんではなく、あの怪しい女だった。

 室内のため、あの帽子もサングラスもしていない。なんなら、カメラも持ってないが、背格好からして間違いなく、その女だと確信した。

「あ、ノゾミさん。あの」

「あら、リンちゃん」

 ぱっと笑顔で前田を見る怪しい女ノゾミ。やはり、この女がノゾミで、マタヲの彼女にちがいない。

 ぼくはカズヤよりも前に踏み出した。

「あの、マタヲの彼女ですか?」

「え、彼女?」

 さっと怪訝な顔をするノゾミ。とぼけようとしているな。

「ノゾミさんですよね。マタヲ、どこにいますか。探してるんです」

「ノゾミはわたしだけど、マタちゃん、彼女ってどういう……」

「か、彼女は彼女やんか。その、彼とか彼女いうやん、名前ださんと呼ぶときに」

 マタヲの声だ! ぼくは和室に踏み込もうと前に飛び出した。

「ちょっと」

 ノゾミが険しい顔をする。くそっ、邪魔する気か。

「靴」

「あ」

 ぼくはスニーカーを投げ散らかして、和室に上がった。

「ねえ、マタちゃん。この子がトモキくん?」

「せや」

 マタヲは部屋のすみに吊るされていた。ネット状の布の上にいて、そこに不安定に座っている。ケガはしてないようだが、弱りきった顔をしていた。

「トモキくん、感動や。本当に来てくれたんやね」

「当り前だろ。弥平さんが困ってるんだから」

「誰や、弥平て」

「わたくしです」

 ずいっと身を乗り出したのはカッパの弥平だ。

「おっ、ヤッちゃんかいな! どないしたん、ひっさしぶりやなあー。なんや、ひいふうみい……八十年は経つかあ? うわー、元気しとったかー」

「あなたこそ、どうしたんです。そんなところに吊るされて。降りてこられないのですか?」

「吊るされて、てなんや。あ、こいつのことか。何いうてんねーんっ。これはハンモックやんかー。彼女が作ってくれてん」

「はあ、こちらがあなたの想い人である女性ですか」

 弥平はノゾミに向かって、ぎょろっとにらみをきかせた。

「では、あなたは本当にマタヲ殿の恋人でいらっしゃるんですね? 怪しい妖怪さらいではなく、信頼できる御仁だと?」

「恋人? なにそれ、マタちゃん、わたしのことどう説明してたのよ」

「や、その。誤解やねん。彼女いう言葉をきっと誤解したんや。あれやん、な、トモキくん、この人はぼくのともだちやねん。前に言うたやん?」

「スルメくれた?」

「そうそう。あと酢昆布と黒糖アメ」

「おばあさんだと思ってた」

「ちょっとー、このトモキくんて子、失礼じゃない。わたし、女優よ」

「ノゾミさんは劇団に入っているのよ」

 前田も和室に入ってきた。脱いだ靴をきちんと向きをかえてそろえている。ついでにぼくの吹っ飛んだスニーカーもなおしてくれるかと思ったが、前田はくるりとこちらを向くと、「こんど、市民会館で舞台するのよね?」とノゾミにたずねた。

「そうよ。猫の役をするの。だから、横断歩道でマタちゃんを見つけたときは感激したわ。だって本物の猫の気持ちが聞けるんですもの。役作りにもってこいよ」

「ノゾミンは仕事熱心やねん。そういうところが好きやわ」

「ふふっ。マタちゃんも観に来てくれるでしょ?」

「行く行く。せや、トモキくんも行くやろ?」

 マタヲは、どっこいせっと、吊るされていた場所から自分で降りて来た。

「で、ヤッちゃんがどうの言うてたな。どないしてん?」

「それが、息子が病気になりまして」

「なんやて。どないなかんじや。意識はあるんか?」

「なんとか。しかし甲羅がもう曲がり始めていて」

「いかんな。ほな、とりあえず、これを渡しとこ」

 マタヲは耳の中から、大豆くらいの粒を取り出すと、弥平に渡した。

「あとは詳しい状態を見てからやな。河原におるんか?」

「はい。ゆらゆら橋のちかくにおります」

「夕刻には行く。安心せい、このマタヲにかかれば、アジの開きも海を泳ぎだすんやで」

 ぽんっと弥平の肩を叩くマタヲ。

 弥平は涙を流しながらマタヲにお礼を言う。

「それでは、わたくしはすぐ息子にこれを」

「せや、行き行き」

「みなさんも、ありがとうございます」

 弥平はぺこぺこ頭を下げながら部屋を出て、ぺたっぺたっと道路を駆けて行った。

「ノゾミさんも弥平が見えるのね」

「当たり前じゃない。わたし、妖怪見えるのよねー。おじいちゃんはもう能力消えちゃったみたいだけど。あ、でも声は聞こえたり気配はわかるのよ。ね、マタちゃん」

「そやな。ぼくがいるほうを、じいいいいいっと見てるさかいな。たまに『猫は好かん』いいよるし。あれ、結構ショックやで」

「ごめんごめん。昔、ノラ猫に飼ってたインコを盗まれたからね」

「まあ、事情はわかるけどなあ」

「あの」

 カズヤだった。まだ部屋にはあがらず、開いたガラス戸の向こうに立っている。

「その猫がマタヲか? 助かったのか。おれたち救出成功したわけだよな? バンバンザイでいいんだよな?」

「そう、だと思う」

 ぼくのあいまいな返事に、前田が「そもそも二人で盛り上がり過ぎなのよ」と冷たい。

「うっわー」

 カズヤは目を輝かせてマタヲを見た。マタヲが「なんや、どういうこっちゃ」と驚いている。

「なに、なんなの。この子、カズヤくんやろ? なんでぼくが見えてんねん。いつもそばにおっても気づいとらんかったやんか」

「え、いつもいたの? 言ってよー。超かわいいじゃん。トモキ、トモキ」

「なに」

「いいんだよな。いいんだよな、モフッても」

「いいよ」

「え、なんや、こらっ。ぐふふ、にゃんっ。どこさわって、にゃはっ、やめい、このスケベ。なにやーもう、トモキくん助けてーな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る