ワケあり令嬢と騎士

音無音杏

第1章ㅤワケあり令嬢と騎士

 幼馴染に再会するというシチュエーションはよく小説などで書かれていることで、自分の身にそれがおこるなど思ってもいなかった。

 それは甘酸っぱく、甘くて甘い青春物語かと思いきや、この二人の場合は違う。


 そもそも、幼馴染と言えるほど長い期間一緒にいたわけではない。


 単純に数えると約10年ぶりか。もちろん年齢とともに体も成長し容姿も変わっている。

 けれど金髪で優しい目元は変わってない。彼の翠色の瞳は今でも綺麗に輝いている。

 一方令嬢のほうは黒髪ロングできつめの目つき、こちらも変わっていない。


「久しぶりだね」

「知らない。貴方なんて知らないわ」


 ふいっと顔を横に背ける。その様子はいじけているように見えて、彼は口元を緩めたまま。


「会えて良かった」

「だから知らないって言ってるでしょ。私は、会いたくなんてなかった」


 その言葉は彼のことを知っていると肯定しているのと同じだということを、彼女は知らない。


「新しく騎士がやってくると思ったら貴方みたいなヘタレなんて。もっと良い騎士他にいなかったのかしら」


 屋敷の廊下で偶然会ってしまうとは、どんな厄日か。新しい騎士がやってくることは知っていた。彼がその騎士だということも。

 彼女がこんな態度をとってしまうことには理由がある。


「……なんか言いなさいよ」

「嬉しくて何も言えなかった」


 純粋な笑み。それが自分には向けられていない気がして不満が増す。

 自分ではない誰かに向けられているのだろう。


「そんなにあの子に仕えるのが嬉しくてたまらない?」

「そうじゃないよ」

「だったら何よ。嫌味を言われるのがそんなに嬉しいの? あなたドMなの?」


 どちらでもない。それはわかってる。

 問いつめるように言っているのは肯定してほしいと思っているから。肯定して、自分に嫌気が差してこの場から立ち去ってくれるのが一番いい。


 本当の理由はわからなくていい。

 わからないままでいい。


 わかってしまえば自分の存在意義を求めてしまう気がする。


「ノノアントがそう思ってるならそうでもいい」

「何よそれ。自分の意思はないの」


 これほど嫌なことを言っているのにそれでも受け止めようとしてくるこの男はなんなのか。

 器が大きいというよりそれとまた別のものだ。性懲りも無く心を砕く、そういう精神をしている。


「あなた小さい頃からそうだけど、うまくやっていけてるのか心配になってきたわ」


 あ、とさりげなくしてしまった失言に気づいた時に手は取られた。異様に顔が近い。


「やっぱり憶えててくれたんだね」

「ち、違うわよ。なにこの手」

「握手。小さい頃よくやってたでしょ」

「そんなこと知らないわ」


 冷たく振りほどく。


「いらない子を構っていないで、はやくあの子の元へ行きなさい」


 どこかへ行ってとその瞳が辛そうに言ってたから、離れることにした。

 彼の眼差しはそんなものだ。同情でしかない。




『握手。こうするとね、気持ちが通じるようになるんだ』

 ベッドに一人座ってうつむいている女の子を手をとり、笑顔で少年は言った。きらびやかなそれはノノアントには眩しかった。

『ほら、心が開いてきたでしょ』

 眩しすぎた。




「握手で心が開く? そんな子供騙し、子供にしか通じないわ」


 自嘲気味に言う彼女は自分を蔑んでいるのか。

 それまで暖かい光景を映していた瞳が陰る。


「……私はいらない子なの」




 運良く、子宝に恵まれない貴族の養子となった。

 けれど妹が産まれ、『いらない子』となった。

 元々、必要とされる感じはよくわからなかったから特に何も思わなかった。

 そのはずなのに何故か妹を見るたび心の中が複雑にざわつきはじめて。無垢な赤子の顔を見て何をそんなに不快になるか、この気持ちは一体何なのかと考えてはみたがよくわからなかった。


 歩けるようになり、言葉が話せるようになった妹を見てもやはりその感情は続いた。

 心中がモヤッとしていてその正体がわからなくて苛々して仕方がない。それとは裏腹に悲しくなってくる、そんな時もあった。



 妹が産まれた当時、ユーリスという少年はいつもと違うノノアントを気にかけて何があったのか問いたが、妹が産まれたと聞いた少年はノノアントのことをただじっと確かめるように見ていた、良かったねとは最後まで言わずに。


 ユーリス。その少年はノノアントにとって唯一気の許せる存在となりつつあった。

 生い立ちやここにいる理由、全てに関する情報を知らなかったが知ろうともしなかった。少年だけは信じてもいいと思ったから。



 妹が最初に発した言葉は『お姉ちゃん』だった。

「この子があなたのお姉ちゃんよ」「お姉ちゃんに面倒みられて嬉しそうね」「お姉ちゃんのこと好き?」「お姉ちゃん、本当に面倒見が良くて助かるわ」

 数々と母親が妹に発してきたことによるものである。ノノアントとしては「ママ」とか「パパ」とか最初に発するものだと思っていたから意外でしかない。それでも少し嬉しかった、だからーー。

 血筋の繋がらない自分のことより、正式に血筋の繋がりのある親のことを最初に呼ぶようになってほしかった、それが普通であると罪悪感を感じた。


 妹の面倒をよくみてたから捨てられずにすんだ。存在意義はない。生かされてるから生きてるだけ。



「お姉ちゃん。新しい騎士さんだよ」



 透き通った優しい声は風にのって耳にすっと入る。

 わざわざ紹介してくるのは毎度同じこと。今回も来るだろうとは思っていた。

 妹は新しい騎士が来るたびその騎士を連れて紹介してくる。まるでお付き合いご報告のようだ。

 妹の横に立っている人物を見て思う。ああ知ってる、と。


「ずいぶんとひ弱そうな男」

「そうかな。でもこう見えて筋肉とか結構ありそうだよね、騎士さんだし」


 いつまで『お姉ちゃん』を演じ続けるか冷や冷やしたことがある。自分はまともな生活をしていたわけではないのに貴族の子供の面倒がちゃんとみれるのか。自分と同じように育ってしまわないか。

 そんな不安をよそに妹は良き大人へと成長し続け、今でも妹は姉として慕ってくれている。

 だから姉として居続けなければいけない。


 嫌味を言っているというのに隣の男というやつは嫌な顔せず立っている。本当におかしなやつだ。


「よろしくお願いします」


 あくまで初対面を装う。彼にしてはいい判断だと思う。

 妹が成長し、認識や記憶ができるようになる前から彼の姿は見当たらなかった。この屋敷にはすでにいなかったということだろう。

 お互い知り合いだと明かして妹に追求されるようなことにならずにすんだ。

 へたでもして血筋の繋がっていない偽姉と知られたら、妹は、ルナはどんな顔をするか。

 姉と偽ってきた自分を幻滅し冷笑し、そして一切関わろうとしないかもしれない。それが今までの期間の代償としたら納得できる。

 この生活は何不自由なく楽すぎる。

 出てきた食事を食べ気分転換に庭を歩いて疲れては眠る。

 そんな生活はいつか壊れる。わかっている、だから慣れないようにとしているが十年は長すぎた。もっと短い時期に捨てられるだろうと思っていた。こんなにも長く居着いてしまえば少しくらい慣れてしまう。

 でもこれ以上は望まない。後悔しないために。


「アンバスの世話してくる」


 一瞥しては理由をつけてその場から離れた。

 妹の前で羽目を外しているような態度は取れない。




 中庭には大型犬のアンバスがいる。世話をするというより様子を見にきた。

 少ししてから足音がし、アンバスにご飯をやりにやってきた騎士だろうかと振り返ればその者は、今日ここに新しく来た騎士であるユーリス。

 なぜここに、と睨むがユーリスの視線は他にいく。


「アンバスって犬のことだったんだ。かわいいね」


 こんな大型犬のことを可愛いと言うとは。確かに顔は可愛い。


「何も話すことはないわ」


 視線を向けられツンと顔を背ける。これもわざとだ。早々に立ち去ってほしい。

 普通の騎士ならここで無言で退却するところだろう。悪くもないのに詫びの一言を添えて。

 普通の騎士なら。


「僕も。何話していいかわからなくて」

「私はそういう意味で言ったわけじゃない」

「知ってる」


 ずいぶんはっきりと言う。


「だったらなんで来たの」

「妹さんが行ってくればって言ってくれたから」

「ルナが……。妹に何か言ったの?」


 恐る恐る聞くとアンバスを触りながらにユーリスは答えた。ふさふさな毛が揺れている。


「何も」

「だれがなんのタメ新しい騎士に私の元へ行けと言うの?」

 何もなければ妹がそんなこと言うはずがない。

「気になっている視線を向けていたからだと思う」

「はっ?」


 おかしな発言にノノアントまでおかしな声を上げる。これほど不意をつかれたようなことは始めてだ。率直なのは良いが、そうであるべきどころが間違っている。

 十年も会っていなかったがこういうやつだったのかと今更ながら硬いバリケードを築く。

 よくもまあ恥ずかしがらずにそんなことが言える。


「貴方は妹の騎士。騎士が警護対象から無闇に離れることは禁じられている」

「警護対象が離れていいって言ったら離れてもいいんだよ。プライベートもあるから」

「だとしても」

「本当に危ない時は守るよ」


 切実な瞳を見て、よくわからない気持ちが混じる。決して妬いているわけではない。けれど、大切な人がいる人というのは守りたいという気持ちが内にあるのだろう、いいな、とノノアントは微かに思った。


 とりあえず、騎士としての役割はちゃんと備わっているようだ。

 屋敷内で危険な目に合うことはない。だから外出時にさえ付き添っていればいい。

 ルナは小さい頃からよく外に出たがる子だったから両親たちが騎士をつけるようにした。騎士が傍にいる時なら外出していいと。それ以外の時に出れば連れ戻される。

 方向音痴のルナが屋敷に戻るには騎士に見つかるしか方法がないが。


「それならまあ、いいわ」


 その時、誰かのお腹がぐううう~と鳴った。

 朝食を抜いてしまったノノアントは気にしていないふりをする。こちらが気にすれば気をつかわれる、それは嫌だ。

 新しい騎士が来ると知ってそれが誰なのかを知って朝食を取るどころではなくなった。間接的に言えば今目の前にいる人のせい。


「お腹、空いてるの?」

「別に。慣れているから平気」


 口から出任せがでる。前まで多分慣れていたのだろう。慣れていたというより、そうするしかなかったから耐えていただけか。

 何も気にせず聞いてくるユーリスは乙女というものを知らない。


「パン食べる?」


 何やら腰に下げている袋から取り出した小ぶりのパン。そこまで飢え死にしそうではない。


「いらないわ」


 断っているそばから差し出される。


「だからいらない」


 餌ずけされるようである。


「じゃあ半分」

「半分……?」


 ユーリスの分がなくなるとかそういうことを気にしていたわけではないのだが、とりあえず仕方なく受け取った。

 そして凝視し悩んだ結果口にした。


「何も味がしない」

「無味。だけどそれが美味しいんだ」


 不思議。


「舌がおかしいの?」

「そうなのかな。でも本当に美味しいんだ」


 なぜか嬉しそうに笑う。

 おかしいのは頭の方か。

 二度も同じことを言って。

 彼にとってはこのパンは美味しいそうだ。何の味もしない見た目質素なパンを。

 人の好みをどうこう言う趣味はないが。


「これ、犬でも美味しいとは思わないわよ」


 本音が口を滑る。

 珍しく黙るユーリス。どんなことでもポジティブな返しをしてくるものだと思っていた。

 顔を伺えば。


(え? 泣いている?)


 瞳から涙が流れて。悲しげな表情で。

 男のくせに、今は傷つけようとしていたわけではいないのに。


「どうしてここで泣くの。ここで泣くならもっと他に泣くべきところがあったでしょ」


 ここまでたくさん嫌味な言葉を発してきた。ここで泣くなら、傷つくならその時にしてほしい。

 なんだか納得いかない。

 もしかして暴言ダメージが少しずつ蓄積されていったのか。それは目に見えない変化で。塵も積もれば山となる現象が起こったのか。

 山といえば今は噴火状態。


「泣く……? え? あれ? 僕泣いてる?」

「泣いてるわよ。わからないの?」


 とんだ鈍感だ。


「いやなんか嬉しくて」

(嬉しい?)


 対義語だろうか。

 でなければ本当に頭がおかしくなったのか。


「会えて。こうやってまた一緒に食べることができて」


 泣き笑顔。妹が子供の頃によくしていた表情だ。だけど何かが違う。

 ズキッと心が震えた。傷つくことではないのに彼の表情が痛々しく見えて、それでもって幸せそうに見えて。二つの感情が伝わってくる。

 妹の笑顔と違うと思ったのはただの男女の違いなのか。


「一緒に食べてないじゃない」


 一口もかじられていないユーリスのパン。

 馬鹿なの? は控えておいた。

 また泣くのではないかと冷や冷やするのは嫌だから。


 泣き止んだユーリスは笑顔だけを浮かべる。


「でもノノアントがパンを食べるところ、また見られて良かった」


 馬鹿なのではなくて。


(変態なの?)



 子供の頃、一緒にパンを食べた記憶はあるがそれほど大事なことだとは思っていなかった。

 これほど感情豊かな男の子が傍にいたのによく感情を全面に出さずに耐えれていたなとも思った。

 こんな男の子が傍にいれば自分も、と素をだしてもよかったかもしれないのに。




(そういえば素ってなんだろう)


 「本当の自分」がよくわからないノノアントはそんな愚問を抱いた。

 小さい頃から一人で、自分の意思を伝えるということを自然と学んでこなかった。

 何を思っても何が欲しいと願っても心の内に閉じ込めて口にせずただ呆けていた。

 そうするしかなかったから。無駄に動けば体力を使うだけ、いつの日かその体力さえ無駄なものに思えてきたことは今でも覚えている。

 それで、誰かに貰った食べ物を誰かに与えた。

 誰なのかは覚えていない。食べ物も気づけば手元にあったというだけで誰かに貰ったという確証はない。けれど″動いていない自分の手元にあった″というところを考えると誰かに貰ったのだろう。

 哀れみか同情か、そんなものどうでも良かった。もう全てどうでも良かった。


 そんな自分が今でも生きているのは何故だろうか。

 何を意味しているのだろうか。

 神が生きろと告げているのか、それともただ意地悪をしてそれを見て楽しんでいるのか。

 ただ純粋に楽しい人生を歩んでほしいのか。

 だとしてももう遅い。″楽しい人生″などという道を選ぶ岐路からもすでに外れてしまっている。



 ユーリスから貰ったパンは彼の前で完食した。

 途中、欲しそうにしている犬にでもあげようかと思ったがやめておいた。

 またユーリスが、「ボクがあげたパン……」などと泣くのではないかと後々面倒になるのは嫌だったから。それに彼の泣く姿は見たくない。

 誰が男の泣く姿など見たいと思うものか。

 本当のところは、誰かに貰ったものを違う誰かにあげるのは失礼だと単純に思ったから。

 ノノアントが食べるパンを行儀よくお座りし欲しそうに見上げるアンバスに気づいてユーリスは、持っていた半分のパンではなくて袋から取り出した新品のパンをあげた。

 人間よりも犬のほうが優遇されている。と思ったノノアントだが、ユーリスはなぜだか半分のパンを大切そうに持っていた。


 一個丸々あげて残しはしないかと心配したが、アンバスは美味しそうに無味のパンを食べ続けた。

 彼の味覚は犬と同等か。

 でも食べているうちに美味しいと感じるようになったような気がしたのはユーリスには言っていない。

 麦は噛めば噛むほど旨味が出るのか。逆によく噛まなければ味の良さはわからない、そんな深い食べ物なのだろうか。



 それからは彼と話す機会はなかった。

 たびたび廊下で妹に付き添う″妹の騎士″としてのユーリスに会うくらい。

 その視線は、話したい、と言葉通りもの言いたげだった。もちろん気づかないフリをしてさっと視線を外す。その行為を繰り返した。

 少し心の中の余地を見せれば入ってくる、そんなやつだ。わかっているからこそそんな余地は見せない。

 なぜ彼をこんなにも敬遠しているのか。

 別に理由はない。他の者にも、大切なものになろうとしてくる者たちにもしてきたことだ。

 小さい頃の唯一の友達だったとしても、特別扱いする気はない。


 大切なものなんていらない。

 どうせなくなってしまうなら、最初からそんなものいらない。

 悲しい思いをするなら、その元凶をつくらなければいい。

 どうしてわざわざ心を砕く元凶をつくらなければならない? どうしてわざわざ悲しむであろう選択をする?


 人は馬鹿で哀れで無惨にも悲しい。


 そうではない人間もいるのだろう。

 例えば彼、ユーリスとか。

 生きている、それだけで幸せそうだ。




 友好を深めるパーティーというのは表向きの理由として。これは、ルナのいい相手を見つけるためのものだろうとノノアントは思っている。


 いくつかテーブルが置かれている周りに集まる女性たち。皆、ドレスを着付け無駄に小綺麗にしている。それは女性以外にも男性が集まるからだ。


 男目的で来ているということは彼女たちの会話を聞いてわかる。妹の陰口。歳のわりにして幼い、男を見つけるなんてまだ早い、無理などと嫌味に言う彼女たちほど心の幼き者はいないだろう。


「馬鹿なの? それともカバなの?」

「何よ急に。あなた人のことを馬鹿にしたいの」

「馬鹿を馬鹿にして何が悪いんですの。あ、カバさんでしたっけ、見た目がそうですものね」


 目が合うと彼女たちは戸惑い、言い訳を述べようとしていたのでノノアントは突っかかった。

 顔を赤くした真ん中にいた女性はワインが入っているグラスをそのまま投げ飛ばす。

 グラスの割れる音。ワインのかかったドレスは色を染めていく。


「この屋敷のグラスを割ってワインまで無駄にして」

「私を下に見て何がしたいのよ」

「誰かを下に見ている人を下に見たいと思った。それじゃ、理由足らない?」


 自分を見ていない真っ黒な瞳に女性はたじろぐ。

 そこへタイミングが良いのか悪いのか、ユーリスがやってきた。

 妹のことはどうしたかノノアントは聞こうとしたがそれどころではないらしい。

 濡れているドレスを見て慌てた様子を見せる。


「着替えを」

「このくらい大丈夫よ」


 一人で処理できる。





(私がわからない)


 ベッドに座ったまま俯き加減でノノアント考える。

 侮辱しようと思った。けれどあそこまで反応されるとは思っていなかった。

 別に傷つかせてしまったとか気にしているわけではない。

 嫌味なことを一言二言発すれば妹から視点が外れ、姉である自分に降り注いでくると思っていた。それが狙いだ。

 ただああいうことをすればするほど、本当の自分とかけ離れていっているようで訳がわからなくなってきているのだ。


 ーーコンコン


「着替え持ってきたから」


 扉のノック音とともに先ほど仲介に入ったユーリスの声が響く。

 誰かに話したのか。ドレスを持ってきたところをみると誰かに話したのだろう。勝手に女性物の着物など持ってこられない。


 扉を開け受け取ったノノアントはありがとう、と小さく言ってドアを閉めた。


 もう部屋に閉じこもっていようと思っていたのだが、ここまでされてはそうはいかないだろう。

 自分に関係のない集まり会。そこで精神を使い心を砕くのは不愉快だ。妹のためなら何でもする、といってもできるわけではない。


 仕方なく、ワインのかかったドレスを脱いで渡されたドレスに着替える。

 だが、後ろのチャックがしまらない。


(こんな時に関節のかたさが)


 右手に力を入れ、引き上げようと必死にやるもしまらない。

 疲れて脱力する。


 扉の前まで行き少し開けるとそこには横向きに立っているユーリスがいた。

 まだ戻っていなかったのか。

 ふと目が合うと瞳がどうしたのかと問う。


「少しお願いしたいことがあるのだけど。……やっぱいいわ、会場にはもう行かない」

「どうして。僕にお願いごとって?」

「もういいわ」


 よくよく考えてみれば、背中のチャックをしめてもらうくらいなら強制されている会場に出ない方がいい。

 あとで何か言われるだろう。気づかれなければいい。

 扉を閉めようとするとユーリスは食い入るようにそれを止めた。


「待って。僕にお願いごとって何? それすれば会場に出られるの?」

「だからいいって言ってるの。一人で会場に行って」

「個人的にしたいんだけど……」


 あなた、してほしいこと知ってるの?

 疑ってみたが、善人すぎる彼がそんなことをしたいと思うはすがない。

 ノノアントは改まる。


「……チャック、しめてほしいの」

「え?」

「後ろのチャック、このドレスのチャックしまらないの」


 吹っ切れたように全てを話した。


 関節のかたさをうらむ。

 手が届かないわけではないが力が足りないのかチャックが上まで上がらない。


 部屋にいれると背中を向けた。


「あ、えーと、やってもいいのかな」

「やってくれるって言ったから任せることにしたんだけど」

「じゃあやるね……って、なにこれかたいんだけど、何か組い込んでいるってわけじゃないのに」

「ちょっと大丈夫?」


 関節がかたかったわけじゃないのか。

 悪かったのはチャックの不備。


「なんとかいけそうでもない」

「それいけないってことじゃない?」

「あ、いけた!」


 ものすごい音がした。

 気にしないようにしようとも思ったが。


「これあとで脱ぐ時大丈夫かしら」

「大丈夫だよ。たぶん」


 これだけ強く上に引いてしまって。おろす時は一層かたくなっていて大変そうだ。


「じゃあ会場に行こう」


 利益なんてないのに、彼は構う。




 会場へと戻ってきた。

 やはりこれはおかしい。ユーリスが傍にいるというこの状態は。

 人が多いこの中に妹はいるのだろう。こんな時、警護対象に付き添い守るのが騎士だ。


「妹のところに行って。早く」


 言ってもなかなか行かないユーリスに苛立ちを覚えはじめる。


「あなたは妹の騎士でしょ? その役目も果たせないの?」


 ツンとした態度を取れば、素直にいうことをきいた。

 思考しているような彼の目は何を考えているかわからなかった。


 そこへ。


「似てないな」


 凛とした声が空気を裂いた。


 振り返ってみればそこには見覚えのない男。


「妹であるルナ殿と姉である貴女の類似点が全く見当たらない」


 ノノアントは黒髪、妹は金髪。容姿からしてどう見ても似ていない。

 性格は断然妹の方がいい。


「俺は姉の方が好みだ」


 好意の眼差しを受けてもノノアントは表情ひとつ変えない。それどころか。


「私は貴族の血筋が繋がっていない人間。だからこのアビンス家には姉も妹もいない。貴族の子を婚約者として迎えたいなら、アビンス家後継者ルナの元へどうぞ」


 何を思ったか表沙汰にしていないことを告げた。

 こういう者の対処法ならすでに用意済みだ。

 貴族の血筋が繋がっていない人間といえばそれ以上は何も言わず、関わってこなくなる。


「おもしろい。お前をものにしたくなった」


 だというのにこの男は。

 廊下に出て気を抜いた瞬間、追ってきていた男がドレスのチャックを下ろそうとした。だが背中のチャックはいっこうに下がらず。手間だけを取る。


「なんだこれ。まさかの不良品?」


 試行しているが中々おりない。

 このドレスが不良品であることに初めてノノアントは良かったと思った。

 不良品でなければ今頃背中全開だ。


「貴族殿。あなたは一体何をしようとしたんでしょう。返答次第で対応はお変わりしますが」

「襲おうとした」

「馬鹿なの? アホなの? それともカバなの? どれにも当てはまると思うけど、そんなこと言って嫌われたいの?」


 ノノアントの豹変ぶりに男は瞬く。

 けれどそれは素を見せてくれる兆候だろうと男は調子づく。


「ノノアント殿、こんな時にご冗談を言えるとは」

「あなた自体が冗談の塊だわ。お前をものにしたくなった? 襲おうとした? 自分がその口にしたセリフ、恥ずかしいと少しは思わない?」

「……ノノアント殿にそう言われると不思議とそんなような気がしてきた」

「でしょうね。恥ずかしいもの以外の何ものでもないもの」


 勝ち誇ったように嘲笑いすることもなく、ノノアントは冷めた表情で興味なさげに吐いた。視界に映すのは男ではなく横の壁。

 一枚壁を張った微かな笑みでも見たかった。どうすれば黒い花はその蕾を見せてくれるのか。

 容易ではないと男はノノアントを見透かそうと観察する目を一層鋭くする。


「ノノアント殿はなかなか手厳しい」

「耳障りだわ」


 ここまで言えば離れるだろう。そんな安易な考えは今まで寄ってきた男たちが単に引き際が良かったからなのか。


「早く立ち去って。そしてもう二度と現れないで」

「ノノアント殿はいつもそうやって誰かを突き離しておられるのかな」


 不覚にもノノアントはどきっとした。

 もう二度と前に現れてほしくないのは妹の本当の姉ではないとバラした相手だから。

 突き放すという行為は相手に勘付かれても、他の者たちにもそうやっているのだろうと問われることはなかった。


 妹の本当の姉ではないということを暴露しても、妹にまでその話はなぜか伝わらない。

 大事なことだから喋らずにいるのか、もう妹はそのことを知っていると思っているのか、それとも本当の姉でなくても妹にとってなんの損傷もないことだろうと話さずにいるのか。

 それならこちらとしても幸いだが。

 簡単に暴露しているのにも理由がある。


「質問の仕方が悪かった。いつも俺のような存在にわざとそういう嫌な面を見せているのか。……いや演技か。わざと嫌な言動をしているのは演技だろう?」


 洞察力は良い。

 あの場面を目撃でもしていたのか。グラスを投げ飛ばしてきた女性との対話を。


「どうでもいいわ。何がばれたって、これが私なのに変わりはない」


 相手に見えている『私』、相手が見ている『私』。全ての言動は『私』がしたことに変わりない。


「もっと興味が湧いたと言ったら怒るか?」

「冗談の塊に何を言われても何も感じない」

「ご冗談がきつい。さすが冷淡たる眼差しの令嬢」

「なによそれ」


 さりげなく、恥ずかしい異名を言われた。


「結構噂になっている。一部の者から聞いたが他に……氷結の女、とかもあった」


 他人にそんな目で見られていたのか、と意表を突かれたノノアントは考えを巡らす。

 普通の者にはちゃんと普通に接してきた。そのはずなに氷結なんて言われて。

 普通が冷たすぎたのか。

 冷淡とは人間味に欠けるということだ。

 そんなに自分の瞳に感情が宿っていないのだろうか。


 動揺を露わにしていたノノアントは納得したように視線を落とす。


(……無理もない、か)


 人の愛情も何もない環境下で育った。そんな者の瞳に感情が宿るなんてことはないのだ。

 万が一、そんな環境下で育った者の瞳に感情が宿ったとしたら奇跡か、その者の努力か性分かのどれか一つ。


「ノノアント殿はどんな生い立ちをしておられるのですか」

「それを知って、弱味でも握ろうっていうの?」

「話を聞いて握れるものなら握りたい」


 隠さない人。だけど本当のこころは隠している。

 ユーリスとは違う。率直なことを言うところは同じだが、根本的に違う。

 ユーリスは思っていることを何も考えずに口にする。この男は、口にするセリフを瞬時に選び判断し、相手の様子を窺う素振りを見せている。

 その微笑みも偽りにすぎない。


 偽りなんていらない。

 偽りのよくできた男でも興味ないのだから。


「関係ない。あなたには関係ないわ」


 偽装した者に誰が自分の本当のことを打ち明けるのか。


 踵を返し、廊下を歩く。


「誰か一人にでも話したら気が楽になりますよ」

「無意味な追求はお控えいただきたく存じます」


 心打ち明けられる者だったとしても、一生弱音は吐かない。

 距離を保って突き放して、そして誰も寄せ付けない。

 それが今まで自分を保ってきたやり方。




 少し歩いたところで何かを見ている少年が目に入った。

 気配に気づくと少年はこちらを向く。


「道、教えて」


 ずいぶんと雰囲気がほんわりとしている。


「あちらに行けば会場につくかと」

「ありがとう」


 子供っぽくもあり、大人な印象を持ち合わせる少年か。

 歳は近いかもしれない。

 彼はアンバスと睨み合いっこをして一体何がしたかったのか。


 少年を見送ってからアンバスを見下ろす。

 お行儀よくお座りして、よく目を見ている。

 動物の心情はわからない。アンバスはなぜ彼と睨み合いっこをしていのか。


 初対面だろうに。さすが懐きやすい犬。


 休憩も兼ねて中庭へと進んだ。

 なぜかついてくるアンバス。足を止めると前へ回り込みお座りをする。

 これは何かを求めている時の行動。

 おもちゃがないところを見るとお遊びというわけではない。


「何か欲しいの? もうご飯は貰ったでしょ?」


 お昼時、犬もお腹は空く。

 パーティーがあってご飯を後回しにされたのか、それだったら可哀想に。できることは何もない。会場に出してある食べものでも渡してあげることはできるが、食べるだろうか。


 何かに気を取られたアンバスは、わんっと吠え後ろに行った。とことこと歩いて行く先には誰かがいて、ちゃんと顔を見ればそれはユーリスで、なんで? とノノアントは不思議な顔をする。


「おやつ、あげに来た」

「おやつ?」


 いつかの日と同じよう腰に下げている袋からパンを取り出し、それをアンバスへと差し出す。アンバスは躊躇なく食べ出した。


「アンバス、それが好きなの?」

「あの時あげてから懐くようになって、それから毎日あげてる」


 食べ慣れているだけあっていい食べっぷりだ。

 いつもユーリスの手の上で食べているのだろうか。


「嫌な気分にならない? 犬に自分の好物あげてるって」

「ならないよ。思い出の味を誰かに食べてもらうのは嫌な気分じゃない」


 あまり味がしないのだがユーリスはこのパンが好きだという。アンバスもその仲間となった。


「そのパンにそんなに思い入れがあるのね」

「あるよ。とても大事な記憶も」


 何やら意味深な言い回し。


「あなたの言ってること、時々わからない」

「わからない、か。うん、そうだよね。君はわかってない」


 噛みしめるように口にする。

 その表情はどこか新鮮で。というのも穏やかな表情をしているのに声質は悲しい。

 彼の感情が本当にわからない。


 ちょうどアンバスがパンを食べ終わり、それを見ながら話していたユーリスはノノアントのことを見上げる。


「わかっていないってことも、わかっていないよね?」


 癇に障る言い方だ。

 ノノアントが訝しげに見るとそれをユーリスは肯定ととったようだ、悲しげにする。


「いいんだ。それでもあのとき僕の心は、僕の中に残ってる」


 わからないことが悔しい。

 よくわからないが、そう思った。


「私は何がわかっていないの」


 彼は苦笑するだけで、答えてはくれなかった。




「あげる」


 路上にいた男の子の前に一つのパンが差し出された。

 驚いた男の子ははっとしてから、いいの? と問うと、女の子は頷く。

 素直に受け取ると女の子が立ち去ろうとするので、男の子は反射的に女の子の手を取り「まって」と呼び止めた。


 「なあに?」と今度は女の子に問われる。


 パンをくれると言われ渡されたがまさか丸々一個だとは思わなかった。

 女の子の容姿を見る限り自分と同じ「一人で生きている子」だった。だから、パンを分けてくれる自体おかしなことで。


 手元にあるパンを差し出し返した。


「なんで? いらないの?」

「……一緒に食べよう」


 真っ黒な瞳はもう『生』を宿していなかった。

 自分はこんなにも生きようと必死なのに目の前の女の子は……と男の子は怖くなった。

 無理な言い分かと思ったが、了承してくれた女の子と隣合って半分に割ったパンを食べた。


「どうして僕にパンをくれたの?」

「……なんとなく。目に入ったから」


 横に目をやると女の子はどこか真っ直ぐを見て両手でパンを食べている。

 不思議な女の子だと思った。

 寄せ付けない空気を持ち合わせながらどこか人を引き付けるものを持っている。

 実際、男の子は女の子とどうすれば仲良くなれるか思考していた。


 ーーもっと話したい。


 男の子の心の中に強く浮かぶ。

 初めて同じくらいの歳の子に会ったからかもしれない。このまま時間が止まってしまえばいいのにと思った。

 空腹を知らずに彼女と話を、できるなら永遠(ずっと)。


「君の名前は?」

「ノノアント」

「いい名前だね。僕はユーリス」


 自己紹介が済んでしまえば、あとに話題がなかった。

 ーー会話が続かない。だけどもっと話したい。


「……今日はいい天気だね!」

「そう? 雨降りそうだけど」


 見上げると確かに曇り空で、恥ずかしい失言をしてしまったと思った。けれど。


「でも僕には今日が輝いているようにみえるよ」


 本当に輝いているようだった。



 その後、雨が降り、屋根のあるところに移動しようと二人で路地裏から移動した。

 パンを一緒に食べていた時のように隣り合って座れば、そこだけ暖かいように感じた。


 雨が何かに遮られる音に目を開け、上を見るとそこには赤い傘をさした女性がいた。


 男の子に声をかけると今度は女の子に喋りかけた。でも女の子は一切反応を示さない。

 心配して横を見ると、まるで何も聞こえていない彼女のことなんか見えていないかのように真っ黒な瞳でただ一点を見ているだけで。


 女性は困ったかのように笑う。


 膝を曲げ女の子の目の前で笑顔で話しかけると、そこでやっと女の子は微かに瞳を揺らし女性の存在を確認したようだった。

 それからは女の子は女性のことを見続け、男の子は喋りかけられたら答えるということを繰り返し。


 気づけば二人とも車に乗せられ、降りたところは大きな屋敷だった。そこで二人は別れることになった。


 お風呂に入れられ綺麗な衣服を着せられた男の子は部屋へ案内され、その部屋にはあの女の子がいた。近くにいってみるとその女の子の美しさに驚いた。

 艶のある綺麗な黒い髪、きめの細かい白い肌、動かずに一点を見つめている姿はまるでお人形さんだった。

 部屋に入ってきた時に大きなお人形があると勘違いしたほどだ。


 名前を呼ぶと、女の子は男の子の姿を目に止めた。

 もう一度名前を呼び話を続ける男の子。不確かだったが現状に興奮を覚えていた。

 喋り続ける男の子の話をただ聞く女の子。


「ノノアントちゃんは、どう思う?」


 そう聞いても女の子の反応は薄かった。


 「ノノアントちゃん?」と首を傾げる。

 やはり反応はない。


 まるで、その時初めて会ったかのような感覚だった。




 どこかでばれたくないと思う一心、ばれてラクになりたいと望む自分がいた。


 成人となった妹に「本当の姉」はいないと告げられることになった。

 このまま真実を知らないまま大人へと成長し、いつか知ってしまう日がくるなら今日がいいだろうという父親の考えだ。


 確かにいい考えだと思った。

 それと同時に思うことがあった。


 この屋敷を出る。


 そう言うとルナの父親は表情を変えなかった。代わりに母親が驚愕の顔をしノノアントに詰め寄った。


『どうして? あなたが本当の姉ではなくて、私たちの家族ではないから?

 そんなの関係ない。この十年以上もの間一緒に暮らしてきたでしょ。もう「あの時」から私たちは正真正銘の家族なのよ』


 本当の家族かどうか、そんなものどうだっていい。

 そう思ってしまうのは心が黒いからなのか。

 彼女の言葉に感激することもなく、冷静に返しを考えられてしまうのは心がないからなのか。


『もう私も立派な大人です。ここでお世話になるより外に出て、自分の人生を歩みたいと前から思っていました。

 だから今がその時なんです。妹の世話も終わりました。もう何もすることはありません』


 前から思っていたことだ。


 ルナの母親があんなにも想ってくれていたという事実は受け取めることができなかった。

 大事に想うのは本当の娘だけでいい。

 養子にまで同じほどの愛情が与えられるというのは、血筋の繋がる子供に悪い。



 身支度をしなくてはいけないとよくよく考えてみたら、この屋敷から持っていくものは何もなかった。

 部屋にはベッドやデスクなど高価そうな家具が置いてあるが、どれも必要がないと見なした。

 自分に必要なものはここにはなかったのだ。


 廊下で妹に会うと、ルナは暗く切ない顔をしていた。話を全て聞いたのだろう。


 「本人」の口からも告げる必要がある。


「私はあなたと血が繋がっていない」

「だとしてもお姉ちゃんは、私のただ一人のお姉ちゃんだよ」

「偽物の、ね」


 子宝に恵まれないアビンス家には子供一人産まれたというだけで奇跡だった。その子供がルナ。

 ルナが産まれる前に養子として引き取られたノノアントは姉となり、十六年もの間ルナを見守ってきた。姉として。

 そう十六年間も偽ってきた。


「……お姉ちゃんのこと好きだよ。今までもずっと大好きだったよ。なのにお姉ちゃんは私のこと、本当の妹じゃないってどこか一線をおいていたの?」


 沈黙の肯定をすると、ルナは続ける。


「だからこの屋敷から出て行っちゃうの? 私に、私の本当の姉じゃないってバレたから。もうここにはいられないって」


 ルナはどこまでも心の優しい妹だ。

 そんなルナを納得させるためには、残酷にも″ここ″を否定するしかない。


「ずっと前からここから出たかった。あなたが産まれる前から。あなたが産まれた後にはその気持ちが一層高まった」


 どうせ捨てられるなら早くがいい、と。


「私には好きな人なんていない。心を許せる者も愚痴をはける者もここにはいなかった」


 確かに姉は愚痴をはいたり弱音をはいたりしたことが一度もない。

 姉と妹とという立場で、ノノアントの一番近い存在であるルナには思い当たる場面がなかった。


「ここには私が必要とするものがない。だから私はここを出て行く」


 ″妹は大事ではない″と遠回りに言っているようで妹の耳に痛かった。心も、ズキッと痛んだ。


「私が捌け口になるから、心を許してもらえるような人になるから、だからそんなこと言わないで」

「あなたの面倒をみ終えてから出て行く予定だった。み終えてからすでに十年以上経つ。もう十分」


 用済みとなり、捨てられる予定だった。捨てられると覚悟してから何日経ってもその気持ちは拭えなかった。

 ずっと心構えしたまま、疲れて。それでも心構えするのをやめず、公開処刑をされるように心を砕いていった。


 黒く陰る顔は、悲しくも傷ついた、ルナが初めて見たノノアントの表情だった。


「……お姉ちゃん」


 もう呼べない気がして、『妹』としてルナは呼んだ。


「私はあなたの姉ではもうないわ」


 けれどノノアントは、『姉』としてではなく他人としての言葉を貫いた。

 最後の姉としての言葉はでなかった。




 雨が降っている。正確には少し前に降ってきた。

 アンバスにも別れを告げようと中庭に来たが雨が降っていてはあの元気なアンバスも外出はしないかと頭が冷えてわかった。


「ここを出て行くって本当?」


 背後から聞こえた声。この声は知っている。


「どこへ行くの?」

「あなたには関係ない」

「関係あるから僕は聞いてる」


 振り向かずに答えるとユーリスは前にきた。

 そして俯きぎみなノノアントの顔を覗く。


「どうしてそんな顔をしているの」

「本当の自分がなんなのかわからない。だからこうして口調さえ定まらない」


 これまでアビンス家の娘、ルナの姉を演じ続けてきて、どれが本当の自分なのかわからなかった。

 どちらからも解放された今、ユーリスともどう話せばいいか悩んでいる。

 会話を交わすのもこれが最後だと思ったから、たまには偽りないことを話すのも良いと思った。それなのに。

 本当の自分なんてどこにもいなかったのかもしれない。


「それが君……なんだね。どんな相手でもどんな状況でもその場に合わせることのできる器用な人間。だから、器用すぎてわからなくなってるんだ」

「馬鹿じゃないの。あなた馬鹿なんだわ。私は器用なんかじゃない。こうして喋り方にさえ困っているのに」

「だったら不器用でいい。俺が補うから」

「俺……?」

「僕も実はよくわかっていない。けど、全部『自分』だから迷わずにいれる」


 偽物の自分なんていない。

 偽物の感情なんてない。


 本当を求めるとそれを忘れてしまうかもしれない。疑心暗鬼に駆られて逆に偽物を求めてしまっている。

 それは知らぬうちのことで誰かそれに気づかせてあげないといけない。

 誰にでもあることだ。本当の自分を追求して本当の自分さえ別モノとして扱ってしまう。


 本当を求めているのも本当の自分。

 ややこしそうで簡単な答え。

 簡単だからそれは違うと無意識にはねのけてしまっている。

 全て自分。

 認めるのは難しい。

 認めれば嫌な自分も全部本当の自分として認めらなければならないから。

 でもそれが酷でも自分を疑うより良い。


「似た者同士ね。第一人称が変わるとか煩わしいわ」


 ユーリスはひとつ嘘をついた。

 それをノノアントが見抜いたかはーー。


「小さい頃からの縁。だからこれからもずっと大切にしたいと思ってる。

 パンをくれた日のこと覚えてる?

 路地裏で、君は僕を救ってくれた」


 いつか話したけれどノノアントは何もわかっていなさそうだった。何も感じていなかったのだと勘違いしたけれど本当は何も覚えていなかったのではないか。

 ユーリスは確信したかった。




「あげる」



 女の子は路上にいた少年にパンを差し出した。

 不意打ちをくらったように驚いた少年は差し出されたパンを見てから女の子を見、いいの? と問う。

 女の子は肯定するかわりにずいっと顔の前までやってきたので少年はそれとなくそれを受け取った。


 手元に収まったパンを見ている少年。女の子が立ち去ろうとすると少年は何を思ってかとっさに手首を掴み「まって」と呼び止める。


 何用かと女の子が不思議に思いながらも次の言葉を待っていると、少年はなぜか渡したパンの半分をちぎって差し出し返してきた。

 女の子には考えられない行動だった。


「なんで? いらないの?」

「……一緒に食べよう」


 ーーもう生きていたって仕方がない。だったら明日へ繋げるこれを誰かに差し渡そう。

 そう思って丸々渡したのに。

 女の子は少年の懇願を受け取り、隣合って半分のパンを食べた。


「どうして僕にパンをくれたの?」

「……なんとなく。目に入ったから」


 近くに人がいても、女の子の瞳に誰かが映ることはなかった。

 パンを貰ったときだって、女の子の瞳には人は映っておらず、女の子にはパンだけが見えていた。


 気づいたら手元にあったパンを見て、″もういいや″って思った。

 こんなパン一つがあって喜んで、なくて苦しんで。

 簡単に苦しめるこの世界で生きている意味が果たしてあるのか。もしかしたら″終わらせてしまったほう″が楽なのではないか。


 だったら誰かにこの生命の手綱となるであろうものを渡そう、と路地裏を歩き人を探したが女の子の瞳に人が映ることはなかった。

 自分と同じ人はたくさんいると信じていたのに。

 けれどなぜか少年だけは違った。瞳にちゃんと″映った″のだ。


「君の名前は?」

「ノノアント」

「いい名前だね。僕はユーリス」


 取り留めもない話が始まった。

 名前はなぜかどちらも覚えていて、そのことについて疑問を抱くことはなかった。


「……今日はいい天気だね!」

「そう? 雨降りそうだけど」


 曇り空で今にも降りそうな雨。それは女の子の心情を表しているようで。


「でも僕には今日が輝いているようにみえるよ」


 少年の言葉は女の子には意味がわからなかった。

 違う。わからないふりをして、早く人生を終わらせたかった。


 その後、雨が降ってきて雨宿りできる場所に移動してそこで女の子はとある女性にあって車で屋敷に連れられて。


 お風呂に入れられ綺麗な着物を着せられ部屋に案内され。少ししてある男の子が部屋に入ってきて、その男の子は嬉しそうに話しかけてきた。


 ーーノノアント。


 男の子がなぜ自分の名前を知っているかわからなかった。

 初対面の綺麗な金髪の男の子がなぜ自分の名前を知っているのか。




「でもあの時の男の子はそんな綺麗な金髪じゃなかった」

「ちょっと薄汚れてたからね」


 ノノアントの″綺麗な金髪″発言にちょっと照れくさそうにユーリスは笑う。


 あの時の男の子の名前をノノアントは記憶に留めていなかった。

 屋敷でユーリスと会った時もそれがノノアントにとって初対面で、もしあの時、男の子の名前を覚えていたとしてもユーリスがあの男の子だとは繋がらなかった。


 だからいろいろと幼い頃からすれ違いがあったのかもしれない。最近のことだとパンの件。何がそんなに思いれ深いのかと不思議に思ったものだ。


 思い出してみれば納得がいく。


(確かにいえるのは、あの時、ユーリスは私を救ってくれた)


 ーー『でも僕には今日が輝いているようにみえるよ』

 もう終わらせようとしていたのに、偶然出会ったユーリスがそれをとどまらせた。

 おかしな発言だったけれど心からの言葉だということが伝わってなんだか彼の傍にいれば自分も世界がいつかそう見えるのではないかと期待した。



 ユーリスに今までずっと疑問に思っていたことを聞くと、騎士の訓練を受けたのは十年後ーーノノアントが大人になった時″外へ出る″と言うのではないかと心配になったからだという。

『自分はこんなんじゃ一緒について行っても下手したら足枷になるだけ』『力をつけていつでも職につけるような男にならないと彼女について行けない』と思い、騎士の訓練所に行きたいとルナの両親に話し行かせてもらったと。


 伝えなかったのは驚かせたかったから。のと、少し距離をとった方がいいと思ったから。の二つらしい。



 ノノアントの瞳はユーリスを映していたが、完全には映していなかった。

 自分が大人になって瞳に完全に映るような存在になってできるなら唯一の存在になりたい。

 全てをわかってあげられて包み込めるようなそんな大人に……。


 その願望がユーリスを成長させた。

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