第48話 引き止める ●


神も仏も信じてはいません。いわゆる無神論者です。

その代わりと言ってはなんですが、魂と月は信じています。

そんなこと言うとスピリチュアルな人間と思われて引かれそうでアレなんですが、もちろん霊感とかそういうものにはご縁はありません。どちらかというと鈍感なんじゃないでしょうか。少なくとも自分ではそう思っています。


魂、っていうとヤバそうですけど、付喪神とか地霊とか、あとはひとがひとを想う気持ち、って言い換えると少しはソフトに受け止めてもらえるでしょうか。

実際のところ、多少長く生きていると、鈍感でもそれなりの経験は見聞きするものです。


ママ友の話をしましょうか。

彼女はお連れ合いのお義母さんと子供ふたりの5人で暮らしていたのですが、10年ほど前にお義母さんが亡くなられました。しばらくして後の始末や何やかやでお連れ合いの弟さんが泊まりに来た時のこと。お義母さんの部屋の電気が夜、突然点滅を繰り返したのだそうです。すぐに収まったそうですが、それを見た彼女、「ああ、お義母さんったら喜んじゃって、まあ」と思ったのだとか。というのもそのお義母さん、弟さんのことをとても可愛がっていて、生前、弟さんが来るとそれはそれは喜んでいたのだそうです。

仲間内の飲み会で、テーブルの端っこでお互いの近況をこっそり知らせ合った時に「こんなことが2、3回あったよ」としてくれた話なんですが、彼女、これで脳外科のオペ担当の看護師なんですよ。しかも前職がITエンジニアっていう変わり種。ふたりで飲みに行ったこともあるんですが、「脳はいいよー。本体と違って贅肉ついてないからねー。きれいなもんです」なんて言いながら笑ってホルモン焼いて食べるようなひとです。そういうひとが酒を片手に淡々とお義母さんの話をするのを聞いていて、その時はちょっと目に汗をかいてしまいました。あれは多分アルコールのせいでしたね。


今日の私の話です。

来週末くらいまでに済ませればいい用事のために、無理やり出かけました。外の風に思いっきり当たりたかったからです。時間的に無理してるだけでなく、何かが引き止めているような気配もたしかに感じてて、それでも、えいやっと出かけました。

そうしたところ、家からものの2、3分ほどの下り坂で、首のスカーフが解けてしまいました。あんまり急な坂道なので、下りきったところで自転車を止めてからスカーフを見ると。チェーンの辺りに先が引っかかっていたので、慌てて外したんですが。

油がべとっと、そして1cmくらいの綻びが3箇所もできているではないですか。


ああ、またか、って思いました。やっぱり止めに入ってくれてるんだな、と。

この家に越してきてから、家を出てすぐの辺りで引き止められたと感じるようなことが何度かありました。それを振り切って出かけるとひどい目に遭うんです。なので今日は、心の中で「無理しませんから」ってひと言言って頭を下げて、外したスカーフを前のカゴに突っ込んで、それから再び自転車を走らせました。

そうして用事を済ませると、本屋と、コーヒー豆と、食料品。それで終了にしておきました。


今日のスカーフ、今年買ったばかりで、それもケチな私にしてはかなり頑張って買ったものでした。その分かなりお気に入りで、それこそこの夏のお出かけに2回に1回は出動してたんじゃないかと思うくらいの登板回数。勝利の方程式って呼びたいくらいです。

それでも。

どんなに酷い汚れでも、洗えば大方きれいになるでしょう。ほつれもこの程度なら、仕事が雑な私が繕っても巻いてる分にはまず気づかれないでしょう。その程度のことで済むなら、「ありがとう、気持ちは受け取ったから、気をつけるから、あとはちゃんと見守ってて」。今日はそういう気持ちでした。

今日は、今日だけは、本屋に行って、紙の本に触って、紙の本をこの目で見て、買いたかったんです。



お目当ての本がありました。今日発売の、昨日までカクヨムで読めていたお話。店頭で見つけ出せなくて(敢えて検索はかけませんでした。出会えなければまた次の機会に、と思っていたので)、結局違う本を一冊買って帰りました。

このあとコーヒー片手にゆっくり眺めようと思っています。



引き止めてくれるひとが今回もいたのに、それでも今日、行ってしまったひとがいました。私にはもうかける言葉が見つけられなかったし、何か言葉をかけたとしてもきちんと届けられたかどうか今回は自信がありませんでした。

引き止められたと分かっていても無理やり出かけてしまい、ちょいと残念な思いをした私みたいなやつもいます。駄賃を払っただけと諦めているから、これはこれで仕方がありません。何事もなかったので、止めてくれた何かには感謝していますけれど。


悔しいのは、引き止めるひとが山のようにいて、引き止めるたくさんの手をしっかりと握っているのに、それでもさらおうとする波がどんどん強くなっていく夏の海。

そうして、「行かないで」、そう言い続けることがいいことなのかどうかも今の私は見失っています。

して後悔するのとしないで後悔するのと、どちらを選ぶかと問われれば、して後悔する、って思っているのがふだんの私なのに。

ただ。

言わぬは言うに勝る、それもたしかだと知っているから。

言われることが辛いこともある、そんな辛さも知っているつもりだから。




引き止めたくて、

引き止められなくて、

でも、引き止めたい。






すっかり日暮れた帰り道、夜空に細い月がかかっていました。

昨日が三日月だったのですね。

虫の音が聴こえてきて、夏が行ってしまったことにようやく気がつきました。

心の中で月に手を合わせ、ペダルを思いっきり踏み込みました。

スカーフの端を解けないよう、しっかり結いて。


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