第24話 空色の家 ●



2階のトイレの窓からは西の空が見える。

空の下には、空色の家が建っている。

その家に、女傑とその夫が2人で住んでいる。


彼女を何で「女傑」と心の中で呼ぶかというと、上半身白の肌着一枚でふらふらと家の周りを歩いているような田舎のオジイサン、たまにいるでしょう、あんな格好で家先に出ているから。

初めて彼女のその格好を見た時、私は目を疑った。だって男の人では見たことあっても、女性でそんな格好で家先とはいえ、外に出ている方って初めてだったから。

彼女は恥ずかしがる様子なんて全くなくて、本当に当たり前って顔をして、上が白のタンクトップのようなもの一枚、下がスウェットパンツ、って出で立ちでそこら辺を歩いていたのだった。

それ、私的には完全にNG。男性でもオジイサンなら、まあ、仕方ないのかなあ、でも身近にそういうひとがいなかったせいで、やはり目のやり場に困る。ましてそれが女性なら、もうどうしていいか分からない。それで、以後、彼女は私の中で「女傑」と相成ったと、こういう訳だ。



今の家に越して来た時分は、一本向こうの私道に面した空色の家と我が家との間には家一軒分の区画の駐車場があったので、その駐車場を突っ切っればわざわざぐるりと回って来なくてもすぐに行き来ができた。

越して来てすぐ、彼女は駐車場から我が家を覗き込んで、庭に出ていた私に話かけてきた。

「あんたの所、何人家族?」

「息子2人の4人です」

「ふぅん。それにしちゃ家の方が広いよね」

「ああ、うち、ものが多いので」

「へぇ」

放っておけば、すぐにでも庭に入ってきそうな勢いだったので、

「まだ片付けがたくさんあって」

とか何とか言って頭だけ軽く下げ、失礼を承知でさっさと家の中に撤収した。


翌年、町内会の班で、回り持ちの委員を務めなければならない年に当たった我が家。

最初の会合に顔を出すと、女傑がでん、と大勢の前に鎮座していた。もちろんその時は真っ当な服装である。

聞けば彼女は長年、この町内会の会計を務めているそうで、加えて彼女の夫は別の役員を務めている。夫婦で町内会の顔役なのであった。


それから一年間、不慣れながらも町内会のお手伝いをし、何とか任務を果たし終えて、やれやれと思っていたある日。2階のベランダで洗濯物を干していると、空色の家の前に女傑が立っていて、おーい、とどこかに向かって叫んでいる。

誰に何を叫んでいるのやら、と思いながら干し続ける私に、

「あんた。そこで洗濯物を干しているあんた」

どうやら女傑は私に向かって叫んでいたらしい。驚いて自分の顔を指差して、「え? 私?」と確認すると、「さっきからそう言ってるだろ」と言いながら、すぐ下まで来て、「この後、少し、話、できるかい?」と聞くものだから、いやとは言えず「ええ、まあ」と答えると、「じゃ、干し終わったらそっち行くよ」と言って引っ込んだ。

「なんだろう?」

怪訝に思いながら干し終えると、すぐに玄関のインターホンが鳴った。

気の早い女傑だった。

ドアを開けると「悪いね」と言いながら、悪びれる風もなく女傑が私と家を舐め回すようにジロジロと見回した。

「何ですか?」

あまりに不躾な視線にうんざりしながら尋ねると、

「あんたさ、町内会の役員、やんない?」

突然の話に、私は絶句した。

「な、なななんですかソレ」

「いや、このご時勢、役員のなり手がいなくてね。去年、あんた楽しそうに班の委員やってたから、向いてるんじゃないかと思ってさ」

「お断りしますっ」

つい、ムキになってしまった。

「今、息子の高校の役員も受けてしまってますし、そもそも越して来てまだほんの数年。そんなウチよりもっと長く住んでいて、やるべき方がいくらでもいらっしゃるはずです」

前年の班の委員を務めている時、長く住んでいてウルサイことを言う割には手伝いなどからは逃げて回るおばさま方がたくさんいるのを見聞きし、うんざりしていた。女傑の話を聞いてすぐ、そんなおばさま方の顔が目に浮かんだ。

そのせいで、つい強い口調でできないことを言い立ててしまった私に、女傑は苦笑いを浮かべると、

「仕方ないな、分かった分かった」

あっさり矛を収めて帰っていった。

それから幾度、顔を見かけても、その件は一切、彼女の口にのぼることはなかった。



女傑は去年だったか、もう年だからと言って、夫共々町内会役員を降りた。ただし、それからも元気そうに相変わらずの格好で家の回りを歩いていた。

彼女が役員を降りるよりも前に、件の駐車場には家が建ち、ショートカットの行き来はできないようになっていた。もちろん行き来する理由がないので、それで困ることは全く、ない。女傑とはろくに話もしないまま、時が過ぎた。


直接、話こそしないが、実は私は密かに心の中で勝手に女傑に語りかけていた。

なぜか。

2階のトイレの窓から見える彼女の家。

その、ちょうど2階、こちら側に面した部屋が女傑の部屋で。

女傑はなかなかの夜更しさんであり、かつテレビっ子らしかった。

深夜、私がカクヨム内を彷徨っていて、その合間にトイレ休憩に立つと、必ずと言っていいほど彼女の部屋からテレビの明かりが眩しく光って見えている。彼女はカーテンを引かないひとで、テレビの明かりが丸見えなのだ。

彼女の部屋のテレビの光を見る度、「そろそろ寝た方がいいんじゃないですかね?」と自分のことは棚に上げて、心の中で呟くのが日課となっていた。

たまにテレビの光に照らされて、彼女の背中が見えることもあった。肉の乗った、ちょっと小さめの丸い背中。割と若く見えないこともなくはない背中。その背中がテレビの方を向いているのがトイレから見える。時に、空色の家とウチの間に月がかかり、テレビがもう一台ついたみたいに明るい夜もある。そんな夜は、あちらもこちらも寝るのが更に遅くなることしばしばだった。


ついひと月ほど前だったか。女傑の部屋の無防備な窓に、ブラインドがつけられた。となりの部屋と合わせて、業者さんが来て設置工事をしていくのが見えた。

これで夜中、見えなくなるのかな、と少しばかり寂しく思っていたがそんなことはなく、相変わらずの開けっ放しである。なんでつけたんだかあのひとは、と可笑しくなった。この寒い季節でも、女傑は窓を覆うことをしないのだ。


いつも丸見えの女傑の部屋の窓。いつも夜中、テレビの光で賑やかな女傑の部屋の窓。朝までつけっぱなしなのではないかと思うほど、灯台みたいに夜を照らし続ける女傑の部屋の窓。

ある日、突然、ぱたりと光が途絶えた。

あれ、と思いながら、それでも毎晩変わらず空色の家を眺めていた。


クリスマスの金曜日。

今年、最後のドSセンセイのレッスン帰り。

町内会の掲示板の前を通りがかって、一枚の忌中のお知らせに目が止まった。

紙には女傑の名前が書かれていた。

先週末に旅立ったこと、家族葬を行うこと、が記されていた。


翌土曜日。

お隣のおじいさんが、田舎から送られてきたお菓子を、おすそ分けにと持ってきてくれた。

お隣のおばあさんと女傑は親友だった。お隣のおばあさんは数年前に足を悪くして以来、すっかり家に引きこもるようになってしまっていて、心配する女傑が事あるごとに顔を出していたようだった。

私はお礼を言いながらおじいさんに尋ねた。

「〇〇さん、お亡くなりになったと掲示板で見たんですけど」

「ああ、ウチのがショック受けちゃってねえ」

おじいさんが悲しそうな顔をした。

「ワタシの方が先に行くはずだったのに、って泣き叫んで、お別れの顔も見に行かないんだよ」

あれからずっと混乱してて、困ってるんだ。

そう言ったおじいさんの顔が寒そうに見えたから、手短に問うた。

「どこかお悪かったんですか? そんな様子もなさそうでしたけど」

「うん。脳出血だかなんだか、急なことだったらしいよ」

やっぱり突然だったんだなあ、と思いながら、

「急に寒くなりましたもんね、皆さんもどうぞ気をつけてくださいね」

そう言って、もう一度、お礼を言って別れた。


昨日。日曜日。よく晴れた午後。

空色の家の下で、女傑の夫が孫らしき子供と立っているのが見えた。どちらも黒い服を着ていた。

火葬場は今年、ずっと混んでいて、亡くなってから旅立つまでほぼ一週間待ちがふつうとなっている。

ああ、と思った。一週間、か。

今日、煙になったんだな、あの女傑は。

空に昇るには、絶好の天気だ。

彼女らしい。そう思った。


ここのところ、少し重たい空模様だった。

太平洋側の冬らしくない空模様が続いていた。

それを吹き飛ばしたような、青い空。

日差しが暖かかった。風のない穏やかな日だった。


夜中。日付が変わった夜の空。

空色の家のあの窓に、テレビの光はもう、見えない。

私が何度、夜中にトイレに立とうとも、あの窓のブラインドは閉じられたままだ。

明後日は、今年最後の満月。

1年の締めくくりに、満月に彼女の部屋を明るく照らしていってほしいと思っている。



女傑が母と同い年だったと、忌中のお知らせで初めて知った。

しばらくは夜中の空がとてもとても暗く感じられることだろう。

真冬の空は、こんなにも星がきれいなのに。

寒い夜。暗い夜。

寒さと暗さが身に沁みる。


合掌。


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