(2)

 演説を聞き終えて戻ってきた私は、なんとなく少女の家に向かった。昨日会った風太もいるかもしれないと思ったのと、診療所へ戻っても退屈なだけだからだ。それに、往復すれば、晩ごはんには丁度いいくらいの時間だろう。


 向日葵が咲き誇る丘を上り花畑へと出る。相変わらず綺麗な景色だ。木の下には新しい絵本とおもちゃが置かれていた。久瀬が今日持ってきたものだろう。風太を探したが見当たらない。


 私は花畑に腰を落とした。横になって青空を仰ぎたい気分になったが、また眠ってしまいそうなのでやめた。今度、眠ってしまうと夜になってしまいそうだ。そよそよと風に揺れる花を見つめ、額の汗を拭う。黄色い向日葵は気持ちよさそうに太陽を浴びている。私にとっては少々暑すぎるが。


「なにしてるんだ」


 ぼーっとしていた意識の外側から、そんな声が飛んできて、私はドキリとした。


 おずおずと振り返ると、例の警官が草花をかき分け、こちらにのしのしと近づいてきた。私は思わず、座ったまま手を挙げる。


「何もしてない。ただゆっくりしていただけだ」


「そうか」


 警官はそう言って、首筋をボリボリと掻いた。汗疹だかろうか、赤くなっている。


「あー、手は挙げなくていい。昨日の疑いは晴れてるからな」


 そう言われて、私は恐る恐る手を下げた。油断した隙きにまた取り押さえられるんじゃないか、とヒヤヒヤする。


「あんたはこんなところで何やってるんだ?」


 私の問いに警官は肩をすくめて答えた。


「見回りだよ」


「見回り?」


「そうだ。少女の安全を守るために、こうして毎日見回りをしている」


「少女はもう死んだんだろ?」


「そうだな。それでも決まりなんだ。私はここをパトロールしなくちゃいけない」


 警官は自分の足元を指差しながら言った。彼は自分の行っている行為がどれほど無駄なことなのか理解しているのだろうか。誰もいない場所を見回ったってどうしようもないのに。


 不可解だ、と言いたげな私の顔を見て、警官は「うーん」と悩み始めた。それからすぐに納得いく理由を見つけたと言わんばかりに、ぱっと顔を明るくする。


「そうだ、誰かが荒らすかもしれない! それで私は見回ってるんだ」


 取ってつけた理由だと思った。今の思いつきに過ぎないはずだ。だけど、これ以上追求してもろくな返しは来ないだろうと思い、私は「なるほど」と納得したフリをしておく。


「今日は誰も荒らしていない。うん。問題なしだ。君も暗くならないうちに帰るんだな」


 そう言い残し、警官は花畑を下っていく。乱雑に踏みしめられた花たちはすっかり根本から折れ、力なく地面に塞ぎ込んでしまった。


 風太が見たら悲しむだろうな。そう思い、私はそっと花を起こしてやる。支えてやるもの、せめてペンでもあれば良かったのだが、残念ながら持ち合わせていない。隣のシャンと背すじを伸ばした花にそっともたれさせてやった。



 *



 コトコトと鍋が沸く。コンロの火を止めて味噌を溶かす。仕上げに輪切りにしたネギを入れて完成だ。一口味見をして、どうして私はこんなところで味噌汁を作っているのか、と自問自答してしまう。外はすっかり暗くなっていて、曇ガラスにはコンビニのやけに眩しい明かりが輪郭を失った状態でぼんやりと浮かんでいた。


 溜息を一つこぼして、私はダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。腹は空いたが、久瀬がやって来ない。別に待つ義理はないのだけど、あとから久瀬が一人で食事をしているのを見るのもおかしな話だ。「食事は出来るだけ一緒にした方がいい」それも亡くなった両親から教わった数少ない教えの一つだ。


 食事は、互いが食べ終わるまで相手と向かい合わなければいけない。相手が咀嚼している間を見計らってこちらが話をする。相手もこちらの様子を伺う。この人は食べるのが早いな。この人は猫舌なんだな。無意識の観察が繰り返されているんだ、そこで行われるコミュニケーションは人生の縮図だと思わないか? これを無駄な時間だというやつは信用ならない。


 それが食事に対する両親の教えだ。私はその教えをまるっきり信じたわけではない。他人との食事を無駄だという人にだって意見はあるはずだ。その言分を聞かないうちから、この教えに首を縦に振るわけにはいかない。


 私がそう反論すると、両親は「まったくもってその通りだ」と頷いた。


 思えば、両親は、「あーするべきだ」「こーするべきだ」と私を縛り付けるようなことをしなかった。幼少期に勉強をしろと言われたこともなかったはずだ。ただ、だからといって勉強よりも大切なものがあると教えられたことなどもない。教わったことを振り返ると、最低限の道徳心だけだったのかもしれない。


 人生とはどうあるべきか。それは自分で見つけるべきだと暗に言いたかったのかもしれない。私が売れない役者をしているのだって、黙って承認してくれていた。応援もせず否定もせず。それが両親のスタンスだ。


 私はそんな両親のスタンスに甘えていたのだろうか。きつく馬鹿げたことは辞めてちゃんとした職に就くべきだ、と叱って欲しかったのかもしれない。


 少なくとも両親の死をきっかけに、私は役者の道を諦めた。それは人生とはどうあるべきかの答えを見つけたからだろうか? 恐らく違う。まったくもって反対なのだ。人生とはどうあるべきか、を探すことを私は辞めたのだ。


 きっと疲れてしまったのだろう。そして、社会から与えられるパッケージ化された人生のあり方を私は受け入れたのだ。


 袋詰された既存の商品は実に心地が良い。周りからもそれはいいものだと認めて貰える。だけど、私が求めていたものはそういうものだったのか。


 薬の入った戸棚に、蛍光灯の光が反射する。ジリジリと鼓膜に張り付いてくる空調の音が煩い。私はどうして役者になりたかったのだろうか。いつしかそんな理由を忘れてしまっていた。きっと、パッケージ化された人生のあり方を受け入れたのは、それが原因だ。両親の死は関係ない。

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