13

 泣かない。泣いてたまるか。泣けば彼の思い通り。指輪は投げてやった。昨日の夜だ。でも彼は何も思わないかもしれない。だけど私は表明した。これはけんかだ。

 ぐずぐずと起きたのが今日の十一時過ぎ。妹から明日の朝、彼が家にやってくると聞いた。なんでわざわざと訊きながら私は枕もとのポーチをあさって左の薬指に指輪をはめようとして――投げたことを思い出した。

 だから、私は歩く。私は歩き続ける。今日を歩行でつぶす。ずっと歩き続ける。パンプスを履きつぶす。新しいせいで足の甲が痛い。でも私は歩く、歩き続ける。痛みが怒りを持続させる。

 ここは河沿いの土手の上の、舗装された道。今はもう深夜。誰も歩いていない。左手には河があって右手には水田。人家の灯りは右も左もなぜか遠い。でも視線は前へ。拳を握って、前後に振り出す。足は繁茂する雑草とアスファルトの接するちょうどはざま、その境界線。私は歩く、歩き続ける。鼻は水の匂い。流れる河の、増水した河の、にごった水の匂い。土の、草の、水に濡れた匂いがする。耳は音を捉える。二種類の音。カエルと風。雑草の中から、もしくは水田から。そう、まだ青い稲穂を一気に揺らして、風が迫る。だから河原に建つ鉄塔。高圧電線の、錆びたフェンスが守っている電線。ひゅん、と風で鳴って、震えている。

 来る、と思って一拍遅れて襲われる。私が、風に。空気の壁が叩きつけられて、足元がゆっくりと傾いて、落ちる。

 イメージ。

 砕け散る身体。

 その音。

 血の、赤と匂いと、誰かの悲鳴。

 ひどく、安っぽいイメージ。

 同時に左のパンプスが脱げる。それだけが明晰な感覚。視界の回転で上下の感覚はない。もがかない、あせらない、まよわない。彼が言っていた。だから、それを思い出して、落ち着くまで我慢する、我慢して身体の、視界の回転がようやく止まる。

 私は河原の、雑草の中にいる。そう理解する。

 ゆっくりと立ちあがって、身体を確認する。すり傷三。切り傷二。シャツの汚れ無数。パンプスは片方、行方知れず。

 私はため息ひとつ。元いた場所を見あげる。土手は暗い。街灯がないから暗い。匂いが鼻をかすめる。土の、泥の匂いに混じってかすかに血の匂い。川上から。視線を投げる。

 鉄塔。

 今度は鮮烈な匂い。低いうなり声。

 犬?

 野良の?

 違う。聞きようによっては助けを求める声。

 私は目前の雑草をかきわける。進む。左足がぬれる。草がふくんだ雨と河のしぶきと夜露。全身がずぶぬれ。もうめちゃくちゃ。でも進む。確信がある。進めば匂いがいっそう強くなる。

 そして視界が開ける。

 むせかえるような、血の、匂い。風が吹くたびに、鼻先を通り過ぎていく。目の前には下半身が砕け散った人。うめく言葉。徐々に小さくなっていく。顔は苦痛にゆがみ、暗がりの中でも土気色であることがわかる。女の子だ。年齢は高校生ぐらい。まだ、若い。

 私は即座に理解する。スーサイド。なら、五分もまたずに救急車はやってくる。でもサイレンは聞こえない。聞こえるのは声。目前でうめく、声。私は耳をよせる。言葉を聞く。理解する。

 鉄塔からのスーサイド。

 のぼっている途中に、風。

 電話をかける暇なし。

 だから私はデニムのポケットから携帯電話を取り出す。電源は入っている。壊れてはいない。番号を押す。そして、発信――――しない。私は驚く。迷っている。このままにしておくのが自然じゃないかと思っている。

 足をつかまれる。

 私は悲鳴をあげる。

 ふり払う。

 しりもちをつく。

 私は、見る。

 彼女は這ってくる。手を伸ばして、つかもうとしている。動けば動くだけ顔がゆがむ。でも、這う。彼女は進む。前に、進む。

 そして私は気がつく。彼女がいた場所からずっと線が伸びている。

 赤い、線。這いずったあと。これは記憶。赤い、記憶。赤い顔。苦痛にゆがむ父の顔。それでも目は、目だけは前を 見すえていた父。明確に焦点を、ジャンプ台へと結んでいた。赤いライン。父の這ったあと。レッド・ロープ。

 そうか。

 だから、私は発信ボタンを押す。そして状況を説明した。

 ――赤色ランプを回して、救急車両が遠ざかっていく。いびつに歪んで離れていく音。私は土手の上でそれを見送る。不意に、携帯電話が震えた。メールの受信。ディスプレイに表示された名前は、橘修。私は読む。読みながら、歩く。土手の上、左足がぺたぺたと鳴る。私は歩き続ける。

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