第4話 ゼニのとれる風呂 3

 2月1日、川崎ユニオンズのキャンプが始まった。よつ葉園では、昼から風呂を沸かして、選手たちを風呂に入れた。彼らはランニングがてらに球場からよつ葉園まで走ってきて、それから風呂に入って汗と泥を毎日流した。その後、ベテラン選手たちはそれぞれタクシーで街中へと出向いて行った。若手選手たちは、風呂に入った後、ベテラン選手たちの荷物をタクシーでまとめて旅館に帰り、それから出るものは街中へと繰り出した。


 だが、ユニオンズを取り巻く情勢は刻一刻と変化していた。東京では、すでに球団解散に向けての動きが活性化していた。練習が突如休みになる日も増えた。

 そんなときでも、彼らはよつ葉園の風呂に来てひと風呂浴びてから、街中へと繰り出していた。


 「よつ葉園もそうだが、養護施設っていうのは、昔の『孤児院』だよな。俺たちユニオンズは、人呼んで『球界の孤児』だぜ」

 ある中堅選手が、キャンプが始まって最初の休みの日の前、滝沢旅館での夕食時にすきやきをつつきながら、そんなことを言った。周りの空気は、一気に重くなった。


 少し間をおいて、彼は言葉をつないだ。

 「ほっとけないじゃないか。そうでしょ! 練習がない日も、俺はよつ葉園さんの風呂に行くよ。運動を兼ねて。球団が金を出さなくたって、俺の金で入るよ!」

 「そうだな、そうしようじゃないか」

 「よしわかった。じゃあ、明日も各自、よつ葉園さんの風呂に入りに行こう」

 笠岡監督が音頭を取った。誰からも、異論は出なかった。


 翌日、彼らはウォーキングを兼ねて、街中の旅館から少し郊外の津島町まで散策がてらに歩いた。そして彼らは、よつ葉園銭湯の番台に各自金を払って、風呂に入った。その日の番台には、20代後半の女性職員が座っていた。


 「哲郎、あの人は誰?」

 体を洗い、すでに湯船につかっている西沢選手が、同級生になるO大生の大宮青年に尋ねた。彼は大学の講義が終わって後、西沢選手と風呂の前で落合って一緒に入っているのだが、この後彼らは、先輩たちと一緒に街中で飲むことになっている。

 「ああ、あの人はね、山上敬子先生といって、よつ葉園の保母さんだよ」

 「独身の方?」

 「残念でした。人妻だよ。子どもさんも上が今年で4歳になるそうだ」

 「大宮君、天下のO大生ともあろう者が、人妻なんて品のない言葉を使うなよ」

 同行していた先輩の井元四郎投手が、体を洗いつつ、笑いながらたしなめる。彼はやんちゃな選手ではあるのだが、存外、しっかりしたものを持っている。彼は後にプロ球団のスカウトになったが、獲得する選手やその家族の持つ「気品」といったものには、他のスカウト以上に目を光らせていた。

 「井元さんの言う通りじゃ、わしらみたいな馬鹿はええけど、テッチャンはやめとき」

 大宮青年より1歳年長の青野一郎捕手も、先輩の井本投手の意見に同意する。

 「そら、確かに、残念だ。あ、そういう趣味はないからな、ワイ」

 西沢青年が、面白おかしく言いながら話を戻した。

 「自分からそんなこと言うなよ。でもさあ、ここの仕事って、結婚を理由に退職される保母さん、多いのよ。でも、あの方はつい何年か前に子どもさんが生まれたときに休職をされたけど、子どもを育てながら、ずっと、保母として勤めておられる。森川先生が、結婚後も勤められるなら勤めてほしいと、彼女にあえて頼んだというのもあってね」

 「それはすごいね。なんか、時代を先取りしているみたいな人だな。うちの洋菓子屋にも、若い女性社員はいるよ。だけど、結婚後も続けるって人は、ほとんどいない。なんせなぁ、うちは神戸やから、お客さんと仲良くなったり、取引先の人に見そめられたり、店の外のどこかで出会ったりとまあ、きっかけは様々だけど、出会いが多いのよ。それで皆さん、結婚を機に辞めていかれる。だけどあの先生、よつ葉園の他の保母さんとは随分、雰囲気が違うみたいだな。いずれは、あの先生みたいな女性、増えるだろうね」

 「だろうね。ぼくは小学校の高学年の頃かな、あの方が18歳のときに保母見習でよつ葉園に来られた時から知っているけど、ホント、子どもたちのために、熱心な人でね、前の古京友三郎先生が園長をされているときから、その熱心さはすごかった。なんでも、満州の偉いさんの娘さんらしくて、戦争が終わるまでは何一つ不自由しなかったのが、戦争に敗ける前に親父さんの故郷の岡山に戻されて、そこから女学校にも行っていたのだけど、戦争に敗けてからほとんど無一文、自分も働かなくてはってことになって、随分、辛い思いをされているはずよ。でも、そんなことはおくびにも出さないで、若い頃からずっとここで子どもたちと一緒に生活されている。結婚されて、さすがに住込みというわけにはいかなくなったけど、それでも、熱心さは変わらない。むしろ、磨きがかかっているように思えるほどだ。でも、あの先生の気品は、ホンマものですよ」

 西沢選手に限らず、大宮青年の話を聞いていた選手たちは皆、その弁に頷いた。


 風呂を出た彼らは、さっそくタクシーを呼んで街中に行こうとしていた。

 「済まんが、西沢と青野、よつ葉園の事務所に行って、電話を借りてタクシーを呼んでくれるか? 大宮君に、ちょっと、話しておきたいことがあるのでな」

 井元投手は、普段ならこういう時、自ら先頭に立って先方に挨拶をしに行くほどの人なのだが、このときはなぜか、後輩らに行かせた。


 「大宮君、わしはな、どうも、よつ葉園さんの敷地、敷居が高すぎて・・・」

 「え? 何かあったのです?」

 「もちろん、よつ葉園さんには何の恨みもないし、特に問題を起こされたわけでも、ましてわしが問題を起したわけでもない。こうして風呂に入れてくれるだけでも、実にありがたいと思っている。実は、わしの名古屋の実家の近く、と言っても、数キロ先の隣の小学校区で、中学校区が一緒の場所に、同じような養護施設があるのよ。それがまた、若松子どもの家というの。中学校の同級生で、そこから通ってきている奴が何人かいてね、仲良くなった奴もいた。あるとき、折角だからというので遊びに行ったのよ、そうしたら何だ、その施設の門をくぐろうとしたとき、あえて言うよ、若い女の怒鳴り声がしたのさ。ナニナニしなさい! って、年端もいかない子どもに、怒鳴って指示しているわけさ。今の君らくらいの若い職員が。彼はそんなことでは何とも反応しなかったけど、わしは、心底、ビビった。女のヒステリーと言ったら、君に、下品なこと言うな、なんていう資格ないどころかお里が知れてしまうだけかもしれんが、それしか、高卒のわしには言葉が浮かばないよ。彼に聞いたら、その時たまたまそうだったわけじゃない、その若松子どもの家では、いつものことらしい。養護施設ってそんなところなのかと思うと、何か辛くて、どうも、足がすくんでしまうのよ。あの手の場所の独特の寂しさというかなんというか、言葉が出ないけど、そんなことが感じられてしまってねぇ・・・」

 「そうですね。井元さんのおっしゃるところ、よくわかります。このよつ葉園にしても、いくら地域からも評価されていて、先駆的な取組みで定評のある養護施設だと言われてみでも、そういう感じがないわけじゃないです。茂の話じゃ、休みの日もよつ葉園の風呂に行こうって言いだしたの、井元さんだったって。青野さん、青ちゃんに聞いても、そうだと言うし。それなのに今日はなぜ? と思ったら、そういうことがあったのですね」

 「うん、そういうことがあったから、一人で行くのはどうも気が引けて、君たちを誘ったわけだ。やっぱりわしには、なんか、あの建物の中に入っていく勇気が、ないよ」

 「度胸満点のいつもの井元さんらしくないですけど、そういうお話でしたら、確かに、仕方ないですよ。ぼくも、よつ葉園に子どものころから何度も来ていますが、時にそういう声で保母さんが子どもに指示すること、見たことあるにはありますから。亡くなられた古京先生や今の園長の森川先生は、そういうことはできるだけするなと指導されていますけれども、時にやっぱり、そういうことが起こってしまうようですね」


 やがて、事務所に行った2選手が電話を終えて帰ってきた。

 「今日は詰まらんことにつき合わせて悪かった。わしのおごりだ!」

 度胸満点の投手に戻った井元選手が、少し若い青年たちの前で高らかに宣言した。

タクシーがやってきた。彼らはタクシーに同乗し、街中へと出向いて行った。

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