第2話

 化学物質への過信から生まれた気の緩みと、急速に広まっていった危機。そのギャップは大き過ぎて、私たちに危機を危機として認識できる心の働きを起こさせなかった。

 気づけば、この先もずっと続いていくと思われた穏やかな日々が、あれよあれよと奪われていった。地下の根や茎を通して際限なく繋がっていた私たちの身体は、無惨にもぶつ切りにされ、情報を伝え合う猶予もなくすぐに消え去ってしまう。

 拡げた領域のほとんどを失ってしまうほどに私たちの身体は縮小してしまった。そしてその状態になるまで私たちは何も行動を起こせなかった。初めは化学物質への慢心が故に、最後はどうにもならないという諦めによって。それでも何かの気まぐれか、いつの間にか危機は通り過ぎていた。穏やかな日々の中でもたまにあった伐採は、今や全く起こらなくなっていた。

 だがそれを、再び訪れた穏やかな日々の証だとは感じられない。

 そこで油断をしてしまう気持ちが、今の惨状を作り出してしまった。その結果が、かつてからは比べ物にならないほどの規模にまで落ちぶれてしまった私たちの身体なのだ。

 危機が過ぎ去った理由はわからないまま。だからこそ、いつまた同じような危機が襲いかかってくるかわからない。そんな時、こんな縮小した私たちではそれに立ち向かうことはできない。

 遅過ぎた気持ちの変化。だが、今行動を起こさなければ、次こそ何もかもを失ってしまう。

 残された私たちだけでできることは限られているかもしれないが、それでも何かをやらなければならないのだ。それが、今更ながら奪われていった仲間たちにとっての報いになると信じて。

 とは言っても、何の手がかりもないまま行動を起こすことはできない。絶望的なまでに縮小してしまった地下ネットワークを再建する。それをまず初めの目標として動き出すこととした。

 地道に地下に茎を伸ばしていく。身体が小さければ得られる資源も少ない。限られた資源を丁寧に扱いながら、少しずつ目標の達成に向かって歩みを進めていく。一歩一歩の進みは小さいかも知れないが、いずれはかつてのような規模にまで拡大できるはずだ。

 私たちをこれまで支えてきてくれた化学物質は、ここにきてもその有効性を失っていなかった。伸ばした茎は時たま何かにぶち当たることがある。それは石や無害な他の生き物であったり、根や茎を食い荒らす生き物の場合もあった。ただの障壁なら避けて進めばいいだけだし、茎に齧りつく生き物がいても一口目で止めてしまうことがほとんどだった。齧り付いた時の反応は、化学物質をより多く蓄えている肥大部分で顕著に感じられた。化学物質はまだ効いていて、私たちを元の暮らしへと戻してくれる原動力となっている。

 だが、あの危機を経験した今なら、それに頼りきりになってしまう弊害も十分に認識できた。何もしなくても、化学物質さえあれば危機もその内通り過ぎていくだろう。そんな慢心が多くの仲間を失う悲惨な結果に繋がったのだった。

 その有効性が維持されていることを実感していたとしても、それはあくまで補助的な役割を担うに過ぎない。大事なのは私たちがどう生き延び、発展していくか。本当に重要なのは、目標に向かいどう進めていくかという意識なのだ。

 身体を伸ばすことに注力しはじめて、少しずつではあるが私たちの規模も拡大していった。かつての規模を取り戻すという、今の状況から見れば途方もない目標ではあったが、時を追うごとに僅かながらでも生長していく身体を感じていると、遠くの目標にも向かい続けることができた。

 身体が拡大していくと、得られる情報も増大していった。伸ばした先が生育に好適なのか不適なのかは完全に偶然に委ねられる。土の味わい、他の生き物たちの多寡、気温や湿度など、周囲の環境は少し伸長するだけでも目まぐるしく変わっていく。様々な情報を比較検討しながら、目的達成を叶えるための最適な方向性を見定めていく。

 かつての繁栄を思えば、そんな細かいことは気にせずありとあらゆる方向に伸ばしていくのが理想ではある。伸ばした先が生育に不適だからといって、せっかく伸ばした茎を志半ばで捨ててしまうなんてことは避けたいところだ。だが、今の私たちにはそんな眼前の判断だけを優先することはできない。生育に不適なところでいくら頑張っても、そこで得られる報酬は少ない。同じ資源を用いるのであれば生育に適した場所を選び、そこに集中して投資する方が時間あたりの生長は大きい。

 伸ばした先の環境がたとえ偶然に左右されようが、その中のどれを選び捨てるかは私たちの判断に委ねられる。あの時の危機を思い返しながら、かつての繁栄を取り戻すための最善手を私たちの手で手繰り寄せていく。

 化学物質というたまたま手に入れることのできたものに頼りきりになっていたあの頃とは違う。

 仲間を増やしたいと思っているのは、他ならぬ私たち自身。それならば、他の誰でもなく私たち自身で考え抜き、進むべき道筋を見出していかなければならないのだ。


 随分と遠いところまでたどり着いた。その端は確かに私たちと繋がっているはずなのに、別世界の住人のようにまで感じられる。茎の先端で感じたことは少し間を置いてしか認識されないらしい。雨や気温の変化が体の場所ごとに時間差で感じられた。

 生育に好適な環境はあまり残っていなかった。良さげな場所を見つけたとしても、他の生き物がすでに繁茂していることがほとんどだった。

 あまり周囲と関わらずに暮らしてきた今までを思うと、自分から他の生き物たちに触れるだけでも不安と恐怖が湧いてくる。少し伸ばして立ち止まり、また伸ばして立ち止まる。何も起こらないことを確認して、それでも慎重に歩みを進める。その不安が、少しばかり悪条件な場所へと茎を進めてしまうこともあった。張り巡らされた他の生き物たちを掻い潜るのではなく、条件が悪くても誰も進出していないような場所へと。

 それでも、そんな中でも、着実に一歩一歩進むことはできた。

 八方塞がりのような状態になったとしても、それでもどこかの方向へは茎を伸ばしていかなければならない。その一歩に力を授けてくれるのは、あの危機に対する忌々しい記憶だった。

 あの時と同じように何もしなければ、今度こそ全てを失ってしまう。何もかも終わってしまう。そう真剣に感じたからこそ、今の穏やかさを当たり前だとして受け流すことはできなくなった。

 少しでも、私たちの選択として何かをなさねばならない。私たちが変化を拒めば、周囲の変化が私たちを拒む。多少平穏から遠ざかったっていい。何も失うよりは何万倍もましだ。

 どこにも行き場がなくなりそうな時、自然と私たちの身体からそんな気持ちが湧いてくる。なぜ、茎を伸ばしているのか。原点に立ち返りながら、僅かな好適地を見つけて、そこに向けて資源を集中させていく。

 そうして何とか規模を拡げていると、かつて繁栄していた頃に感じていた匂いや記憶にもない目新しい感覚が身体を駆け巡ることもあった。その新鮮さもまた私たちの頑張りを示してくれているようで、次の一歩を踏み出す原動力となってくれた。

 思い切り葉を広げた時のように身体に染み渡る心地よさに後押しされながら、好適な場所を求めて、そこが未知の領域であっても身体を奮い立たせながら伸ばしていった。

 こうして決めた方向に裏切られることもあった。

 他の茎よりも資源を集中させて、一番手で伸ばしてきたのに、掘り起こされて傷だらけにさせられたこともあった。満を持して飛び出た地上部が、何も遮るもののない灼熱だった時もあった。

 その度ごとにあの危機感が私たちを奮い立たせてくれる。

 まだ全てが失われたわけじゃない。あの危機が過ぎ去った直後のことを思えば、今の私たちはとんでもなく大きくなったじゃないか。

 一進一退となっても、資源がある限り私たちは伸ばし続けることができる。その先に、穏やかさだけでは測れない確固たる生存が待っているはずだ。


 どれほどの時間が経っただろう。

 灼熱の光、ひたすら降り続く大量の水、土の中でさえ感じられるほどの寒さ。そんな経験したことのない過酷な環境との巡り合わせ。その繰り返しを何度経験したことだろう。

 気づけば私たちは、かつてよりも広く根を張り巡らせることができていた。

 拡げた場所は全く異なる。できるだけ遠く、できるだけ早くを求めながら伸ばし続けた日々は、少し歪な形で私たちの地下ネットワークを形作らせた。

 最も遠くまで伸ばした茎がどんな環境を過ごしているのか。それは確かに茎を通して情報としては流れてくるのだが、そのイメージを自分の中で形作ることができないほどだった。私たちの一部であるはずのその先端は、まるで私たちが知らない環境を、小さな危機を乗り越えながらにでも過ごしている。かつて感じていたのと比べ物にならないほどの距離感。それは私たちの目的がひとまず果たせたことを示すもので、無心で突き進んできたこれまでを思いながら少しだけ息をついた。

 かつてより広く。あの時強く思った目標までたどり着いて、気持ちの上でも身体の上でも穏やかな日々が戻ってきたように感じられた。想像もできないような環境の中で暮らしている私たちの仲間がいるという感覚は、自分たちの規模と繋がりを確信させてくれる。どこかで誰かが引っこ抜かれても、残りの私たちは余裕綽綽でピンピンしている。心の面だけで元気を維持できているわけじゃなく、まだまだ伸ばしていけるという力が、無尽蔵なエネルギーが、現実のものとして自分たちの身体から溢れている。

 それでもあの時の危機感は私たちの中に今でも残っていて、本当の意味での油断に陥ることを阻止し続けてくれていた。

 確かにかつての規模からすれば想像もできないほどの広がりまでたどり着いた。仲間たちが引き抜かれていく痛みも、それ単体では認識できないくらいにまで薄められていた。生き延びることに対する切実な思いは、いつしか身体の中から溢れることはなくなってしまった。それでも、この状況に安住してそのままでいることは、私たちが全身で許さなかった。

 またいつかあの時のようになるかもしれない。考えられないほど私たちの規模が大きくなったとしても、それを超える脅威が訪れないとは限らない。

 立ち止まってはいけない。いついかなる時も前に進み続けないといけない。わずかな隙間であったとしても、そこを縫ってまだ見ぬ世界へと茎を伸ばしていかなければならない。知った世界ばかりでは、そこに一斉に現れた未知なる脅威に対抗できないから。

 その中で、化学物質だけに頼らない私たちだけの武器を見つけることができたのなら……。

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