やさしい魔法と君がいない世界

甲池 幸

第一話 魔女に願って夢の中

 ジャングルジムのてっぺんで降りられないと泣いている女の子がいた。滑り台を走り下りる男の子がいた。子供そっちのけで熱心に夫の育児への無関心さについて話している母親たちがいた。


 全てを包み込むように春の日差しが降り注いでいる。座り心地がいいとは言えない木のベンチに座って、僕はそれらをぼんやりと見つめる。不意に、隣の気配が揺れた。僕は左側に視線を動かして、長い黒髪が揺れるのを視界に収める。ノースリーブの白いワンピースを着た少女が、立ち上がって、僕と視線を合わせる。


 長いまつ毛が瞼の動きに合わせてゆっくりと揺れ、黒に近い茶色の瞳が見え隠れする。薄いピンク色の唇が開いて、彼女は外の空気を吸い込む。一度口が閉じて、また唇が動く。僕は耳に全神経を集中させて、少女の言葉に集中する。


「ねえ」


 同年代の女の子と比べても少し高くて、柔らかくて、少し活舌の悪い声。


「なあに?」


「ジャングルジムの上で泣いている女の子が下りるのを手伝いたいの。だから、その間あなたを一人にしてもいい?」


 あぁ、彼女は──「水仙すいせんあさぎ」という人間は、なんて綺麗なんだろう。


 泣いている女の子を助けて得られる満足感よりも、僕を退屈させる罪悪感の方が大きいのだ。彼女はいつも、何かを切り捨てる痛みを抱えながら誰かに手を伸ばしている。痛みを正しく受け取りながら、切り捨てる覚悟を持ちながら、それでも尚、手を伸ばし続ける人。


 なんて、正しくて、綺麗なんだろう。


 僕は彼女から視線をそらして立ち上がる。このまま視線を合わせていたら、彼女の綺麗な部分に刺されて死んでしまうような気がした。視線を下げたことで、あさぎの小さな足が目に入る。甲を覆う部分が青いミュールを履いた小さくて白い足。くるぶしのところに靴下焼けの跡があることが、妙にリアルだった。


「僕を退屈させずに女の子を助ける方法がひとつあるよ」


 彼女は二回瞬きをする。唇をむずむずと何度か動かして、僕から視線をそらし、女の子を見て、もう一度僕に目線を向けた。


 水仙あさぎは、人に頼るのがあまり得意ではない。


「女の子を助けるのを、手伝ってくれる?」


「もちろん。僕は泣いている女の子を放っておきたくないし、君はワンピースだ」


 あさぎは小さく笑った。


「ありがとう」


 僕は「お礼なんていらないよ」と言いかけて、結局彼女からの感謝をそのまま飲み込んだ。




 それからジャングルジムに上って、女の子をなだめ、一緒に下りて、三人でハイタッチをした。女の子の手は熱くて、小さくて、細かった。


「ありがとう。とても助かった」


 自動販売機で買ったチョコチップのアイスをかじりながら、あさぎが僕に視線を向ける。僕はサイダーのシャーベットを舌の上で溶かしながら、彼女と視線を合わせた。目が合った途端、彼女は僕から目線をそらしてアイスを続けて三口かじる。僕はなんと言葉を返すか迷う。溶け切ったシャーベットを口の中に行きわたらせて、甘いな、と思って、すっかり温くなったシャーベットの死骸を飲み込む。


「どういたしまして」


 僕は結局、言いたいことよりも言うべきことを口に出した。

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