第51話 南針は闇を睨む

 南針は、謝涛屋の離れで新年を迎えた。

 両目の痛みはすでにないが、明るさと暗さの区別がつくだけで、その瞳に像を結ぶことが出来ない。

 彩恵の丁寧な看護を受けて、不自由なことはないが、このままでは成るまいと思う南針だ。

 見舞いは、まあ良いとして、「治療いたそう」という押しかけ者が後を絶たない。

 修験者風体の者がやってきて、小銭をせびっていく。南針は、初め気付かなかったのだが、厠や風呂の世話をしてくれる吉郎が、背中を流しながら「あいつ、また来やあがって」と呟いたことで知った。

 吉郎は、まだ若い謝涛屋の男衆だ。博多の生まれではないという。

 親切なのを良いことに、このまま謝涛屋に世話になる訳にはいかない。

 玄西和尚の医家は、空き家になったままだ。和尚に断りを入れ、あの家に戻ろう。仕事は出来ないが、以前生活していた場所だ。見えなくても、伝い歩きで生きていけるだろう。

 承天寺で療養中の和尚に使いをやると「わしも戻るから、南針先生も戻ってこい」と返事があった。

 使いは口頭で吉郎が務めたから、やり取はすべて謝涛屋一家の知るところとなり、彩恵が泣いた。

 出来れば、南針の世話を続けたい。ずっと傍にいたい。嫁入ってもいいと思っているが、豪商の娘に、それは許されない。すべてを振り切って家出するほど我がまま娘ではない彩恵だった。

 やがて逃げていた爺やと飯炊き婆やも戻ることになり、吉郎の肩に手を置いて古巣へ帰った。

 吉郎は、当分南針の目となり、杖となって仕えたいと主に願い出た。曰くがあるのだが、いうことはないと主に止められている。ともかく吉郎は、病身の南針に仕えた男衆として、これからも常に傍にいることになった。

 南針先生が帰ってきたと近所の患者は大騒ぎだ。

「目が見えなかぞ」という者に、「馬鹿野郎、先生ん手は神ん手なんや。目の見えなくても、そん手でそん指でおいん痛みやらなんやら吹き飛ばしてくれるわしゃ」と早速患者となった老爺がいえば、医家の門前にポツポツと覗きに来る人がいる。

「仕事をし過ぎてはいけない。少しずつだ」という和尚も、よたよたしながらも子供の腹痛など診ている。

 吉郎は住み込んでいるが、日に一度は謝涛屋へ連絡に行き、穀物だの魚だの抱えて帰り、飯炊き婆さんに渡してから「ただいま」と声をかける。

 日々増えていく患者に、南針先生の助手として吉郎が付いた。

「わしには出来なか」と二の足を踏んだが、和尚先生に下男に婆さんに、じっと睨まれて小首を縦に振った。

 診療台を二つにして、手洗い桶と手巾。簡素にした部屋は、南針先生と助手が動きやすいように配置された。

 南針は、未だ針を使わない。その神の手でツボを探り、指先に念を込めれば、老年の女子の体調は一気に改善する。

「針じゃねえのか」という御仁にはお帰り願う。助手吉郎の大事な仕事だ。

「申し訳ございません」と、日々丁寧になる吉郎の所作と言葉に「お世話になったけん」「吉しゃん、また頼みましゅね」などと頭を下げて帰る患者に、吉郎はかってない高揚感を覚えた。

 吉郎は、南針先生に隠し事がある。南針先生の目を傷付けたのは、おれだと思っている吉郎なのだ。

 あの時、男衆は入り乱れ、救いの神である南針先生をも押し潰した。吉郎も押し潰された側で、その時、南針先生の瞳が蒼いと思ったのだ。確かに二人の目は交わされ、その後、吉郎の目も赤く染まった。己の血潮だと思ったのだが、それは先生のもので、吉郎は少しも傷ついてはいなかった。

 謝涛屋の旦那さまに相談すると「お前のいうことが正しいとも限らない。誰も同じ立場だった。確かな事でもないのに南針先生に謝ることはない」と、いわれた。だが、南針先生の病床の世話係にはしてくれた。

 先生が、医家に帰る時も付いて来ることを許された。お手当も今まで通り謝涛屋から貰っている。運んでくる穀物や野菜も吉郎の食事分だとなっているが、幾ら吉郎が若い男とはいえ、一人で食べられる量ではない。年寄三人と若者二人が食べても余るほどだが、界隈に貧しい人がいない訳ではない。必要ならば誰にでも施せる。今では、それは婆さんと吉郎の裁量だ。

「吉しゃん、ちょいっち米の足らんちゃ」と遠慮化に囁けば、「明日までよかかい」と、笑顔の吉郎がせっせと俵を運んでくる。

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