第19話 情け渦巻く富谷でござる

 庭の緑がざわざわと慌てだし、縁先に崩れた。

「お許し下さい。お許し下さい。波丸をナミマルと呼んだのは、おれです。悪いのはおれでございます」

 庭先で叫んでいるは、末吉であった。

 振り向いた波丸は

「末吉、よいのだ。われは、富子さまに応えることが出来ないのだ。吾が悪いのだ。お前には世話になるばかりで、申し訳ない」

 末吉の甲高い声を聞きつけた下人たちが、わらわらと裏か出てきた。爺さんが濡れ縁近くに土下座した。その後ろに次々と皆が倣う。

「お許し下さい。お富さま。波丸は此処を出ては生きてはいけません。何卒お慈悲をもちまして、今まで通りにお願い申し上げます」

「ええぃ、揃いも揃って盾突くか。不満な者は皆出ていけ」

 少し身震いした富子は、立ち上がり、抑えきれぬ声を残して奥の部屋へと姿を消した。

 富子は、公家の姫君とは思えぬ気性であった。後の生い立ちがそうさせたのか、平たくいえば姉御肌なのだった。末吉のような下々の少年でも「お富さま、お富さま」と慕うと目をかけた。少々おつむりの緩い者でも富谷に来たのは仏縁であろうと情けをかけた。

 下男として働く留吉は、やっと八歳。すべての動作が鈍いが、皆の愛玩者だ。ここ富谷で生まれ、育ったのだ。母なる人が、産み落として直ぐに彼の世に旅立った。だから、皆で育てた。もらい乳をするのが、一番えらい仕事だったが、それも今では懐かしい笑い話だ。這い這いし出した留吉が、いないと大騒ぎした日々、裏庭の隅で、野犬の乳首に顔を埋めていた赤子を誰もが、涙ぐみ愛おしんだ。赤子の背を撫でる手は沢山あった。

 余るほどの手を持つ女子たちも、富子に刃向かわないかぎり、富子の子として気配りされた。夜の仕事は嫌だと泣き出す女子には、「よいよい、ずっと裏で働けばよい」と応用だ。「あたしは、銭を稼いで、幼い弟妹に仕送りするのだ」という女には、稼げるように配慮した。

 富子は、あの守銭奴がという噂をものともせず、富谷一家を支えるために金儲けに邁進する。富子もまた幼さの残る少女の頃、家のために売られたのだ。

 兄弟と思って育った四郎大夫と、鎌倉に来てから迷い込んだ勝次の眩し気な視線も利用した。二人が表と裏の商売に役立つからであった。

 波丸にも「実は、富子さま……」と打ち明けて欲しい。惚れてくれとはいわないが、姉とも母とも慕ってくれれば、何とでも波丸の身の振り方を思案する。

 金儲けには熱心な富子であったが、それは商売としての心掛けで、なればこそ、富谷の使用人たちは空腹を知らない。食えない辛さを知っている者ほど富谷を辞めようなどとは思いもしない。

 爺さんが末吉の尻を蹴飛ばすように裏に消えると、皆うち揃って後に続いた。

 殿しんがりを守るのは、なんと留吉だった。ちらりと波丸を見上げ、そっと笑みをこぼして見せた。

 留吉も波丸に貰った情け深い饅頭の甘味を忘れない鎌倉漢の端くれだ。

 波丸は、ゆっくり立ち上がり裏に向かった。

 何時の間にか鳴りを潜めていた蝉が、再び鳴き出した。

「ナミーン、ナミーン、ミンミンミン」とうなだれる波丸を励ましている。

 波丸の濃緑の瞳が水気を帯びて、くにゃりと歪んだ。

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