第6話




 先生と患者の話は、退屈だった。


 なぜこうまで退屈に感じるのか、自分でもわからなかった。でもまるで興味を持てないのは事実で、淡々と流れていく川面の葉っぱを眺めている気分になる。そこに何の意義を見出せば良いのか、全くわからない。仏教のように、諸行無常でも悟ればいいのだろうか。でも別に、極楽浄土を信じているわけでもない。

 患者さんたちの話はバリエーションに富んでいて、どれもそれなりに刺激的ではあったけれど、それがハッピーエンドに終わろうが、バッドエンドに終わろうが、私がそこに感情を動かしたところで、当事者の彼らになんの関係があるのかという覚めた気分になってしまう。私の意見や感想を彼らに伝えられるのならまだしも、こっそり盗み聞きしているのだから、こちらから働きかけることなど何もできない。私はいないのと同じだ。全くの、空気だ。


 お母さんに厳しくされて病気になった佐々木さんは、可哀想だと思いました。佐々木さんのお父さんも叔父さんもお祖父さんも、それをずっと見ていたのに何も言わないのが酷いと思いました。


 ノートに申し訳程度のメモを取りながら、ああ、お腹すいたなぁ、と思う。カーテンの隙間から覗く窓の、その向こうの景色はあまりよく見えないし、壁掛け時計もないので時間もわからない。壁の拙い魚たちを見ながら、魚料理のことをぼんやり考える。絵のレッスンの後で、帰り道に二人で食べたフィッシュアンドチップス。

 夢だったのだろうか……あの、殺し屋のことは。

 あれらはすべて、私が退屈に耐えられなくて作り出した、夢幻の物語だったのか? 

 たぶん、きっとそうなのだろう。そう考える方がずっと自然だ。


「どうして、そんなふうに思うの?」


 だって、そうだから。


「自然に思えるからって、それが真実だって事にはならないんじゃないかな? 地球が太陽の周りを回っているって考えるよりも、太陽の方が動いているって考える方が、昔はみんな自然だと思ってたじゃない」


 鬱陶しい、と思って顔を上げると、部屋の中にはまた知らない女性がいた。ドアが開く音は聞こえなかったはずなのに、すでに窓辺に脚を揃えて腰掛けて、柔らかな笑顔でこちらを見つめている。青い光を浴びて、ほんのわずかたなびいた細く柔らかな長髪が、まるで人魚姫か何かのようだ、と私は思う。しかしこの世にそんな人間がいるわけがない。

「えっと。心が読める人ですか?」

 イヤホンを片方外し、揶揄を込めてそう聞くと、人魚姫は朗らかに笑う。

「そうだよ。私、昔から人の気持ちがよく感じ取れるんだ」

「看護師さんですか? それか、お医者さん?」

「私は患者。患者であり、囚人。そして、この場所の主でもある」

 抽象的な話はやっぱり苦手だった。

「主なら、自由にどこへでも行けるんじゃ」

「鳥籠の鳥と同じだよ。鳥は不自由だけれど、少なくとも籠の中では自由でしょ? 私はここでは全知全能だし、どこへでも行けるんだ」

「じゃあ、ここがあなたの鳥籠ってことなんですか」

 鳥籠という言葉に、彼女はほんの少し困惑したように首を傾げる。

「ううん。鳥籠なんかじゃない。ここは私の水槽。私の水槽であり……あなたの

「鋼鉄の箱……檻とか、籠じゃなく?」

「うん。だってあなたは鳥じゃないもの。ここは水槽であり、鋼鉄の箱であり、また鳥籠でもあるんだよ」

「じゃあ、誰の鳥籠なんですか?」

 私はだんだん不快になってきている自分に気づく。ふわふわした話が、思えば私は本当に苦手だった。ほんのわずかな気持ちの揺らぎだったけれど、これは「憎悪」と言い表したほうが正しいのかもしれないとさえ思う。どこかうっすらと自慢されている気分になるのだ。自らの優位性——そんな適当なことを呑気に喋っていても、誰からも脅かされることがないという余裕を、私に見せつけて楽しんでいるように見えて、仕方がない。

 人魚姫はやはり微笑んで、余裕たっぷりに答える。

「それは私が言わなくても、もう知っているでしょ?」

「知っていたら、聞きませんよ」

「ふーん。そっか」

 人魚姫は白いネグリジェを身に纏い、天使のように透き通る白い指先に、クルクルと髪の毛を巻きつける。

「何を聞いてるの?」

「ああ、これは、まあちょっと……」

 片耳につけたイヤホンからは、折しも絶望しきった罵声が聞こえてきた。俺はこんなに頑張ってきたのに。それを今更病気だなんて。これからずっと狂人のレッテルを貼られて生きていくっていうのか。おかしいのは俺じゃないのに。周りの奴らの方がずっと何倍もおかしいのに。こんなの酷すぎる。酷すぎる。酷すぎる。


「ここの先生はどうも『物語』にこだわるんだ」


 彼女の両手には、気づけばお皿があった。何も持っていないと思ったのに、どこから出したのか、全くわからない。右手の皿には小さなビスケットでできたお菓子の家。左手の皿には息を呑むほど美しい、真っ赤なリンゴが置かれている。

「ヘンゼルとグレーテル、ピノキオ、白雪姫……。懲りないよねぇ。現実は現実、物語は物語。頭でっかちばっかりだよ。自分の物語を理解したところで、一体どうなるっていうのかな? 私たちは頭じゃなく、心が病んでいるっていうのにね」

 テーブルに置かれたお菓子の皿に、私は困惑する。

「これ、一体どこから」

「言ったでしょ? 私はここではなんでもできるの。ここは私の場所だから」

「でもここがあなたの場所なのなら、誰があなたを閉じ込めてるの?」

 人魚姫は私に美しい顔を寄せ、歌うようにささやく。

「私は罪人なの。だから罰を受けている。あなたと同じようにね」

「罰……」

 私と、同じ? 

「私はある人を酷く傷つけてしまった。その人は私のせいで、永遠に終わらない苦しみに苛まれている。でも私にはどうすることもできない」

「どうして?」

「ここがあなたと違うところだね。私はからだよ。死人だから、生者である彼には何もしてあげられない。水の世界と陸の世界は、交わらない運命なんだ。そしてどうすることもできないまま、罰としてここに閉じ込められている。彼の深い悲しみの水槽に——私自身の棺桶に」

 死んでいる。そう告げた彼女の顔は、それでもとても死人には見えなかった。ほんのりと薔薇色に色づいた頬に、良い香りのする長い髪。でも言われてみれば、現実離れしているということにかけては、確かにこの世のものとは思えない。


「ということは、ここは死人の世界なの?」


 私ももう死んでいたらいいのに。

 そんなことを頭の隅で考えながら、少しだけ期待を込めて、そう聞いた。

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