世界最悪の酔っ払い-2


「天チャン。よく来たわね」


 そう言って出迎えてくれた叔母は、すっかりやつれてしまっていた。こんな叔母の姿は見たことがない。心臓を鷲掴みにされたように息が詰まる。


「……星宮は?」


 やっとの思いで、絞り出すようにそれだけ訊ねる。


「奥の部屋にいるわ」


 叔母は短く答えると、台所でお茶を淹れ始めた。


 眩暈がするくらいの心拍数。先延ばしにしたところでどうにもならなかったのだ、もっと早く来るべきだったのではないか? そう思うのと同じくらい、今すぐ回れ右をして帰ってしまいたくもある。


 とにかくどんな状態でもいいから、星宮の声を聞いて安心したかった。

 叔母に言われた部屋をノックする。


「星宮? 私、紺野。入るよ」


 ——返事がない。

 仕方がないので、入っていいともだめとも言われぬままドアを開けた。


「…………紺野さん……?」


 掠れた声がする。

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋。普段は叔母が物置きにしている部屋で、たびたび私が泊まるときに寝る部屋でもある。そんな雑然としたこの部屋の奥にはベッドがあって、星宮は、そこで布団に包まっていた。


 私のいる位置からは星宮の表情は見えなかった。できればこのまま見たくない、そう思ってしまう自分がいる。今のところ私に分かるのは、この部屋に立ち込める、陰鬱で重苦しい空気のことだけだった。


「電気つけてもいい?」


「…………」


 相変わらず返事はない。電気はつけないことにした――星宮のために、そして私のために。


「あのさ、星宮……何があったのか聞いても」


「だめ」


 ――取り付く島もない。


「純蓮さんに呼ばれたんでしょ。来てもらって早々に悪いけど帰ってくれないかな。少なくともこの部屋からは出て行ってくれ」


「……星宮」


「あんまり人と話せる気分じゃないんだ。次この部屋に入ってきたとき暴言吐かないって約束できない。大きい声を出すかもしれないし、泣き始めるかもしれない」


「…………」


「紺野さんにそういうところ見られたくないんだ。取り返しがつかなくなる……いや、本当はその方がいいんだけど」


 今にも爆発しそうな何かを、必死に抑えているような。そんな、危うい話し方だった。あと一滴、ほんの些細なきっかけで、何かが溢れて、壊れてしまいそうだ。表面張力だけでぎりぎり保たれている何かに――触れる勇気はなかった。


 ただ、一言だけ聞いて安心したかった。


「ねえ、星宮……いなくならない、よね? 取り返しがつかないって何? 大丈夫だよ、だって星宮には超能力が――」


「——お願いだから!」


 初めて聞いた星宮の大声に、肩がびくりと震える。


 星宮が声を荒げるなんて事態が示すのは――私が、踏み込んではいけないところまで踏み込んでしまった、ということなのだろう。


「出て行ってくれ。今すぐに」


「…………分かった」


 ドアを閉める直前、一言言い添えて。


「ごめんね」


 ——閉ざされた扉の向こうから、啜り泣きのような声が聞こえた気がした。







「天チャン。お疲れ様」


 叔母は、居間のテーブルでお茶を準備して私を待っていた。どう答えて良いのか分からず、ただ「うん」とだけ答えて叔母の向かいの席に座る。


 数分間、気まずい沈黙が流れる。


 耐えかねた私は、なるべく穏やかな口調で叔母を問い詰めた。


「いい加減説明してよ、叔母さん。何があったっていうの?」


「分かってるわよ。ちゃんと説明するわ。……ただ、アタシはアタシがやってしまったことだけを話すから。雫チャンの話は雫チャンから聞きなさいね。あの子は話してくれるわ」


 本当だろうか。あの状態の人間が何かを説明してくれるようには思えないが。


 そんな私の不安をよそに、叔母は口を開いた。



「沙織チャンの傷を見て、雫チャンは物凄い罪悪感を感じたんだと思うわ。理由は雫チャンから話が聞ければ分かると思うんだけど。あれを見るのがしんどくて、雫チャンは学校に行けないって思ったのね。

 だからアタシ、雫チャンに言ったの。ウチに来なさい、何日でも泊めてあげるから、って。きっと遠慮とかする余裕なかったのね、すんなり来てくれたわ。


 雫チャン、たぶん今すごく自暴自棄になってると思うのよ。それを、どうにかしてあげたくて……何か、助けになればと思って。雫チャンに力を使ってもらったの。アタシの、二十歳の夏にタイムリープ……正確にはタイムリープじゃないんだっけ? とにかく、二十歳の夏に飛んだのよ。


 アタシ、二十歳のとき、死にたいなって思ってた。


 動機はつまんないことだった。人の寿命ばっかり分かって疲れちゃったのよ。随分頑張って計画したわ。身辺整理もして、遺書も書いた。友達のこと悲しませたくなかったから、交友関係も少しずつ切っていった。その時に今みたいな友達のいないアタシが出来上がったんだけど……まあいいわ。日付も場所も決めたし、あとは日を待って実行するだけだった。


 でも、頑張りすぎちゃったからかしらね。親友に――ちかに、バレちゃった。ああ、この時はまだ頻繁に遊んでたのよ……アタシも恒と離れるのが嫌で、最後の最後まで縁を切るのを先延ばしにしてた。それが悪かったのかもしれないわね。


 それはもう見たことないくらい怒られたし、泣かれたわ。こっちが冷静になっちゃうくらい。あんな感情的になってるあの子、後にも先にもあの時しか見なかった。


 この間雫チャンに能力を使ってもらって見た通り、あの子はアタシのこと好きだったのよ。それで、雫チャンだって、天チャンが雫チャンを好きなことくらい感づいてる筈。だから、アンタが死んじゃったりしたら天チャンにこれくらい泣かれるし怒られるぞー、って。そういうことを言いたくて、アタシは雫チャンに能力を使ってもらったの。雫チャンは、絶対に天チャンのことを悲しませたくない筈だからね。


 でも、アタシのやったことが全部裏目にでちゃったの。


 これ以上天チャンを悲しませることになる前に、これ以上天チャンと仲良くなる前に、自分は一刻も早くいなくならなくちゃって、そう言うの。もともとその筈だった、って。


 もともとその筈だった、っていうのは、ほら、この間話したじゃない? 雫チャンはアタシの能力で見るともう寿命なんか尽きてて、死んでることになってるんだ、って。これは……いや、ここは雫チャンから話してもらうべき部分ね。


 ……アタシに話せるのはここまで。あとは雫チャンに聞いてきなさい」



 そう言うと、叔母さんは静かにお茶を啜った。


 あまりにも理解が追い付いていなかった。叔母さんにそんな時期があったなんて初耳だ――いや、問題はそこじゃない。


 星宮が、何だって?


 いなくならなきゃって、どういうことだ?


 本当は分かっている筈だ。叔母さんの話に難しいところなんて何もなかった。ただそれを認めてしまえば、星宮がどこかへ行ってしまう気がして。


 今度こそ、取り返しがつかなくなるような気がして。


 私の頭の中で、頑なにその言葉が――その一文字が、避けられている。現実逃避のように、その一文字だけ、固く蓋が閉められている。


 叔母さんと話をして、星宮と話をして、そうして何かが解決したら、何の変りもない日常が戻ってくるものと信じて疑わなかった。またファミレスで他愛のない話をして、大量のファミレススイーツが平らげられる様を眺めて、くだらない言い争いをして。


 日常と呼べるほどの時間を星宮と重ねたわけじゃない。それでも私は、あの時間に帰りたかった――それこそ沙織の時と同じように、私自身のために。


 つまるところ。

 私は、星宮あいつのことが好きなのだ。


 だから、認められる筈がなかった。認めたくなかった。あの飄々とした、いつだって余裕ありげなあの星宮の、あんな態度を見てしまってすら。怖かった。私には向き合いきれない大きさの、そんな話は。涙を流してやめてくれと懇願することしかできそうになかった。



 ——星宮雫が、死のうとしているだなんてことは。







『僕、星宮雫は、酔った勢いで世界を大きく歪ませました。だから、世界を元に戻すため、僕はいなくなろうと思います。


 僕がいなくなったら今あるこの時系列というか、世界線というか、とにかくこの現実は消えるでしょう。

 即ち、この文章も消えます。

 何も残りません。

 この文章も、七月沙織の家が抱える多額の借金も、月森純蓮がその親友の想いを知ったことも、


 ずっと好きだった女の子に、好きになってもらえたことも。』



「……なんてね」


 僕はため息をつき、ペンを置いた。


 こんなものを書き遺したところで、僕が死んだ次の瞬間には事実もろともこの文章は消滅することだろう。

 何もかもが消えて、ただ紺野天と僕がそれほど親しくもなく、七月沙織の弟の病は無事に完治し、そしてアラサーの星宮雫酔っ払いが公園で不審死を遂げたという出来事だけが残る。元あった世界は、何事もなかったかのように回り出すだろう。


 それでいい。もっと早くこうするべきだった。


 紺野天と過ごす時間があまりにも楽しかったから――その時間に甘えて、つい先延ばしにしてしまったのだ。


 この力を自分のために使う意味くらい、解っていた筈だろう?


 僕だって好き好んで死にたいわけじゃない。できることなら力ずくで願いを叶えたこの世界で、ずっと生きていたかった。でも、そうはいかない。こんなことをしてはいけなかった。歪んだ世界は正されるべきだった。


 どうせ正さなきゃならないなら、僕が一人で決意を固めてさっさと死ねばよかったのに。




 この期に及んで紺野さんや純蓮さんに迷惑をかけて、どうやら僕は本当にどうしようもない、世界最悪の酔っ払いだった。



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