十六.兄弟あるいは

   十六.兄弟あるいは


 賢人脳会の居所は三十四階にあった。普段の立ち入りは禁じられており、最高権限を持つ一部の人間しか生体認証をパスできない、電子施錠が行われていた。


 エレベータでその階を訪れた時、レイジが感じたのは異様な寒さだ。それはニカイドウも感じたところらしく、吐息の白さに季節を確認してきたほどだった。女性職員もそこまで立ち入ったことはなかったらしく、肌寒いを通り越した室温に身震いしていた。もっとも、それは暗い通路の不気味さが故であったかもしれないのだが。


 女性職員はエレベータから出てこなかった。自らには関係のないことだと言い聞かせて体を動かさなかったのかもしれない。


「レイジ」


 ニカイドウが手先を擦り合わせながら口を開く。


「冷却が必要なコンピュータでもこの先にあんのか」


 知る由もないことに、レイジは応えず道を行く。


 いずれのドアも、レイジたちの接近により自動で開いた。招かれているということらしい。通路は真っ直ぐ続き、三つのドアを潜り抜けた先に、広く、青白い部屋が待っていた。一辺五十センチのガラスの立方体十六個に、それぞれ脳髄が保管され、四列四方に備えられている。間隔は八メートルずつ。


 その中央に、果たして、アイザワは立っていた。


「ウェルカム、ようこそ、レイジくん。それに、ニカイドウくん」


 レイジは言葉を発する前に無反動銃でアイザワの額を撃ち抜いた。ニカイドウが短く声を上げる。


 わずかに仰反るアイザワは、その姿勢のまま、笑い声を上げた。


「挨拶だよ、挨拶。レイジくん、レイジくん、レイジくん。挨拶がまだ済んでいない」


「おやすみなら今ので充分だと思ったが」


「懇切丁寧、いや、もはや慇懃無礼だね、レイジくん」


 ニカイドウは状況を察して、入り口付近まで身を退いた。


「わたしはアイザワ。きちんとこうして挨拶するのは初めてなんだ。弟くんよ、積もる話もあるじゃないか。まずはお話をしよう」


 レイジは歩み、距離を詰めながら、アイザワの体を容赦なく熱線で焼いていく。


「無駄だよ、レイジくん。わたしは言ったはずだ。完成形の、君たちの言うネームレスが待っているよ、と」


 焼かれたアイザワの体はたちまち修復され、撃ち抜かれた頭部でさえ、すでに穴が塞がっていた。しかし、レイジはバッテリの続く限り、攻撃を止めない。いや、止められないのだ。再生臓器抽出物はいずれ体内から枯渇して、修復が間に合わなくなる。外部からの細胞の原料を摂取する機会を与えなければ、その内にネームレスと言えど修復が不可能となる。だからこそ、レイジは攻撃の手を緩めない。


「まったく、君らクリーナーは効率主義に過ぎるよ。せっかちと言い切ってもいい」


 片膝をついたアイザワが笑みを浮かべたまま、言葉を続ける。


「まずは昔話から入りたいのだが、どうかな?」


「俺に過去などない」


「あるさ、君が産まれて七年。その間、君の行ってきたことぐらいはね」


 無反動銃のバッテリ出力が四十パーセントを切ってもなお、アイザワは倒れない。


「まずは君の出自だが、わたしのオリジナルには聞いているね? いや、まったく残念な話だよ。我々には親と呼べる者がいない。いても、それと分からない」


「ニカイドウ、操作パネルがあるはずだ。クラッキングを始めろ」


 ニカイドウは言われるまでもなく、といった風に背後で動いていた。


「わたしはね、レイジくん。哀しいのさ。アイザワという名前は哀の感情から付けた名前なのだが、本当に哀しい。何をしようと報われない、何を考えても自分ではない。それが本当に虚しくてね」


「それもこれで終いだ。何も考えなくていい。感じなくていい。そのまま果てろ」


 アイザワが立ち上がり、近くの脳髄が入ったガラス箱を叩く。レイジはアイザワを熱線で穿ち続けるが、それでも言葉は途切れない。


「例えば、この脳の元の持ち主はカンザキという女だった。頭の堅い原理主義者でね。ハセクラの行った実験に対して、再生臓器抽出物に対して、難色を示したんだ。それが人間の尊厳を守る考えだと言って譲らなくてね。だから、殺した」


 レイジの無反動銃のバッテリが尽き始め、熱線の効果が弱まってきた。彼は高周波ナイフを抜き、無反動銃を捨てた。それを見るや、アイザワは両手を大袈裟に振りながら後退を始め、別の箱に手を置く。


「こっちはサエグサという男。彼はむしろハセクラ派の革新的な考えの持ち主だったのだが、欲が強くてね。賢人としては相応しくないと思った。だから、殺した」


 後退しつつ、別の箱を指差す。


「あれは穏健派のナカタだ。どっちつかずだったが、最低限ならと、再生臓器抽出物の利用を提案した。その時の、優柔不断な言い方がどうも無性に気に食わなくてね。だから、殺した」


「そうやって故人を偲ぶのは構わないが、それと俺に何の関係がある」


 レイジは緩やかな歩みの中で高周波ナイフを順手から逆手に、振り下ろして頭を割る目的で持ち替えた。


 アイザワが奥のエレベータ入り口まで背を付ける。


「関係ならあるさ。殺すのに理由なんてものがさほど重要でないということを理解して欲しかったんだ。それは君の過去にも通ずるものがあるだろう?」


 アイザワがパネルを操作して、最上階へ通じるのであろうエレベータを呼び出した。


「俺に過去というものがあるのなら、それとはもう決別した。俺はクリーナーでも、誰かの駒でもない。殺しはこれが最後だ。お前が、最後だ」


 レイジはエレベータの到着前にアイザワを始末しようと駆け出した。しかし、エレベータの方が一足早く、ドアを開く。


「お姫様を助けるために動く君が駒でないなら、君は何だっていうんだい? 答えは後ほど聞くよ。さあ、約束通り最上階でまた会おう」


 閉じられたドアに、レイジは拳をぶつける。そして、声を荒げながらニカイドウに呼びかけた。


「賢人脳会の破壊はできそうか!」


「やっぱ思った通り、ここはスタンドアローンで外界とのネット接続が断たれてんな。これからナガレの兄さんたちの方と回線を繋いで、ファイアウォールを突破する作業に入るしかねェ。ここにある脳を破壊しても、外部記憶素子にバックアップが残っているならそれも壊さねェと」


「急げ!」


「レイジ、おめェ、ちったあ冷静になれ。そのまんまでやり合ったら殺されっちまうぞ」


 レイジは知らず、怒りに身を任せていた。握り締めた高周波ナイフの柄に指が過剰に食い込んでいる。今までなら、エレベータを殴りつけるなど意味のない行動をしなかったはずだ。自身、気付かずに体が突き動かされていた。


「レイジよう。お前の持ち味忘れんな。皮肉とポーカーフェイスが得意な、色々と読めねェのがレイジだろ。さっきだってもっと情報引き出すことだってできたんじゃねェか?」


 ニカイドウの言葉に、はっとする。


「余裕がねェ時は相手の策にハマり易い、違ェか?」


 折り畳みのキーボードとPC内蔵バックパックを床に置き、有線でパネルと接続したニカイドウを、レイジはゆっくりと見た。そして、歩み寄ってから訊く。


「俺は、何だと思う」


 アイザワの問いかけを、レイジはニカイドウにした。


「そりゃおめェ、これから築き上げるもんだろ。オレっちが知るかよ」


 ニカイドウは面を上げずにそう言い切ると、キーを叩き続けた。


「そうさな、まあ、ひとっつだけ言っとく。レイジ、おめェはオレっちのダチ公だ」


 レイジは、それを噛み締めると、部屋中の脳髄を破壊することにした。それは、穏やかな光景だった。高周波ナイフをガラス箱に刺し込む前に、一つ一つに声をかけていた。


 すまない、と。


 十六個全ての箱を破壊し尽くすと、レイジは最上階へと続くエレベータへ足を向けた。


「ニカイドウ、もう一ついいか」


「んお?」


「感謝する」


 ニカイドウが手を止め、目を丸くしてレイジを見た。


「おめ、マジか。おい、マジかよ、レイジがオレっちに礼を!? 無礼児撤回か!?」


「先を急ぐ。後は頼んだぞ」


 レイジはエレベータのドアが閉まりきると、もう一度だけ「ありがとう」と呟いた。胸が透くような思いがした。かつて感じたことのない心持ちに、レイジは冷えた空気とは関係なく、頭に入り込む空気が脳を冷やす覚えがした。


 最上階へは二十秒とかからず、ドアの向こうには木製の扉が見えた。罠の気配を探ることもなく、彼はドアノブに手をかけた。


 扉の向こうに広がっていたのは、エマの居室のようなビオトープだった。いや、それ以上に整った環境だ。泉があり、木々があり、芝が生え、小さな丘も用意されていた。壁面から天井にかけてはドーム状で、穏やかな気候が再現されている。その向こうには、うっすらとホーム内部の様子が見て取れた。


 その中央、大木の根本にある天蓋付き寝台に、エマは横になっている。かたわらには、寝台に腰掛けながらエマの髪を顔から払ってやっているアイザワの姿があった。


「アイザワ、エマを返してもらうぞ」


「彼女はわたしの娘も同然だ。それを貰い受けるつもりなら、正装で来るのが当然じゃないか?」


「これが俺の正装だ」


「殺し装束が、ね」


 アイザワが立ち上がり、目線はエマに向けたまま言った。


「話をする気はもうないかな?」


「……」


 レイジの反応に、アイザワは意外そうに目を開いてから、小さく笑う。


「どうも心変わりしたようだね、レイジくん。提案なんだが、一つ、お茶でもどうだい」


 アイザワが顎で示した先には、古風な西洋の屋外茶会スペースがあった。レイジは、無言で頷き、そちらへと歩んでいく。アイザワは満足そうに笑みを浮かべると、両手を打ち鳴らした。すると、テーブルの中央からアンティークの茶器が現れ、アフタヌーンティーセットまでもが用意された。椅子は柔らかそうで、茶器からは湯気が立っている。


「この日のために取り寄せた高級なダージリンのファーストフラッシュだ。ああ、金額は気にしないでくれ。サンドイッチはハムとチーズ、アボカドとエビ。スコーンも焼き立てだよ。ジャムはわたしの趣味でブルーベリー。悪くないだろう?」


 レイジとアイザワは対面するように腰掛けた。そして、レイジは紅茶の注がれたカップを口元に運ぶ。ここまでして、陳腐な毒など仕込んではいないと踏んでの行動だった。


「どうだね?」


「俺はコーヒー党だが、いい香りだ」


「だろう? いや、君とは話が合う。好きな煙草の銘柄も同じだったしね」


「火と灰皿はあるか」


 アイザワが指を鳴らすと、テーブルにさらにガラスの葉巻用灰皿とマッチが現れた。


「昔の管理者が葉巻の愛好家でね。それしかないんだが、勘弁してくれ」


 レイジはプレートキャリアから紙巻煙草を取り出すと、一本を咥えて点火した。そして、箱ごとテーブル上を滑らせて、アイザワに寄越す。


「ありがたく頂戴するよ」


 二人は黙々と紫煙を燻らした。レイジの視線は時折エマの方へと向いていたが、アイザワのそれはレイジの顔にずっと向けられている。レイジが中程まで燃焼が進んだ煙草を灰皿でにじり消すと、アイザワも同様に同じ灰皿へと手を伸ばし、先端を底に押しつけた。


「君を泳がせた理由を訊かないね?」


 アイザワはそこで軽く笑み、言った。


「君がハセクラを殺すために動いていることは知っていた。だからこそ、それを遠回しにでも援助しようとしたのだが……。もしも、それで君が窮地に陥れば、全力で出張って物資を惜しまなかったし、良い兄貴として手助けしたつもりなんだけれどね」


 鼻で軽く一笑に付すと、レイジは応じた。


「俺に兄弟などいない。追放することが俺にとって良いことだと信じる兄弟なら、なおのこと必要ない」


「そうか」


「ともあれ、要らん世話を焼いたな。それが原因でお前はこれから死ぬ」


 くくく、とアイザワが喉を鳴らし、二本目の煙草に火を点けた。立ち上る紫煙に、目を細めながら、しかし、二人は何も言わない。


「それで」レイジは口を開いた。「お前を殺すには何回殺せばいい」


「単刀直入だね」アイザワは笑いながら言う。「きっと君には殺せないさ」


「首を落としたとする」レイジが人差し指で軽く空を横に切る。「それでどうなる」


「そうだね、きっとなんとかなって修復される」


「心臓を潰した場合は」


「体内の再生臓器抽出物が急速修復する。まあそうだね、今、君が用いる火力では完全破壊は不可能だろう」


 レイジが肘をテーブルに突き、身を乗り出した。


「言い切れるか」


「言い切れるとも」


 アイザワの表情に嘘は見られない。視線すら動かず、口の端も歪んだままだ。アイザワは出し抜けに言った。


「協力しないかい?」


 何をだ、とレイジは訊く。


「この世界の新たな創世をする手助けさ」


「神にでもなるつもりか」


 高らかにアイザワは笑い、身を背もたれに預けた。そして、腹の前で指を組み、それから首だけをレイジに向ける。


「神なんてものになるつもりはないよ。そんなのは本当に傲慢な考えさ。たかが一種類の生物種を創っただけで神様だなんてものになれるとは思ってないからね」


「それならよかった。俺は神殺しができるほど器用でも強くもない」


 アイザワがレイジと鏡写しのように同じ姿勢を取って、顔を近付ける。


「わたしは壊したいんだ。こんな身の上だからね。全てを破壊して、ゼロから自分を始めたい。そのついでに世界を面白おかしくしてみようと思ったんだ」


「なら他所の土地にでも行けばいい。気に食わないことをどうにかするのが人類を弄する理由なら、それは下等な考えだ」


「上等も下等もないよ。わたしはそうしたいからそうする。物心ついた時、わたしは育成カプセルの中でハセクラを見ていた。脳裏に浮かぶ彼の人生を追体験するかたわらで、彼の矮小な人間性をずっと見ていた。思ったんだよ。人間はなんて下らないんだ、とね」


 レイジが身を戻し、背を真っ直ぐにする。アイザワも同じようにした。アイザワは続ける。


「生きることは破壊することだよ。東京以外にも、世界は常に汚染し、消費されていく。循環なんてものは今の世の中には、正しくあるわけではない。ただ、順応はできる」


「それがネームレスか」


「あれもまた一つの順応の姿だ。外見こそ醜いが、なんのことはない、二世代も先になればあれが普通になる」


「歪んだ進化論の行く末だな」


 アイザワは口元をさらに歪め、狂気じみた顔を作る。


「歪みならもうどこにでも見つけられるさ。東京がああなってから、そこで人間を狩るようになってから、君たちクリーナーは活き活きとしていたね。『今日は何人始末した』『これで今晩も酒が美味いな』ってね。もうどこにも正常なものなんてないんだよ。倫理観もなにもかもね」 


「それは違う」レイジは拳を握りながら言う。「お前はあの地で必死で生き抜こうとする人間たちを目の当たりにしていないからそう言えるだけだ」


 アイザワが口角を上げながら言った。


「garbageに随分肩入れをするね?」


「少なくともお前よりは人間らしいからな。あるいは、ホームの人間、いや、俺を含んだ多くの人間たちよりもだ」


「駒がまた面白いことを言う」


「俺は駒なのかもしれないが、彼らは違う。俺のことはこれから探っていくしかないが、彼らはすでに自分を知っている。それが生きることだ。戦うことだ」


 レイジが椅子を倒す勢いで立ち上がり、腰の高周波ナイフを抜いた。


「生きることは戦うことだ。だが、それは奪うためではない。生きる目的のために必要だからそうする。それが、人間の本質だ。人間が下らないのではない。偶然お前が見た人間像を全てに当てはめるな」


 アイザワは、静かに立ち上がり、椅子の位置を正してから歩み出した。


「君とはいい兄弟になれると思っていたんだけど、どうやら見込み違いだったようだね。同じ人間によって創り出された擬似クローン。出生も不確かな呪われた子供。目的はあそこに寝ている女を助けるため、それだけの、本当に哀れな存在。……はあ」


 アイザワが両腕を広げて、作り出された新緑の空気を吸い込む。


「レイジくん、どうしてもやる気かい? 今ならあの女を利用して、復讐も支配もできる。わたしは世界を破壊できれば満足なんだ。後のことは君が好きにすればいい」


 レイジは思う。この男は、自分と同じように本当の自分を得るために生きてきた。その点でレイジと彼は同一の望みを抱いていた。だが、彼は周囲を利用し、裏から操ってきた。この男は憎んでいる。哀れみなどという言葉を用いてはいるが、全てを憎んでいる。世界の再建でも創世でもなく、ただ、破壊を望んでいた。永遠の命などは副次的なものであり、一瞬でも長く世界の破滅する様を見ていたいだけなのだ。


 ナイフの柄を握り、レイジはアイザワを見つめた。それこそ、哀れみの、憐憫の成す色を宿していた。


「もういいんだアイザワ。ここで終わらせてやる」


「いいや、始まりさ、レイジくん」


 アイザワは白衣の下から、レイジの持つ物と同型の高周波ナイフを取り出した。黒い刃が高速で振動する。


「終焉の時は、今始まったのさ」


 二人の男が相対する。レイジが腰を低く構えるのに対し、アイザワの構えは一見隙だらけだった。ぶらぶらと高周波ナイフを弄ぶように振ったり、左右に持ち替えたりして、レイジが仕掛けるのを待っている。


 レイジはすり足で芝の上をゆっくりと左へと動く。アイザワはそれに応じるように、しかし、足取りは日向を散歩するかのように、同じく左へと歩いていく。円を描くように二人は動いた。その円はじりじりと小さくなり、距離が縮まっていく。


 今回ばかりは先手必勝というわけにはいかない。一撃当てたところで、相手は即座に修復を開始してしまう。先の会話が本当なら、首を落とし、心臓を破壊し、その上で全身を行動不能になるまで分解する他ない。加えて、アイザワの人格には、ホムラに移されていたようなバックアップがあるだろう。それ故に、今すぐアイザワと決着をつけることは難しかった。


 レイジは、待った。ここでアイザワを殺し切るための合図をだ。


「レイジくん、何かを待っているね?」


 アイザワがその目論見を看破した。


「あまりにも呆気なく殺してはつまらないからな。お前の驚くことをして、最期の彩りにしてやろうと思ってな」


「それは楽しみだ。でも、あまり時間をかけてしまうとエマは消滅してしまうよ。若返りの力が過剰だからね」


「お茶に応じるぐらいの時間はあったからな。もう少し寝かせてやるさ」


 お互いのナイフが届くまであと二メートル。三歩も大きく踏み込めば、互いの射程距離内だ。


「白雪姫は幸せだったと思うかい、レイジくん」


「御伽噺に興味はない」


「眠っている間に現れた男に急に口づけされて目覚めるんだ。なかなかの急展開を迎えた上で、結局恋愛に陥るというのは、本当に幸せだったのだろうかね?」


「俺はエマとどうこうなるつもりはない」


 アイザワの挑発に乗るほど、レイジは頭に血が上っていなかった。冷静に、そして、短く返す。


「他にいい男が見つかったのなら幸せを祈るのみだ」


「そうか、君はそういう男だったか。なるほどね」


 アイザワが急速に距離を詰めた。


「つまらない!」


 レイジは、繰り出された鋭い右手の突きを外へと払い、空いた相手の左脇腹に強烈な回し蹴りを放った。べき、という音が骨を通じて聞こえてくる。アイザワの肋骨が折れたのだ。


「ごふっ」


 しかし、即座に身を離すべきタイミングで、アイザワはレイジの脚を左脇に抱え、その太腿にナイフを振り下ろそうとした。レイジは左足を浮かせ、アイザワの胸を強く蹴り飛ばす。果たして、切断される寸前でレイジは右脚を抜き去ることができた。


「痛いもんだね、骨折というのは……。産まれて初めてだよ」


 ようやく体を退かせたアイザワは修復部位を抑えながら苦悶の表情で言う。


「お互い七歳だからな。初めてのことはこれからもたくさんある」


「君がまだ体験していないことは?」


「死なないとたかを括っている人間を殺すことぐらいだ」


 アイザワが再び距離を詰める。レイジはステップインして迎撃する素振りを見せてから、左真横に身を動かし、右回転しながらナイフをアイザワの後頸部に押し当てた。だが、浅い。頸部を完全に切断するには足りなかった。アイザワの突進の速さを見誤ったのだ。


「今のは危なかった。首がまだ体とお別れを言っていなかったからね」


「今の内に言っておくよう聞かせておけ」


 修復時の細胞が発する熱で、アイザワの頭にわずかな蒸気が上がる。


「レイジくん、言い忘れていたことがあるんだが」


 アイザワの大振りのナイフ捌きを躱しながら、レイジは外の様子を見ることを止めなかった。


「わたしは記憶素子に戦闘記録の全てをダウンロード中でね。あと二分以内に、君たちクリーナー、もちろん君のもだが、戦闘パターンが網羅できるんだよ」


「ならもう俺の負けは確定事項だな」


 ふふ、とアイザワが笑いながら繰り出す技が、確かに向上していく。速度、精度、そして、練度。レイジは身を躱すだけで精一杯になっていく。


 隙が次第に減っていく。つい一瞬前のアイザワの動きに見えた甘さが次の瞬間には消え去っていく。合間を縫って突き出したナイフは空を引き裂く。その流れで横に薙ぎ払い、アイザワの腹部を横に撫で斬りにした。しかし、浅い。


「あと一分も要らないかもしれないね」


 負傷部位を修復しながら、アイザワは距離を取る。だが、それは誘いだった。連撃を繰り出そうと踏み込んだレイジの大腿部に刃が当てられそうになる。彼はそれを寸前で回避した。いや、アイザワが寸止めしたのだ。


「もう少し頑張れるかい?」


 にたり、と笑むアイザワ。


「今ので脚を落とさなかったことを後悔するぞ」


「君がエマの命を早々に断たなかったことのようにか」


「俺はその件で後悔したことなど一度もない」


「それはそれは!」


 アイザワの攻撃が開始される。まず、胸部への刺突。流れるように踏み込むと、その足で前方宙返り。ステップにした方でない脚でのかかと落とし。レイジはこれを腕で受ける。次いで振り下ろされる高周波ナイフの攻撃、が来ない。


「!?」


 脳天にナイフが落ちてくる瞬間にレイジは後傾してそれを避けた。


「惜しい!」


 アイザワは空中で死角から刃を放り投げ、重力と高周波振動のみでレイジの頭を割ろうとしたのだ。眼前で把持されるグリップを見つめる余裕はなかった。


 即座にレイジは一度後方へと宙返りすると、プレートキャリアを脱ぎ捨てた。相手の攻撃を受けられる回数はそう多くない。体は軽い方がいい。腰の音響手榴弾、シリンジ弾二本と、特級品再生臓器抽出物一本の在処だけを空いた手で確認しながら、レイジは攻撃に転じる。


「いいね、レイジくん。今、君が何を考えているかが予測できるようになってきた。例えば、こうすれば」アイザワが袈裟にナイフを素早く振るう。


「君はナイフで受けることはせず、右後方へと体を後退させる」


「ならこれにはどうする!」


 後退した勢いを一気に反転させ、右の後ろ回し蹴りを放つレイジ。


 わたしならこうするね、と言いながら、アイザワはそれをまともに受けて、先ほどと同じように足首を斬り落とそうとナイフを意識させた。だが、レイジの姿勢は先ほどのようにアイザワを蹴飛ばすことができるようにはなっていない。


「まずは脚を一本いただこうか!」


 レイジは、果たして、右脚を捨てた。膝から下が切断される瞬間に脳髄が痛みに焼かれる。だが、彼は無為に脚を犠牲にしたわけではない。視界の端に、信号弾が打ち上がるのが見えたからだ。そして──


 がきん、という音が耳に届いた瞬間、アイザワが一瞬怯んだ。音響手榴弾を起動させておいたのだ。瞬間、レイジは残された左脚で芝を蹴り付け、アイザワに組みついた。


「な、何をしたっ!?」


「聞こえてないだろうが、答えてやろう。サプライズだよ」


 レイジはシリンジ弾を一本、アイザワの心臓部へと突き立て、そして、高周波ナイフで滅多刺しにする。アイザワが声を発さなくなるまで続けた後、それでも修復を始める肉体に、レイジはさらにナイフを突き立てていく。


 先の信号弾は、事前に決めた、ナガレとニカイドウがアイザワのバックアップを無効化した時に打ち上げられるものだった。この瞬間、この一太刀の手を緩めてしまえば、アイザワは何度でも復活するのだと言い聞かせ、レイジは手を血に染めた。斬った端から肉片を遠くへと放り、さらに削いだ肉を別の方向へと投げ捨てる。


 そして、ビオトープのエレベータが開く瞬間まで、レイジはそれを続けた。切断された右脚からの失血で意識は朦朧とし始めていたが、彼はニカイドウの姿をなんとか認めることができた。


「ニカイ、ドウ。やった、ぞ。俺たちの、勝ち、だ」


「レイジ! おめェ脚が!」


「拾っ、て、きてくれ、修、復、する」


「待ってろ!」


 ニカイドウの介抱によって、レイジは意識を取り留めたが、待っていたのは労い言葉でも朗報でもなかった。


「アイザワはまだ死んじゃいねェ!」


「なに……?」


「最後のバックアップが残されていやがった!」


 ドームの外に聞こえる悲鳴が、遠く、レイジの耳を鳴らした。

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